決別
ヤマダヒフミ氏の投稿した「海辺に腰掛けて」という最新小説は、過去最悪に酷い出来でした。ストーリーとしては家族を殺された男が妻の死をきっかけに自殺するという感じで、例によってモブキャラがつまらない人間ばかりですし、主人公は娘の死をすぐ受け入れて妻は全然受け入れられないという両極端で、悲しみを受け入れる過程が殆ど無いのが気になりました。しかしそんなのは序の口で、最悪なのが主人公が入水自殺する場面でした。どういう訳か溺れ死んでいる筈なのに主人公が殆ど苦しむ素振りを見せないのです。もがきもせず静かに水の底に落ちていくだけです。溺死なんてのは最も苦しい死に方の一つと言われているほどですが、これはどういう事なんでしょう。
そりゃ、もがいてしまうと現実が夢みたいなものであるという真理が破壊されてしまうからでしょう。ヤマダヒフミ氏にとって、作品のキャラクターは自立して考え行動する他者でも自分のうつし身でもなく、現実が夢である事を立証する為の道具に過ぎないという事でしょう。そして現実が夢であることを否定しそうになったら、平気で視点を剥奪し無視する。どうして、ここまで人間を否定する事ができるのでしょう。ヤマダヒフミ氏だって溺れたらもがくに決まってるのに、他人にはもがく権利すらないというのでしょうか。
ほとほとあきれ果てましたが、結局これがヤマダヒフミ氏の本質なのでしょう。
『(中略)僕は常に、逆さを向いて歩いてきた。多分、そのはずだ。別にそんな事を僕は望んできたわけではないのだが。だが、望むという事にももう大した意味はない。全てが僕の上を通行していくとしても、僕はそれらを別の惑星の住人のように眺めるだろう。そして、僕はその別の惑星を元にして歩き始めるだろう。そしてそれは、この世界の地球人には何か異質な歩みと聞こえるだろう。思うに、僕はどこかで頭がイカれてしまったのだ。
だが、そのイカれた頭に僕は一筋の誇りを持っている。今でも。』(地球人への独語)
ヤマダヒフミ氏は雲の上どころか別の惑星で歩き回り、その事を誇りに思っているようです。だからこの地上が虚無であればあるほど、大衆が馬鹿な俗人ばかりであればあるほど、彼にとっては都合がいいのでしょう。思えばヤマダヒフミ氏の人間蔑視は今までの作品でも明確に示されていました。
「しょうがないんですよ。俺だって負けてますよ。だけど大抵は勝ちます。勝ちも負けもない。あるのは力、力だけなんですよ。悔しければ自分で力持って振るってみろってね。法律も尊厳もない。そんなのは嘘っぱち。この世の中は闘いなんです。力で奪う争いなんです。人間ってそうでしょ? 他の生命殺して生命維持する生き物でしょ? だからいいんですよ。レイプしようが人殺そうが、いいんです。正しいんです。そこに力がある限りは。俺には力がある。力がなくなりゃ…どんな結論でも受け入れます。だけど悔しければ、闘ってみろと。俺らは全力で相手を黙らせますけどね」(望月健)
この作品は大企業の御曹司が延々レイプ自慢をするという露悪的な作品ですが、ヤマダヒフミ氏の根本思想が出ているようです。まず気になったのが妙な所リアリティある割にあまりに御曹司が饒舌すぎて不自然なことです。カットしましたが引用部分の10倍以上はベラベラ喋っているのでうんざりします。こういう人を人とも思わない人間は確かにいるかもしれませんが、この御曹司からは自分の尊厳も否定する苦しみも、力だけの世界に生きている事への慄きも親の七光りで生きているうしろめたさも全く見て取る事ができません。そういった感覚がないにしても少なくとも無意識では見え隠れするはずで、自慢するにしても飲み過ぎてつい言ってしまったとか、開き直るにしても言葉少なだったり俯いたりでなければ不自然です。いくら主人公を御曹司仲間と誤解していたとしても名前しか知らない相手にこんなベラベラ饒舌に自慢するなんてことは到底考えられません。大体女性が金を突き返してでも訴える可能性とか週刊誌に垂れ込まれる可能性とかは考えないんでしょうか。日本社会に潜む何らかの高い精神がこの若造に一撃を食らわせる可能性はないんでしょうか。
露悪描写というのは悪の根本部分に共感できるとか、悪が社会の延長線上に感じられるからこそ効果を持つのであって、ここまで現実から浮ついた犯罪者を出されても全く見当はずれな社会批判としか思えません。まあ作品の不自然さやファンタジー要素には作者の思想や指向性が宿ったりするもので、不自然だから悪いという訳ではないですが、しかしこの作品の不自然さから垣間見える作者の指向性というのは何なんでしょう。一つ考えられるのはヤマダヒフミ氏はこの世界がクソであって欲しいのではないか……下手したらこの世界がクソである事に一種の快感を感じてしまっているのではないか……だからこの御曹司はうんざりするほど饒舌にレイプ自慢を繰り返すことができたのではないかという事です。一応主人公はこの男に反論を試みてはいますが弱弱しい物で、殴ろうともしますが結局何もせず終わっています。それにしても、どうしてこんなにも気分が悪くなるほど饒舌なのでしょう。カラマーゾフの兄弟の大審問官も饒舌ではありましたが、それは神への信頼の裏付けがあっての事ですし、ドストエフスキーが大衆を批判する事があっても必ず痛みが感じられます。一方レイプ魔御曹司の饒舌からはヤマダヒフミ氏がこの世界に一切の期待をしていない事も、この世界がクソであってほしいという暗い願望も透けて見えてしまうのです。
「これまでが気が違ってたんだ。大切な何かを忘れてたんだ。人を…人を探さないと。ここに人はいない。君も俺も人間じゃないよ。どの街に行っても人間はいない。一人もいない。びっくりするけど本当に……本当に一人もいないんだ(中略)だから、ランプの男を探すんだ。今までが夢を見ていたんだよ。あんなくだらない映画なんて見てる暇なんてなかったんだ。今までの人生が間違ってたんだよ。お前にわかるか? 俺達の人生の方が夢みたいなもんだよ。人間を…人間を…探さないと。そうしないといけないんだ。手を離してくれよ。これから行く所があるんだ」(ホームレス・ディオゲネス)
ヤマダヒフミ氏は白昼にランプをともして人間を探したというディオゲネスを自認しているようですが、その実暗闇でランプを消してしっかり目隠しまでして絶対に人間を見つけないように細心の注意を払った上で、「人間はどこだー!」なんて叫びまわっているようなものです。ヤマダヒフミ氏は別の惑星に安住したいので、本当は人間なんて見つけたくないのでしょう。たまーに人間を見つけたなんて言い出すことがあっても精々この世界を否定する為の叩き棒でしかありません。大衆が馬鹿であればあるほど、社会がクソであるほど、この世界に何もなければないほど、ヤマダヒフミ氏はこの世界から浮き上がり、別の惑星へと放逐されていく。そこにはある種の自傷的な快感があるので、ヤマダヒフミ氏はあんなにも饒舌に社会批判ができるのでしょう。
まあ実は私にも似たような感覚があるのでヤマダヒフミ氏の気持ちはわかってしまいます。というのも私は、自分を自分でゴミだカスだと貶せば貶すほど病的な快感が得られてしまう体質なのです。他人というのはちょっと優しくしてくれる事があっても、冷たくあしらえばすぐ離れていくのですが、自分というのはいくら馬鹿にしても罵倒しても全然離れていくという事がありません。いくら自己を否定しても私は私から離れていかないのです。そしてこの構造的な現象を唯一で絶対的な愛だと勘違いして安住するようになり、ついには他者からの愛を鼻で笑うようになってしまうのです。そうなってくると益々誰からも愛されなくなり、仮に優しくされたとしても、「どうせお前もちょっと罵倒してやれば離れていくんだ」と詰めたく突き放してしまいます。
この思考が煮詰まりすぎるとついには「私はこの世界の誰からも愛されていない」「こんなクズでみじめな私を愛してやれるのは私だけだ」というのが原理原則となってしまいます。この状態でいざ他者からの愛を認めてしまうと今までもこれからも絶対的であった筈の自己愛が崩れて、ドブ板のように頼りなく不安定で嘘くさい他者からの愛だけが残る事になるので、これはもう世界がひっくり返ったような苦痛なのです。しまいにはちょっと褒められるのも好意を寄せられるのも不快で仕方なくなり、人間そのものが憎らしくなってきます。
こんな感覚は全く病的なものなので何とか抑制しなければならないと思っています。私は失う事ができない構造的自己愛など空っぽにすぎない事も内心分かっていますし、心の底から他者の愛を否定している訳でもないのです。失いうる他者の愛を受け入れる勇気がない為に構造的な自己愛に閉じこもっているに過ぎないのです。
ヤマダヒフミ氏も似たような欺瞞に陥っていて、彼が別の惑星へと飛び立ってしまったのは「矛盾しながらも現実を生きる勇気」がないからかもしれません。無論ヤマダヒフミ氏の肉体は別の惑星ではなく現実に生きてはいるのでしょうが、そんなことはヤマダヒフミ氏にとって取るに足らないどうでもいい事なのでしょう。彼にとって肉体などというのは精々現世の儚さを教えてくれる装置に過ぎないように見えます。だから何一つ失う事ができない。馬鹿な大衆を見つけては嬉々として雷を落とし、ちょっとでも枯れ木があれば喜び勇んで全部切り倒してブルドーザーで整地しコンクリートを流し込み盛大な墓標を立てて見せる。肉体が老いた所でそれは地球を離れ別惑星へと近づく福音でしかありません。肉体と精神とは切っても切れないはずですがヤマダヒフミ氏は肉体と精神が完全に分離してしまっており、精神としてのヤマダヒフミ氏だけがしゃべっている状態なのです。そうやって自分を貶めているからヤマダヒフミ氏は何一つ失うことができない。痛みもないし悲劇もないし何もない。すべてが薄っぺらなのです。
『・・・そこで流行るのが、アンチエイジングというわけだ。だが、そんなものは無駄だ。世界の速力よりも速いスピードで個人が走る事は不可能なのだ。』(文学は人生ではなく人生『観』)
アンチエイジングを舐めるな!と言いたい。毎日運動している人ほど自分の体の衰えはハッキリとわかるものです。それと同じようにアンチエイジングに本気でいそしむ人ほど、自分のお肌の老化が実感を持って感じられるというのは想像に難くありません。「やだ、またシワが増えてる……」その時彼女には二つの道が示されます。ヤマダヒフミ氏のように精神を別惑星に飛ばし、なるべく鏡を見ないようにする事で自分の老化を矮小化する道と、自分の老化と真正面から向き合ってでも、老化が絶対に止まらないと分かっていても、それでも美を追求する道です。そして彼女は後者を選んだのです。辛くても、無駄だと分かっていても、それでも時間の流れと立ち向かう事を選んだのです。私はここに一つの高い悲劇的精神、勇気を見て取る事ができます。
……まあ私が言っている事は大げさではあるかもしれません。世のアンチエイジングにいそしむ女性がみんなそこまで考えているかどうかは分かりません。周りがやってるから何となくやっているだけかもしれません。しかし、彼女たちに悲劇的精神が全くないとも言えません。肝心なのは何を信じたいかという事です。私が彼女たちの精神性を信じようとしているのに対して、ヤマダヒフミ氏は別惑星に籍を置いて現世にあくせくしている大衆を馬鹿にしきって見下しているのです。
確かに私も現代社会の荒廃には思うところがあります。日本という国は未だに西洋文明を完全に咀嚼できていないのに、一時期経済的に栄えた事を鼻にかけて一流国面をして、これだけ衰退しているのになかなか向き合おうとしていません。テレビもネットもくだらない事を大げさに取り上げてばかりで、何一つ軸がない。荒野のような時代かもしれません。
しかし、荒野にもイネ科の草なんかがしぶとく芽吹いてハエトリグモなんかが隠れているように、荒野に見える現代においても我々の生活が全く精神性から離れているのかというとそうではないでしょう。たとえどんな小さなことでも、一見くだらなさそうな事にも精神性を見つけ出すのが、現代の文学者のすべきことなのであって、ヤマダヒフミ氏のように別惑星から遠隔操作でまとめて爆破してコンクリートを流し込むなんてのは全く文学と対極に位置する態度です。
そういう風に目まぐるしく考えていくと、だんだん本気で腹が立ってきてもう殆ど憎悪といっていい程に煮えくり返って全然眠れなくなり、どうしても一言申し上げてやりたいという気になってきました。ヤマダヒフミ氏が私に何か言われた程度で考えを変えるとは到底思えませんでしたし、私が気づいていないだけでヤマダヒフミ氏も深い考えがあったうえで溺れてももがくことを禁止したりアンチエイジングを馬鹿にしたりしているかもしれませんが、しかしどうしても言ってやらなければ気が済まないのです。ヤマダヒフミ氏は私よりずっと教養がありますし弁も立ちますし精神的に自己をずっと見つめてきた人ではあると思うので、私が立ち向かったところで手痛いカウンターパンチを食らって泣きながら筆を折り一生トラウマになるのではないかという恐れもありましたが、それでも言ってやらないと気が済まないのです。ヤマダヒフミ氏は私を救ってくれた神様のような人で畏怖も感謝もしていたのですが、それでもここで言わなければ自分が自分で無くなる気がしました。
それから私は憑かれたようにヤマダヒフミ氏の作品を読み漁り最も有効に攻撃が通る切り口を探していきました。そして見つけました。
ヤマダヒフミ氏の最新エッセイは村上春樹を批判しながら「現実は地獄だ」なんて言いきっているエッセイでした。私の頭の中で何かが切れた音がしました。活路が稲妻のように光って見えました。夜を徹して一気呵成に第一稿を書き上げると推敲に推敲を重ね、武者震いに震える指をマウスに押し込み、ついに感想を投稿しました。




