ヤマダヒフミ氏に一番言いたかったこと
さてそろそろヤマダヒフミ氏の話も終わりにしようかとも思いましたが、一番言いたかったことを言いそびれていました。「何でドストエフスキーが好きなのにドストエフスキーと真逆の事言ってるんですか?」これに尽きます。ドストエフスキーの思想なんて明白すぎるほどに明白で、要するに「復活しろ!」ってことでしょう。特にカラマーゾフの兄弟が分かりやすいですが何回も何回も復活の歓喜や復活への祈りが強調されていきます。「あなたは死者が復活する訳がないとキリスト教を鼻で笑ってるけど、今あなたジューチカが生きていて嬉しいと思いましたよね? ミーチャが無罪になって欲しいと思いましたよね? だったら理屈を超えて復活してほしいという祈りはあなたの中にもあるんです。あなたも理屈を超えて精神的に復活してください。みんなで酸いも甘いも何もかもを復活させましょう」……こういう事でしょう。無論ドストエフスキーは近代人らしい鋭い批判精神を持っているのでこんなに単純ではないのですが、それでも鋭い批判精神を持ったまま何故かキリスト教を信じているらしいのです。この奇妙な事実が一種のミステリーのようになっていて、私は「なんであんたのようなゴリゴリの近代人がキリスト教を信じてるんだ?」と興味に駆られて読み進めていったのですが、読み終えると「そういう事だったのか」とすっかり納得してしまいました。これに対して「いやどういう事?」と聞かれても「全部読んでください」としか言いようがありません。そういう必然性がドストエフスキーにはあります。
罪と罰やカラマーゾフの兄弟というのは近代人にも理解しやすいように翻訳された聖書とみることもできます。それも私のような何百年後の東の果ての島国の異教徒をも「復活への祈り」という普遍性で感動させる事ができるというのですから全く驚くべきことです。とにもかくにもドストエフスキーというのは普遍的な「復活への祈り」に尽きるという事です。だから罪と罰やカラマーゾフの兄弟の核心部分に感動したという人は「(キリスト教的な意味でなくとも)復活とはかくも喜ばしい事だ。自分が立っている場との接続を取り戻すことで自分も精神的に復活したい。できないにしても努力したい、祈っていたい」と無意識のうちにでも思うはずなのです。
しかし、ドストエフスキーに感動したというヤマダヒフミ氏は別惑星に飛んでしまって肉体を追放したまま全然復活する気がないように見えます。あろうことか自分が立っている場を呪うような事ばかりして、生物を超越して希望も何もかも捨て精神だけになる事を理想としているようにすら見えます。ドストエフスキーを称えながらドストエフスキーの真逆をひた走っているのです。……そこが全く全然意味が分からない。心底「なんで?」って思います。いっそのことヤマダヒフミ氏がドストエフスキー大嫌いで「復活なんてくだらない。お前は愚かな弱者だ」なんて言い放っていた方が納得感があるくらいですが、どういう訳か高く評価しているようなのです。何故でしょう? この謎の鍵はヤマダヒフミ氏のエッセイにありました。
「私は、現代人はみなラスコーリニコフなのだと思っています(だからこそ「罪と罰」は現代人に響く)。ただ、ラスコーリニコフたる現代人は、接吻すべき大地を持たない。大地は、現実的に言ってもアスファルトに覆われている。我々は大地とのつながりを持つ事ができず、自らの合理性の中に閉じ込められている。現代人は罪を償う事ができず、「復活」するのが禁じられたラスコーリニコフなのです。(「復活」について)」
アスファルトの上にも人の生活があるんだから、アスファルトに接吻したらダメって法はないでしょう。アスファルトが嫌なら都会にも土くらいあるから探してみてください。どうしても都会が嫌なら田舎に行ってください。いくらでも日本古来からの土はあります。あなたは「接吻すべき大地を持たない」のではなく、探す気がないのです。あなたは「復活」するのを禁じられたのではなく、「復活」する気がないのです。だって下手に「復活」して今さら地球に帰還してしまったら、矛盾しながらも必死に現代を生きている「俗人」共と同じになってしまいますもんね。それはあなたにとって大層苦痛を伴う損な事でしょう。しかし損をしてでも地球に立って生きる勇気を持たなければ、矛盾しながらも生きる肉体の裏付けがなければ自己も精神も悲劇も当然文学も何もないのです。
「ラスコーリニコフが自身の罪を、殺人の過去を告白したのはソーニャに対して出会って、親友のラズミーヒンや真面目な妹のドゥーニャに対してではない。結局、これら善良な人々は、ラスコーリニコフの事を理解しはしないであろう。なぜなら彼らは『彼岸』にいるのだから。ロシアの、泥土のような社会にも依然として彼岸はあった。だとすると、犯罪者ラスコーリニコフの此岸とは一体、どんなものだろう? ラスコーリニコフが罪を語るのは、売春婦たるソーニャであり、そこにラスコーリニコフは自分との同一性を認める。」(21世紀から見たドストエフスキー)
ラスコーリニコフとソーニャは共にパンピーとは別の世界にいて、だからこそ二人は繋がることができたという事のようです。確かにそういう側面はあるでしょうが全く本質ではありません。ラスコーリニコフにとってソーニャが決定打となったのは異存ありませんが、しかし当然ラズミーヒンもドゥーニャもナスターシヤも明確にラスコーリニコフの地上帰還へと寄与したのです。ロシアの大地とそこに根付いたキリスト教も、少年ラスコーリニコフが苦しむ馬に流した涙も、何もかもすべてが彼を地上に引き戻したのです。だからこそ彼は人々の中にあってあんなに苦しんだのでしょう。精神だけが浮かぶ別惑星から、肉体を伴った地上へと引き戻される産みの苦しみを受けたのです。そして実のところ、ソーニャもラスコーリニコフも全然世界から追放されていなかったのです。当然ソーニャはロシアの大地と繋がっていますし、ラスコーリニコフも実はつながっていたのです。彼は世界そのものと自分の無意識に徹底的に洗われる事でただ繋がりに気づいたのです。ラスコーリニコフとソーニャが共に別の世界にいるなんてことは全く表面的な話でしかなく、強調する必要も感じられません。なぜこんなことを強調するのでしょう。
どうもヤマダヒフミ氏はドストエフスキーが描いた偉大なる再生の物語を、二つの精神だけがフワフワと寄り添うだけのセカイ系の閉じた小話に堕してしまっているのかもしれません。だからこそドストエフスキーを賞賛しながら自分は全然復活しない、する気もないししたくもないという態度を取る事ができるのでしょう。ヤマダヒフミ氏からすればラズミーヒンもドゥーニャもラスコーリニコフをこの世界から追放するための舞台装置に過ぎないのかもしれませんが、全くの正反対です。ラズミーヒンもドゥーニャも世界の何もかもがラスコーリニコフを地上へと引き戻したのです。ソーニャがラスコーリニコフを抱きしめたのも、ただソーニャ個人が抱きしめただけの話ではなく、ロシアの大地がソーニャという一個の精神に宿って彼を抱きしめたのです。
罪と罰をヤマダヒフミ氏が見ると、「世界から追放された上に自分を傷つけるソーニャ」がより高い精神によって、「世界から追放されているが独善的なラスコーリニコフ」を回心させた……というだけの話になってしまうのでしょうか。罪と罰という物語は「追放のされ方が足りなかったラスコーリニコフを、ソーニャがより高い追放されっぷりによって救った」というだけの話になってしまうのでしょうか。
流石にこれは言い過ぎで、また私はヤマダヒフミ氏を創作しすぎかもしれませんが、しかしわざわざラスコーリニコフとソーニャの同質性を強調するというのは何だか嫌な感じがします。……いずれにせよあれほど偉大な再生と復活の物語を読み込んでもなお大衆を馬鹿にし、自己の肉体も無意識の希望も否定し、別惑星に留まったまま欠片も復活する気がないというのですから、全く絶望的な無感動と言わざるを得ません。
……ここまで書いていて思ったのですが、正直言うと私はヤマダヒフミ氏に復活して、どうにかこうにか別惑星から地球へと帰還してほしいのかもしれません。ドストエフスキーの直球ドストレートですらダメだったのですから私程度にヤマダヒフミ氏を復活させるなんて到底無理でしょうし、一人の人間……特にヤマダヒフミ氏のように教養がある人の考え方を変えられると思うのは傲慢というものでしょう。彼はもう完全に別惑星に固定されてしまっているのでもう手遅れかも知れません。しかしそれでも希望を持たずにはいられないのです。こんな希望はヤマダヒフミ氏に鼻で笑われてしまうかもしれませんが、しかしいくら切り捨てても雑草のように勝手に生えてきてしまいます。……全く厄介な話です。
もしかしたら私とヤマダヒフミ氏は精神の奥底が似ているかもしれません。一度ヤマダヒフミ氏の顔出しYoutubeを見た時には澱みながらも奥底に情熱を湛えたような……私と似た感じの目をしていたので、自分が映っているのかと思って一瞬ビックリしたという事もありました。ヤマダヒフミ氏がおすすめしていた神聖かまってちゃんもファンになりましたし、映画で感動したシーンなんかも大体同じだったりします。だから他人とは思えなくて自分を見ているようで余計に腹が立って、こんな異常な執着を働かせてしまっているのかもしれません。しかし、こんなことはもう十分です。
さて、もうあなたに言いたいことは大体言ったの大分スッキリしました。あとのことは知りません。精々別惑星で頑張ってください。あなたが鼻で笑う姿が目に浮かぶようですが、もう知ったこっちゃありません。今後あなたのエッセイを読むことがあっても斜め読みしかしませんし、コメント欄で感想を書くことも絶対にないので安心してください。
さようなら。今までありがとうございました。……さて、私はいい加減立ち上がるとしましょう。




