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おわりに

 さて、言いたいことを言ってだいぶ気持ちの整理もついてきましたが、しかし私はこれからどうすればいいんでしょうか。まずやるべきことは自分自身を取り戻すという事でしょう。以前どこかで「哲学の価値はどれだけ小さな石に躓けるかで決まる」みたいな言葉を聞いたことがあってそれは至言ではあるんでしょうが、しかしせっかく躓いても全然立ち上がる気もなく寝そべったまま「俺はこんな小さな石で躓いたんだぞー!」なんて自慢しても仕方がありません。確かに小さな石で転べる事は重要な素質かも知れませんが、寝そべっているだけでは仕方ありません。一番重要なのは転んでから立ち上がる際に見せる躍動なのです。確かにドストエフスキーも私も、近代人の宿命から盛大に躓いてしまい世界から浮ついているという点においては同様かもしれません。


 しかしドストエフスキーはそれではいけないと立ち上がり地下室から出ていきました。彼は自分の転びっぷりを鼻にかける事はせず、大衆の力を借りて自分の中に人間を見つける為に腐心したのです。だからこそ自己を取り戻し復活することができたのです。多分米津玄師や神聖かまってちゃんも躓いた所から自分なりのやり方で自己を取り戻していったのだと思います。私はやっと地下室から出る階段の一段目を手に掴んで、何とか立ち上がろうとしている最中です。何か文学を描いてみようとも思いましたが、まだまだそんな段階に到達していません。自己を全然つかんでいないからです。この世界で何一つ失う事ができる物を全く持っていないからです。だから何を言っても他人事のようで薄っぺらになるし、悲しも喜びも怒りも何もないし、当然悲劇も精神性もありはしないのです。


 自己を取り戻すためにまず私がやらねばならない事は、他者を愛するという事でしょう。それもただ愛するというのではなく、他者の実在性を愛さねばなりません。これは言葉にするのが難しいのですが、一番わかりやすいのは黒沢映画のあの感じです。現代人が着物を着て映画を撮ってもどうしてもコスプレっぽさが出てしまいますが、黒沢映画の登場人物たちは全く様になっています。まるで江戸時代にタイムスリップして撮ってきたんじゃないかと疑いたくなるほど、圧倒的に人間が世界に馴染んで調和しています。だからこそ海外からも高く評価されたのでしょう。


 狙ってああいう映画を作るのは現代ではもう難しいでしょうが、しかし案外田舎の農家の爺さん婆さんなんかが黒沢映画張りに土地とすっかり馴染んでいたりするものです。彼らにクワを持たせて着物着せてみても全く違和感なく様になっている事でしょう。100年前も200年前も、そんなに変わらない精神性を持った人がここに生きて喜びも悲しみも味わいつくて生きていたかもしれないと思うと、私は何とも言えない感動を味わう事があります。景色にしてもそうで田舎の風景……特に神社の周りを田畑が囲っている景色とか棚田なんかは大好きで、ずっと見ていると自分の実在性が取り戻せるような気すらしてくるのです。こういう小さい所から始めるしかないんだと思います。いきなり悲劇性やら高い精神やらから入ろうとするから無茶なのです。こいつは文学的に価値があるかどうかとかとか表面的な好き嫌いとかはいったん置いといて、どんな小さなことでも他者や世界の実在感を注視する事で隠された自分を発見していかなければなりません。


 まあ日本の大衆というか、日本という国そのものが全く掴み所がないので、日本全体として理解するのが難しいというのはあるでしょう。ドストエフスキー時代のロシアは中央集権的な社会で地形も割と平坦でキリスト教という軸があったのでロシアの大地で一括りにする事もできたのでしょうが、日本は地形からして多様すぎますし、封建制の歴史もあって地域ごとにある程度自立していて独自性が強いです。だから同じ日本でも福岡と大阪では全然精神性が違うし、同じ福岡でも北九州と博多と久留米でまた違うのです。なので土地と人間の結びつきを発見するのは、日本単位よりも地域ごと、特に土着の人が多い歴史ある中小都市の方が掴みやすいかもしれません。私が好きなのは福岡南部の筑後地方、久留米とか八女あたりのあの感じです。都会的で粋な感じのする博多とはだいぶ違っていて、やたら愚痴っぽくてネチネチしていて一見暗いように見えますが根底には妙な明るさがあるのです。悪口も大好きで引くほど好き勝手言うのに言った相手の事は別に嫌いじゃなかったりするのです。


 そういった人間臭さがよく表れていると思うのが、博多弁に似ているけど田舎っぽい感じのする筑後(ちっご)弁であります。交通の要所だけあって他地域の方言も結構取り入れていて、「とても」という意味の言葉だけとっても北九州の「ギャン」「ギャーン」(エグイくらいみたいなニュアンス)博多の「バリ」(スタンダードな感じ)佐賀系の「ガバ」(桁外れみたいなニュアンス)数が多い時に使われやすい「ばさろ」などと色々あったり、語尾にしても「じゃん」「やん」「たい」「たいやん」「ばい」「くさ」など色々あり、そういった豊富な語彙を巧みに使い分け低い抑揚でリズミカルに吐き出していくのも面白いですが、特に真価を発揮するのが愚痴を言うときです。


 犬がコロナで外出できずに筑後弁でグチグチ文句言を言っている動画がバズった事がありましたが、全くこの感じなのです。スーパーで人を捕まえては長話をしているお婆さんのように、自分のペースに無理やり持っていくこの感じがあまりに聞き覚えがあり過ぎてもう何度も見返しています。


https://www.youtube.com/watch?v=qe5USOX2lEI&t=1s


 200年前も300年前も「ごげん年貢ばたこつけらるっとどげんもされんめーもん」などと文句言いながら畑仕事をしている人々の姿を容易に想像する事ができます。同情を引いてでも少しでも自分の取り分を増やそうという大衆的エネルギーだけでなく、悲哀や不条理を嚙み潰して生きていく精神性もどことなく感じれるのです。

 私は筑後出身ではなく職場に筑後出身の人が多いだけですが、しかし筑後特有の精神というのは何となく掴めてきた気がします。俗っぽくて無意識的な所もあるのですが、しかし深く探っていくとどこか諦観やアンニュイな所も見え隠れして、悲劇的とまでは言いませんが悲哀的な側面も感じられます。一級河川筑後川の恵みを受けながらも度々決壊して大きな被害が出たり筑後川由来の風土病(現在は撲滅済み)に悩まされてきた地域で、今でも川が近い地域は大雨が降るとすぐ水没してしまいます。また南北朝時代には大きな合戦があり宮ノ陣や大刀洗といった地名の由来となっている他、古代には筑紫磐井がヤマト王権に反旗を翻して鎮圧されたという事もありました。そういった苦難の歴史が何か筑後の精神に影響しているのかもしれません。



 ……とまあこんな感じで、私は日本の一地域を掴んで実感を得ようとしているのですが、実感が得られるならなんだっていいのです。人間でもいいしペットでもいいし植物でもいいし、お気に入りの風景でもいいし、都会の景色でもなんでもいいのです。テクノロジーに実在を見出すという方向性もあるかもしれません。宮崎駿氏なんかは「都会は嘘ばかりなのでずっといたらダメになる」みたいなことを言っていて、その気持ちもわかるのですが、しかし一部のブルジョワのぞいたら何のリスクも負わずに田舎に引っ越すなんてのは無理ですし嘘だろうが何だろうが人間が生きている以上都会にも生活があるのも事実です。だからあまり切り口を限定しなくてもいいのではないかとは思います。


 さて……ほかにも色々事例を挙げていってもいいですが、それはまた他のエッセイで気が向いたら書くことにしましょう。とにかく私が言いたいのは、失う事ができる何かを勇気をもって愛さねばならないという事です。動物的欲求や希望やらも全否定せず、無意識の中の自己も受け入れなければなりません。そして他者や世界の中に隠れている自分の欠片を集めて、自分の実在を取り戻していかねばなりません。もっと正確に言うと、自分の実在に気付かねばなりません。でなければ何一つ失う事も得る事もできないのです。私は別に文学という手段に拘りはないのでまた文学に手を出すかどうかは分かりませんが、ともかく自分を取り戻したいとおもっています。私は訳の分からない別の惑星で生きるなんてことはまっぴらごめんなのです。


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