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出会いと疑念

 私は生来器量が悪く卑屈な人間で、ずっと劣等感を抱いて生きてきたタチなのですが、しかしこの劣等感はただ自分の器量の悪さや社会的立ち位置の悪さだけに起因する訳ではなく、もっと奥深い所から来ているような気がしていました。子供の頃には「どうせ私の人生はろくなもんにならない」ととっくに諦観していたので、うだつが上がらない事自体は割とどうでもいいのですが、しかしそういった実際的なうだつの上がらなさとはまた別な所で、漠然と劣等感というか「私は本当にこの世界に存在していいのか」という居心地の悪さがずっとついて回っていました。


 そんな居心地の悪い人生をゲームや創作にのめりこむ事でやり過ごしてきた私ですが、大きな転機が訪れました。ネットで活動している文学者ヤマダヒフミ氏との出会いです。ヤマダヒフミ氏は古典文学を重視し、厭世的で精神的な観点から徹底的な現代批判も行っていました。その切り口はどこまでも鋭く「現代社会における芸術も文学も何もかも即物的な欲望への無自覚な信仰に支配されている。大衆は死から目を背けて表面的に孤独を誤魔化しているが結局は孤独に死んでいくことしかできない」といった風に現代社会の欺瞞を厳しく糾弾しておられました。「まさに、まさにその通りなんだ! 本当に良く言ってくれた!」私は膝を打っていました。私が現代社会へ漠然とした不満を持ち何をするにもやる気が出なかった根源的原因を、まさにヤマダヒフミ氏が言語化してくれたのでした。「この世界は地獄のように辛く夢のように儚く、人は誰も孤独に死んでいくことしかできない。ならせめて文学や芸術を介して自分の小ささや儚さを自覚しよう。自我を相対化し自我を超越する存在を信じよう。その先に即物的な救済はないが、現実とは離れた文学の世界に救済はあるかもしれない」……少なくとも私はこんな感じで理解しました。そして、本当に心の底から賛同しました。


 現代社会で価値があるとされているアレコレに価値を感じられず、自分がこの世界に生きているという実感もなく、やる気も張り合いもない惰性で毎日をやり過ごすだけの人生を送り、社会に使い捨てにされ腐っていた私の心の穴をヤマダヒフミ氏の文学が満たしてくれました。「文学だ。この世界に何かあるとしたら文学しかないんだ。文学こそが私が目指すべき道だったんだ」ヤマダヒフミ氏は虚無だった私の人生に進むべき道を示してくれました。ヤマダヒフミ氏は私のことなど眼中になかったでしょうが、それでもヤマダヒフミ氏は私にとって師匠であり恩人でもあり目標でもあり、精神的な意味においては生きる事の全てとなっていきました。


 そうやって文学へと邁進していくとずっと抱えてきた劣等感や居心地の悪さが誇らしくすらなってきました。「この世界に安住している人間には自己を相対化する事などできない。私がこの世界に馴染めなかったのは、むしろ文学の素質があるという事だろう」なんて思いあがったりもしていました。


 ただ一つだけ気がかりな点がありました。ヤマダヒフミ氏のエッセイは文句なしに素晴らしかったのですが、小説はどういう訳かあまり面白いと思えない作品ばかりだった事です。色々頭を捻って考えてみても何故かよくわからず、「まあ私の教養が足りていないから良さがわからないんだろう」という事でいったん脇に置いておくことにしました。


「何はともあれ、私も文学を志すぞ!」


 そうやって意気込んでみたはいいものの文学が何なのかもよく分かっていない状態だったので、とりあえずヤマダヒフミ氏が高く評価する古典文学……ドストエフスキー、シェイクスピア、小林秀雄なんかの著作を読みふけり、聖書やウィトゲンシュタインやシオランやニーチェやキェルケゴールにも手を付け……といった具合で図書館に通いつめ文学漬けの日々を過ごすようになりました。特に感銘を受けたのはヤマダヒフミ氏も高く評価しているドストエフスキーの「罪と罰」で、本当に人間が作品の中で生きているようでした。「罪と罰」に限らず他のドストエフスキー作品も本当に味があって面白い人間ばかり出てきます。「悪霊」に出てくるニヒリスト達ですら、複雑怪奇で面白い人間ばかりです。「お前はニヒリズムがどうとか言ってるけど、お前自身が面白い人間なんだよ!」というドストエフスキーなりのサディスティックなまでの意趣返しなのでしょうか。ドストエフスキーは人間の醜さや悲しみやエネルギーや美しさを赤裸々に描くことで、爛々と輝く他者の実在を示そうとしたのでしょう。


 他人が実在するなんて当たり前だろという気もしますが、厳密な独我論的な立場から考えると他者の実在というのは全く明白ではありません。他者の実在はそれこそ神の実在と同じくらい曖昧なものです。しかし自分の孤独と本気で向き合っていけば、孤独に耐えられなくなった精神はやがて自分と相対しうる何者か……つまり神や他者の実在をを請い願うようになり、そして孤独な自我は打ち砕かれ独我論が崩れ、ニヒリズムは打破される。ドストエフスキーの文学はそういう事だと理解しました。


 しかし……私はドストエフスキー程、自分の孤独と向き合ってきたでしょうか。孤独の果てに他者を求めているでしょうか。現代社会では他者が実在するかどうかなんてどうでもいい事で、肝心なのは他人を物扱いして踏み台にしてでも他人からより多くの果実を集めることになっています。しかしそれでいいのでしょうか。どのみち私たちは孤独に死んでいくとしても、他者の実在を信じられず、あるいは無関心のまま死んでいくのではなく、他者の実在を信じて死んでいくべきではないのか。色々考えさせられました。


 そんな文学付け生活を1年ほど続けた後、結局クビになった会社に出戻りして忙しくなり、文学に触れられる機会も減ってきました。それでも休み時間には欠かさず本を読み、並行してヤマダヒフミ氏の最新作も過去作もチマチマ読み進めていきました。……やはり、ヤマダヒフミ氏のエッセイは素晴らしいとしか言いようがありません。どうしてこうも高い視野から物事を考えられるのでしょう。しかし、ヤマダヒフミ氏の小説を読んでみたところ、やっぱり何かがおかしいのです。


 どんな内容かというと、ひたすら厭世的で現代社会についていけない斜に構えた主人公がダラダラ愚痴ったり自殺したりしなかったりするという感じの作品が大半です。登場人物は少なく、登場したとしても現代社会を妄信するつまらない人間が殆どで基本的に独り相撲のまま話が終わります。それも結果的につまらない人間が登場するとかではなく、どうも意図的につまらない人間を出しているように見えます。


 ……なんというか、単純につまらない。何が言いたいのかわからない。人間が描けているように思えない。出てくる人間がことごとく人間臭くない。ヤマダヒフミ氏の勧める古典文学や哲学はどれも面白く、世界がひっくり返るような感動を何度も得られましたし、難解すぎて理解できなかった作品も歴史の中に残る価値がある事や生きた人間の凄みがある事はわかりました。しかしヤマダヒフミ氏の小説からはそういったエネルギーも何も見えてきません。ただただ虚無だけが広がっています。


 これは一体どういう事なんでしょう。ヤマダヒフミ氏はドストエフスキーを最高の文学に位置付けているのに、ドストエフスキーから多くを学んだはずなのに、そんなヤマダヒフミ氏の書く小説にはどうしてこんなに判を押したようなつまらない人間ばかり出てくるのでしょう。人間の中に輝く実在を見出したドストエフスキーとは完全に真逆ではありませんか。頑張って面白くしようとしたのに結果的につまらなくなったならまだいいのですが、どうして当てつけのように意図してつまらない人間を登場させるのでしょう。


「『純文学なんてない! 純文学はもう終わったんだ。あるのは純文学の埋葬、文学というものの埋葬、死滅。勝利した故に傲慢に流れる人間達、そのエピローグを描くのが唯一残った文学なんだ!』と吠えてみてもいいかな。(「純文学とは何か」を考えてみる)」


「そんな悲観的な事ばっかり言っていてもしょうがないので、もう少し考えましょう。サンプルは存在します。フランスのミシェル・ウエルベックは、現在の優れた「純文学作家」だと思います。彼のやっているのはニヒリズムです。映画監督ですが、ミヒャエル・ハネケも同じです。ニヒリズム・ペシミズムで何かと戦おうとしている。それは一体何かと言えば、既に消えてしまった理想、神、人間、それらのあるべき存在を、希望というものを、「すべてがなくなってしまった現在(いま)」を描く事によって逆説的に示そうとしている。そんな感じじゃないでしょうか。(「純文学とは何か」を考えてみる)」


 つまりヤマダヒフミ氏はあえてつまらない人間を登場させることで、「すべてがなくなってしまった現在(いま)」を相対化し浮き彫りにしようとしているという事でしょう。確かに現代日本は、ニヒリズムとキリスト教がぶつかっていた当時のロシアと比較すれば、何も語る事もないつまらない社会かもしれません。しかし、「すべてがなくなってしまった」というのは流石に言い過ぎではないでしょうか? ヤマダヒフミ氏は「すべてがなくなってしまった現在(いま)」を徹底的にブルドーザーで整地しコンクリートを流し込み壮大な追悼碑を建立しているようですが、しかし現在《いま》という荒野にも小さな命が芽吹くとは考えないのでしょうか?


 古典文学に触れ自分の中で文学観が育ってくるほどに、ヤマダヒフミ氏への違和感はどんどん強まっていきました。改めてヤマダヒフミ氏のエッセイを読んでみると、それはそれでやはり面白く表面的には賛同できはするのですが、以前とは受け取り方が変わっていました。やはりこの人は何かが違っている、何かが足りない、何かを見失っている……そう思えてなりませんでした。しかし、ヤマダヒフミ氏を批判することはできても、その先がありません。つまりヤマダヒフミ氏と対峙できる程の軸を私は持っていませんでした。

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