教祖の文学
転機が訪れたのは坂口安吾作品に触れてからでした。全集がkindleで安く売っていたので暇つぶしに読んでみたのですが、これが予想を超えてガツンと来ました。
坂口安吾は文学史的には無頼派として太宰治らと共に志賀直哉を批判した人で、作風に幅があり歴史もの、推理小説、戦後小説、私小説、囲碁将棋の観戦記、ナンセンス小説、随筆など色々と書いているのですが、多くの作品に貫徹しているのは何といっても大衆への深い愛です。坂口は実の母親から愛されず、若いころは随分思い悩んでいたようで、人生は虚しく悲しいという諦観が根底にあります。それにも関わらず彼の多くの作品に暗い所が殆ど見えないのは、人生は虚しい、死ねばそれまでだと内心分かっていながらも、いやだからこそ、必死に泥臭く生きて破滅に向かう大衆の姿を清濁併せのんで愛を持って描いているからでしょう。ドストエフスキーと雰囲気が似ているところがあって、とにかく人間通といった感じで、味があって面白い人間を描くのが本当に上手いのです。
正直ドストエフスキーがいくら人間を面白く描いても、それは西洋と東洋が衝突する当時のロシアだからこそできたことで、現代日本に精神性を見出すのは難しいとあきらめていた所はあったのですが、坂口が私と時代がそこまで離れていない日本人を面白おかしく描いてくれたので、「ああ、日本人も面白く描けるんじゃないか!」という感動があって、ただただ素直に嬉しくてなりませんでした。
まあ坂口が普遍性がある作家であるかというとそこまでではないかもしれません。ロマン主義的で即物的で革新的で俗っぽい所も見え隠れするのが坂口作品です。本人も普遍性なんてのは目指していないような気もします。『死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。(教祖の文学)』とまで言い切っているくらいです。坂口の良さは日本に生まれ育った人にしか分からないかも知れません。しかし、日本人に理解する事ができるならそれで充分という考え方もできます。
坂口安吾で一番印象に残ったのは、『教祖の文学』という小林秀雄論です。坂口は、ペシミズムに囚われ生きた文学を否定しているとして、小林を痛烈に批判します。
『「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例ためしがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)とくる。(中略)生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。(中略)歴史には死人だけしか現はれてこない、だから退ッ引きならぬギリギリの人間の相を示し、不動の美しさをあらはす、などとは大嘘だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。もし又生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかつたまでのこと、生死二者変りのあらう筈はない。(教祖の文学)』
『文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。(教祖の文学)』
『人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。(教祖の文学)』
小林秀雄が死人に肩入れする気持ちは分からないでもありません。祇園精舎の鐘の音は、作者も描かれた敗者も勝者もその悉くが明らかに死んでいる事によって完成されます。しかし、平家物語を現代人が書いてベストセラーになったと考えてみれば「諸行無常のくせにあんた普通に生きて印税収入貰ってるよな?」というツッコミがまず入りますし、作者が「印税収入最高! ごめんやっぱ諸行無常じゃなかったわ!」なんて言い出す恐れがあります。そんなことが無いように、作者も描かれた人間もすべて死んでいる必要があるのです。死んでいるからこそ安心して祇園精舎の鐘の音を心に響かせることが出来る。しかし坂口安吾は作者や登場人物が死んでいようが生きていようが眼中にありません。死者と同一化して浮き足立つ事も、物言わぬ死人に安堵する事もしません。ただ作品世界に人間が生きているかどうかだけに着目します。
『女のふくらはぎを見て雲の上から落つこつたといふ久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何といふ相違だらう。これはたゞもう物体の落下にすぎん。
小林秀雄といふ落下する物体は、その孤独といふ詩魂によつて、落下を自殺と見、虚無といふ詩を歌ひだすことができるかも知れぬ。
然しまことの文学といふものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美といふものではないか。(教祖の文学)』
孤独な少年時代を過ごした坂口安吾にとって、人間孤独の相なんてのは物心ついた頃には喝破していた当たり前の事であり、いちいち死人に指摘して貰う必要は無かったのでしょう。坂口安吾でなくともそのくらいの事は多かれ少なかれ誰もが勘付いている事です。「人はいつか死ぬ」「人生は虚しい」「美は消え去ってしまう」確かにそうかも知れません。それは真実でしょう。
当然久米の仙人が見たという美しい女のふくらはぎも、やがてはしぼんでシワシワになってしまう。久米の仙人だってそれくらいの事は知っています。「プリプリのふくらはぎ=シワシワのふくらはぎ」それは正しい事です。普遍的な宇宙の真理と言えるでしょう。しかしその正しさは抽象的な神の視点からもたらされる正しさであって、現に今を生きる人間はそんな正しさなど眼中にない。実際に生きる人間はプリプリのふくらはぎを見たらもう完全に我を失ってしまって、神通力を失って地に落ちてしまったりする訳です。ヤマダヒフミ氏のように賢しい人が「あのふくらはぎも将来シワシワになるんだぞ」なんて諭したとしても、現にプリプリのふくらはぎがそこにあるんだから仕方がありません。人間と言うのは多かれ少なかれそういうひたむきさ、悲しさ、美しさを持っていて、それこそが現に生きる人間という事なのでしょう。
坂口安吾の小林秀雄への批判は、私のヤマダヒフミ氏への不満とそのままつながりました。つまり、ヤマダヒフミ氏は小林秀雄と同じように教祖になってしまっている。現に生きる肉体を否定してしまっている。しかしヤマダヒフミ氏だって人間なハズです。間違いも犯すし欲望もあるはずです。なのに自分だけ普遍性の高みに上って一方的に大衆を攻撃し、「人生は虚しい」なんて悟ったような事を嘯き、それが文学だと勘違いしている。
『自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。(教祖の文学)』
結局人は現実を精一杯生きて良く生きるしかないのです。そこに貴賤はありません。全人類の誰もがそうなのです。誰もが良く生きようとしているのです。他人がアホやっているように見えても、そこには一人で死んでいく悲しみとそれでも生きようとするひたむきさが隠されているはずです。そう信じなければ人を愛することも人を描くこともできません。文学もクソもないのです。随分遠回りしてしまいましたが、私は当たり前のことをやっと理解できました。さんざん遠回りしたからこそ、受け入れることができたのかもしれません。
やはり、ヤマダヒフミ氏は間違っている。雲の上から大衆を裁いていくなんて一体何様なんでしょう。彼だって大衆のはずです。人間としての苦しみや欲望を持ち、間違いながらも現実を生きている一人の人間の筈です。
ヤマダヒフミ氏への不満は滝のようにあふれてきましたが、しかし私は彼を批判する文章を書いてみる気にはなりませんでした。ヤマダヒフミ氏はどうせ私など眼中にないので、私に言われたくらいで何かを変える事はないでしょう。結局は自分で気づくしかないのです。それに全くヤマダヒフミ氏が変わる兆しが全くないという訳でもありませんでした。こないだのエッセイでは人間は本当は誰もが面白いみたいな事を書いていましたし、小説でも浮浪者の老婆に美を見だすという珍しく味がある作品を書いていましたし、最近坂口安吾作品を読んで感銘を受けたみたいな事も言っていました。だからきっとヤマダヒフミ氏も変われるはずなのです。……しかし私の期待は粉々に打ち砕かれました。




