【第3章 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば】全年齢版④
【第3章 第4話】
「蓮、おーい蓮? そろそろ起きて」
はっきりしない意識の底で、やわらかくて、聞き慣れた声が呼んでいる。
「蓮くーん!」
「んー……もうちょっと……」
身体を揺さぶられて、薄く目を開けた瞬間、視界いっぱいに、柊の顔があった。
「うわっ……! ち、近いって!」
朝から整いきった顔をこの距離で浴びて、胸の鼓動が一気に早まるのが分かる。
「はは……ごめんごめん。蓮があまりに起きないからさ……それに、まぁ、可愛かったからつい」
後半は小さくて、はっきりとは聞き取れなかった。
「それに、なんだって?」
「あ、いいからいいから! ほら、早く今日の……デート、行こうぜ。先に下で待ってるからな!」
少し照れたような表情を残して、柊はそのまま台所の方へ消えていった。
……デート。
今までも、二人で出かけたことは何度もある。でも、「デート」なんて言葉を向けられたのは、初めてだった。
「デート、か……」
布団の上で、ひとり呟く。頭の中で、その言葉を何度も転がす。これは……柊の、好意だと思っていいんだろうか。
少しずつ大きく変わっていく自分の気持ちと、向き合っていいものなのか。それを、柊は受け入れてくれるのか。
まだ、答えは出ない。
朝の光は、思ったより容赦なかった。階下に降りると、店の奥から吉岡さんが顔を出した。
「おはよう」
それだけ言って、俺と柊を順に見る。いつもと変わらない視線のはずなのに、今朝はなぜか、少しだけ居心地が悪かった。
「こいつが例の柊くんだな。ひまわりの里の件があったからな。しばらく一緒に住むのは、構わねぇ」
淡々とした口調だった。
「犯人はまだ捕まってない。なんか困ったことがあったら言えよ……無理はするな。若いと、つい勢いで動きがちだからな。じゃあ、今日は息抜きしてこい。街の様子も、見とけ。……帰りは、遅くならないようにな」
自分たちを気にかけてくれる。それはとても幸せなことだ。
街でインテリアショップや洋服店を巡る。行き交う人たちの口や街灯モニターは、昨日の事件の話で持ちきりだった。
「歯ブラシと食器も買ったし、替えの下着も揃えた。
これで、大体全部かな?」
「そうだな……一気に買い歩いたもんな。ちょっと、そこの公園で休んでいこう」
レジ袋を持つ手が、自然と並ぶ。どちらが意識したわけでもないのに、歩く速さも同じだった。こんなきっかけがなければ、二人のルームシェアに、きっと、もっと浮かれていた。新しい生活。二人で選んだ日用品。それだけで、少し嬉しくなるはずなのに。
「……変な感じ」
ぽつりと、柊が言った。
「普通ならさ、こういうの、もっと楽しいって思うんだろうけど」
「……ああ」
街の至る所に見える警官の姿、遠くにパトカーのサイレン。人々の空気はどこか重たい。
「喜んでいいのか、分かんなくなるよな」
柊は小さく息を吐いて、でも、袋を持つ手は離さなかった。
「それでも……一緒にいられるのは、ありがたいけど」
その言葉に、胸の奥が静かに温まる。喜びきれない。でも、手放したくもない。そんな気持ちを抱えたまま、
二人は並んで、公園へ向かって歩き出した。
公園のベンチに腰を下ろす。
「……静かだな」
零した言葉に、柊が視線を巡らせる。平日の昼間。人影はまばらで、遊具も、どこか手持ち無沙汰そうに見えた。
「前だったらさ」
無意識に、口を開いていた。
「日向が、あの辺走り回ってたよな。あっち行ったり、こっち来たり」
柊の肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「……そうだな」
それきり、言葉が途切れた。柊は前を向いたまま、膝の上で指を組む。何かを噛みしめるように、しばらく動かない。風が吹いて、新芽が芽吹く木々を揺らす。
「……すぐ、戻るよ」
柊が、静かに言った。自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「また、ここで。今度はちゃんと、みんなで」
その横顔を見て、俺は何も言えなくなった。
ただ、隣にいることだけが、今できる全部だった。
吉岡憲司
吉岡酒店の二代目店主。
元レスリング部で、当時のあだ名は「東洋のアナコンダ」。
面倒見が良く、口数は少ないが情に厚い。




