私の感想2
このページの議論の中で私はヤマダヒフミ氏の作品を批判していますが、今思うと議論の中で作品批判をするというのは一種のズルではあります。読者の「つまらない」という感想に作者は反論しようがないからです。そのあたりは加味した上で読んで頂けると幸いです。
ヤマダヒフミ氏の返信を読んでみて「全然嚙み合ってないし言いたいことが伝わっていないな」というのが第一感でした。何だか肩透かしを食らってしまった格好でしたが、とにかく気を取り直して論点整理した上で一週間近く推敲し、新たな感想を投稿しました。
『>あなたの言っている事はあなたの願望を映し出したものだと思います。あなたが多崎つくるを評価するのは作者が作品内で主人公を救おうとしているからなのでしょう。
私の考えがまとまってなくて誤解を招いてしまったようですが全然そういう事ではありません。
現実に安易な救済を持ってくるのは私も間違っていると思います。
ただ現実が天国でないのと同じようにに現実が地獄であると断言するのも間違っている、
実際にはどちらとも言えないというのが私の考えです。
例えば私が監禁されて毎日耐えがたい拷問を受けていたとして、チャンスがあったら自殺を狙うと思います。
今私が自殺する気もなく生きていられるのは所詮地獄を知らないで済んでいるのと、そのような状態にある人が現実にいると知っていながら完全に共感しきれていないからです。他人だと思って切り捨てる事ができているからです。自分はそうならないと思っているからです。それは間違っているし罪な事でしょうがキリストでもないのでどうしようもありません。人間とは大いなる誤謬でだからこそ生きていられます。
翻ってヤマダヒフミさんはどうでしょうか。
ヤマダヒフミさんはこの世界が地獄だとご存じだそうですが、だとしたらなぜ生きていられるのでしょう。
事はそれほど単純ではないというのはわかりますが、どんな拷問をされても自殺しない自信があるのでしょうか。本当に地獄を味わったら生きてはいられないと思います。ヤマダヒフミさんの文学に相当な熱量があるならどんなに辛くても生きようとする姿を想像することができたかもしれませんが、まあ難しいでしょう。
ではなぜヤマダヒフミさんは地獄を知りもしないのに平然と地獄を語り、人の身でありながら「現実は地獄」と言い切れるのでしょうか。これはもう現実より上位の文学ワールドに立って、現実が地獄とも知らずに必死にもがく連中を見下したいからとしか思えません。
確かに「救われない様を徹底して描く事がフィクションにおいてはむしろ救済になる」事はあるでしょう。
しかしスタヴローギンは自殺しましたがドストエフスキーはしませんでした。スタヴローギンとドストエフスキーの間には距離があります。その距離こそが重要な部分です。
一方ヤマダヒフミさんは主人公に自殺させる展開にしたとしても、スタヴローギンとドストエフスキーの間にあるような溝をほとんど見せてくれません。距離が近すぎるんです。ヤマダヒフミさんが地獄を知ったかぶりしているからそうなってしまうのでしょう。
特に酷かったのがタイトル忘れましたが娘を殺された男が海に自殺しに行く話で、海に落ちて溺れてるのにもがきもせずあっさり死んだので驚きました。溺れた人は必死になって水を空気のように吸ってしまい大層苦しんで死ぬそうですがこれはどういう事なんでしょうか。「この世界は夢みたいなもん」という結論を肯定してくれている分には視点をくれてやるけど、余計な事しそうになったら剥奪し現実に溺れもがく人間を無視するという事でしょうか。あるいは宗教的救済の一環として作者特権で苦しみを無しにしてあげたんでしょうか。いずれにせよ酷すぎます。
確かに文学は「この世界は夢みたいなもの」といった俯瞰視点を土台として作られるものですが、「この世界は夢みたいなもの」だけ示したところで何にもなりません。それはそれとして人間は誤謬の中で生きていかなければならないのですから、結局はどう生きるか、どうもがくかが重要なのです。仏教も散々浮世離れしたような事を言っておいて実践となると当たり前のような事ばかりいいますし、芝浜も最後にはこれが夢であって欲しくないという祈りで終わっています。この世界は夢みたいなものだけど、それでも……だからこそ……が文学なのです。そういうバランス感覚が殆ど見られず「この世界は夢」で話が終わってばかりなんですよねヤマダヒフミさんの作品は。神妙に世間を見下したり死を選んだりする主人公の背中に乗っかって大衆を見下して、自分の欲望も他人の欲望も鼻で笑っているようです。
神聖かまってちゃんもそうでしょうがクリエイターっていうのは現実に自分を救おうとするというか、作者が現実に溺れてもがいた形跡が作品になっているんだと思います。フィクションの中で宗教的救済だのなんだの言っても、彼らも人間だから自分が一番救われたいのです。そういう意味では村上春樹もドストエフスキーも本質は変わりません。ただドストエフスキーは村上春樹よりはるかに強欲なので安易な救済では我慢できなかったという事でしょう。自分を救う為に全人類も救う必要が出てきて、それが文学になっているんだと思います。
その点ヤマダヒフミさんは他人を見下したい以外の欲望が殆ど見えてきません。あまりに正しすぎてもがいている形跡が見えません。もう少し自分の欲望と向き合った方がいいと思います。』
及び腰になっていた私も、いい加減覚悟が決まってきました。
「もうジャブの応酬は終わった。これからは言いたいことを全部言ってやる。全力で殴りに行ってやる。だからあんたも遠慮なく思い切り殴り返してこい」
返信はすぐに来ました。




