再反論
一番長くてとっつきやすいので「文学作品における救済とは何か ーAさんの批判に応えるー」という私への反論エッセイを軸に再反論していこうと思います。
「私がAさんが理解していないと思うのは、ドストエフスキーにとって、ナポレオンになろうとするラスコーリニコフは批判の対象ではあるが否定の対象ではないという事である。」
そんくらい私にもわかっています。私はラスコーリニコフの希望への意志を肯定的に書いたかもしれませんが、当然ながらその際に発生する全てを肯定している訳ではありません。当然人間評価というのは一つの軸だけでやっていいものではないでしょう。というか何で私が殺人者を全肯定していると思ったんですか? さすがに馬鹿にしすぎですよ。
「しかしドストエフスキーがまさに考えていたのはこの事だった。つまり、ある人間の希望が叶えられる為に、他人を踏みつけにする事は許されるだろうか?」
「また、Aさんは「ある人物が主体的に救われたとすると、その為に犠牲になった人物やこの世界で救われずに死んでいった人達はどうなるのか」という事を考えていない。この点をAさんは見ていない。これは村上春樹と同じだ。」
一応私も誰かを犠牲にして生きているという事は考えています。しかし「100%本気で考えだしたら生きていける訳がない」というのも事実でしょう。ヤマダヒフミ氏は頑張って考えている方かもしれませんが、生きている以上結局どこかで切り捨てています。ドストエフスキーも大審問官にキリストの口づけを拒絶させる事はしませんでした。これは全く重大な場面ではありますが「ある人物が主体的に救われたとすると、その為に犠牲になった人物やこの世界で救われずに死んでいった人達はどうなるのか」という問題は何も解決はしていません。確かにドストエフスキーと村上春樹は違います。ドストエフスキーはラスコーリニコフを救ってしまった事でイワンと共に苦しんだのに、村上春樹は「自分がシロを殺したかもしれない」なんて独白しつつも大して苦しんでいないのがバレバレです。しかし結局ドストエフスキーも苦しんだ挙句に信仰を選んだのです。そういう意味で本質的に同じといったのであって、「自分とドストエフスキーは他者を踏みつけにしていない」とか言い出しそうな勢いで全く自省が見えないまま村上春樹との違いを強調されるので「それは違う」と言っているのです。例えば「命を奪う重みを感じながら肉を食べる人」と「何も考えず肉を食べる人」は違うは違いますが、本質的に同じという見方もできます。自殺したところでエゴの為に一個の生命を殺している以上結局は同じ事です。
「Aさんが「罪と罰」と「多崎つくる」を繋げているところを見ると、Aさんは、小説というものを「キャラクターが苦しみながらも前進して、最後には内面的に救われる事」に魅力を感じて読んでいるのだろう。」
全然違います。私はキャラクターが内面的に救われようが救われまいが、表面的に明るかろうが暗かろうがどっちでもいいです。肝心なのは人間を描くことを通して見えてくる作者の根本的な思想が明るいかどうかです。分かりやすく言うと人間が好きかどうかです。その点ドストエフスキーやシェイクスピアは明るいので好きですが、ヤマダヒフミ氏の作品は根本が暗いので読んでも暗い気分になるだけです。
「Aさんの批判はある意味で私にとっても示唆的だが、ラスコーリニコフがナポレオンになりたいというのが「希望」だという事は、結局は現代的な意味においての救済とは自我の拡大であり、自我を他人に認めさせる事にあると言っていいのだろう。Aさんの一文からはそういう思想が見えている。」
違います。私が言う希望はエンタメ的な自我を他者に認めさせる希望には限っていません。どんなに死にたくても体が勝手に生きようとしてしまうとか、諦めた方が楽になるのはわかってるのに無意識に求めてしまうとかそういった苛烈な意味合いも含んでいますし、何かを失う事で何かを得るという悲劇的精神も希望の一種だと思っています。ヤマダヒフミ氏はイワンが天国への切符を突き返した姿を希望からの解脱と思っているかもしれませんが、イワンは「天国に行くことを認めたら自分が自分で無くなる」からこそ、自分を守るために突き返したのです。他にもキリストのように自分の身を滅ぼしてでももっと大きな実質を得ようとするというのも広義の希望だと思っています。なぜ私がこんなに希望の定義を広げたがるというと、悲劇というのは生物的根源的欲求としての希望の否定ではなく、昇華であると思っているからです。そうでなければキリスト教が理解できないからです。キリストが恐れや痛みといった肉体の裏付けがなく平然と死んでみせるだけでは全然悲劇ではないし誰も感動しないのです。悲劇が成立するのは「今の命を否定せず痛みを持って噛み締めながら、永遠の命という実質を守る」という希望が生存欲求の昇華として理解できるからこそ、一番深い根本が同じであるからこそです。だからこそ多くの人々が自分事としてキリストと繋がり感動したのです。もちろん高い低いはあるでしょうが、物質的希望も悲劇的希望も根本は変わらないという事です。一方ヤマダヒフミ氏の悲劇には殆ど肉体の裏付けが見られず、肉体と精神を完全に切り離してしまっているので「平然と死んで復活するだけのキリスト」のような形而上学的な優越思想でしかないのです。
……大体こんな感じでしょうか。どうも私への反論というより反論しやすい架空の人物をでっち上げてくどくど言っているようで全然噛み合っていない感じがします。しかし私も多分架空のヤマダヒフミ氏をでっち上げて批判していると思うので、まあそれはお互いさまという奴でしょう。実際、今でもヤマダヒフミ氏の作品の中にはいいと思える作品もない事はないですし、私がヤマダヒフミ氏を誤解している部分もあるかもしれません。10年前の文章も引用させて貰っているので、今とは考え方が変わっている部分もあるでしょう。ヤマダヒフミ氏も彼なりに地球に帰還しようとしている最中なのかもしれません。しかしヤマダヒフミ氏が自分とドストエフスキーを別の次元に置いているのは今回の問答からも見えてきましたし、私がヤマダヒフミ氏の影響で別惑星に飛ばされてしまって危うく窒息しかけたのは確かです。同じように窒息しかけている人が他にもいる事は想像に難くありません。この文章を書いているのは自分の中のヤマダヒフミ的精神に区切りをつける為でもありますが、窒息しかけている人たちが地球に帰還する一助となりたいというのもあります。
思い返してみると私がヤマダヒフミ氏に最初に疑念を抱いた時、ネットを探して誰かまともな批判をしていないか探したことがあったのですが、全く見つける事ができませんでした。全く悲しい事です。何故私以外誰一人立ち向かおうとしないのでしょう。私を助けてくれたのはドストエフスキーと坂口安吾だけで同時代人は誰一人助けてくれませんでした。まあヤマダヒフミ氏は誰もが知ってる有名人ではありませんが、しかしそれにしても一人くらい物申してやる人はいなかったのでしょうか。……私がこうして必死で地球帰還事業をやっているのも、好き放題言われているのに沈黙している現代に変わって、当時の自分を助けたいという気持ちもあるかもしれません。




