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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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22/23

第22話 契約書を破る日

 夜明けは、思っていたより静かに来た。


 氷雨に洗われた港の上へ、薄い銀色の光が広がっていく。真夜中じゅう町をつないでいた分散刻印の灯は、朝になったからといって消えなかった。倉庫の梁、井戸の縁、炊き出し小屋の扉、船腹の荷印、旧灯台の壁。そのどれもが、夜を越えた人のまなざしみたいに、かすかに温度を残している。


 中央広場から岸壁へ下りる坂道は、夜のあいだに踏みしめられて硬くなっていた。石畳に積もった雪は薄く、足音が小さく鳴る。


 彩加は夜通し墨を握っていたせいで、指先がまだじんと痺れていた。けれど足は止まらない。広場でつないだ線が、本当に船団を守るところまで見届けなければ、胸の奥が落ち着かなかった。


 岸壁では、出航を待つ船が白い息を吐いていた。


 帆布は冷え、索具は霜をまとい、それでも人の声だけはあたたかい。荷運び人が縄を引く。船員が甲板を走る。炊き出し小屋で温められた湯が桶ごと運ばれ、夜明け番の見張りが手をこすり合わせながら誘導灯を確かめている。


 その誘導灯が、今朝はきちんと順に灯っていた。


 南岸壁から北倉庫前まで、灯りが波に沿って続いている。昨夜までの荒れた海はまだ完全には収まっていない。けれど、船が出れば即座に呑み込まれるような殺気は、もう水面のどこにもなかった。


 「間に合ったな」


 健平が鼻の頭を赤くしながら笑う。いつものように片手を外套の懐へ突っ込んだまま、もう片方の手で荷札の束をひらひら振っていた。

 「北から三番目の船、さっき船腹の線まで見てきた。ちゃんと生きてる」


 「ちゃんと、って」

 彩加はかすれた声で返す。

 「船腹に向かってそれ言う人、初めて見た」


 「おまえの印は、そう言いたくなる出来なんだよ」


 照れ隠しみたいに言って、健平はすぐ前を向いた。


 その横では弥織が出航順の札を捌いている。指先の動きは速いのに、声はいつも通り落ち着いていた。


 「一番船から四番船まで、順に灯り確認済み。防水印、防寒印、荷札保全印、全部記録済み。凌太、監査印は」


 「終わっている」


 短く答えた凌太は、船員へ返却する確認札の最後の一枚へ封蝋印を押した。右腕の包帯はまだ外れていない。けれどその手つきは少しも鈍らず、押し終えた封蝋は朝日にぬるく光った。


 彩加は、その包帯に目が行くたび胸がちくりとした。


 昨夜、火の中から出たあとに塗った薬の匂いが、まだかすかに残っている気がする。


 「彩加」


 呼ばれて顔を上げると、凌太が自分を見ていた。


 「大丈夫か」


 その問いに含まれているのは、寝ていない顔色も、震えの残る手も、今朝まで持ちこたえた気力も全部だと分かった。


 彩加は笑って頷く。

 「大丈夫。……ちょっと、目がしみるだけ」


 「眠ってない」


 「あなたもでしょ」


 「俺は後でいい」


 いつもの返しだった。自分のことを後回しにして、先に足元の危険を片づける人の言い方だ。


 その言葉に、なぜだか今朝は腹が立つほど安心する。


 岸壁の鐘が鳴った。


 一番船の出航合図だった。


 船首に立つ老船長が片腕を上げる。見送りの人々が一斉に帽子や手巾を振った。分散刻印の灯が船腹に沿って淡く流れ、冬の海の上へ細い道を描く。係留縄が外される。軋む音。水を割る音。波頭に朝の色が差し、白い飛沫が一瞬だけ金色に見えた。


 船は揺れたが、乱れなかった。


 誘導灯に従って、ゆっくり、しかし確かな角度で外海への水路へ乗っていく。


 誰かが息を呑み、次の瞬間には大きな歓声が上がった。


 「行ける!」

 「出たぞ!」

 「二番船、続け!」


 花売り娘が両手を口へ当てて飛び跳ねる。パン屋の店主は分厚い手袋のまま何度も拍手し、老船員は目尻を押さえながら杖を鳴らした。炊き出し小屋の女たちは、鍋の蓋を抱えたまま泣き笑いしている。


 彩加はその音の真ん中で、ようやく肩の力が抜けた。


 船が出る。


 灯りが持つ。


 夜に刻んだ線が、ちゃんと朝まで届いている。


 それだけで膝から崩れそうになり、慌てて外套の裾を握りしめる。


 すると、すぐ隣で凌太の手がそっと肘を支えた。

 人目のある岸壁で、夫婦らしい距離を取るのは、もう演技ではなく癖になりつつある。その事実が胸を熱くする前に、二番船の鐘が鳴った。


 船団は予定よりやや遅れたものの、全部出た。


 最後の船が岬を回るころ、朝の雲の切れ間から淡い光が差し込んだ。旧灯台の壁へ残っていた連結印がふっと白く返り、その光が沖へ伸びて消える。


 彩加は目を細めた。


 母が見たかった朝は、きっとこういう朝だったのだと思った。


 誰か一人が英雄みたいに立つのではない。荷を持つ人、扉を押さえる人、帳簿を書く人、船を出す人、火を守る人。そんな手の総和が、町を朝まで運ぶ。


 「彩加ちゃん」


 振り向くと、弥織が薄い板札を差し出した。ギルドの緊急審問札だった。赤ではなく、深い青の縁取り。港機能に関わる重大案件を、その日のうちに裁くときの札だ。


 「一息つきたいところだけど、そうもいかないわ」

 弥織は言う。

 「証拠も証人も、町の空気も、今がいちばん逃がしちゃだめなタイミングよ」


 李々香が隣で記録箱を抱え直した。眼鏡の縁に朝の光が乗る。

 「旧灯台の覚え書き、黒墨倉庫から回収した偽造刻印板の破片、認可書の控え、隠し帳簿、全部そろっています。昨夜のうちに写本も作りました」

 それから、わずかに顎を引く。

 「逃げるなら今のうちですが、逃げないのでしょう」


 「逃げたら、後であなたに一生言われるもの」

 彩加が返すと、李々香の口元がほんの少しだけ緩んだ。


 「正解です」


 健平が肩を回す。

 「審問の間、外の人間は俺が押さえる。余計な野次も、妙な差し金も入れさせねえ」


 凌太が短く全員を見た。

 「行こう」


 その一言で、皆が動き出した。


 港町交易ギルドの審問室は、本部棟の二階、海の見える長い部屋のいちばん奥にある。普段は加盟商人の争いごとや荷損の責任分担を裁く場所だが、今朝は空気が違った。廊下には朝から人が詰めかけ、窓の外の中庭にまで人影があふれている。


 中央広場で破壊された大刻印板のこと。

 それでも船団が出たこと。

 夜のうちに町の灯がつながったこと。


 噂はもう、隠しようのない速さで走っていた。


 審問室へ入る前、彩加は深く息を吸った。木の扉の向こうには、あの晩餐会と似た視線が待っているかもしれない。けれど今朝は違う。背中に感じる空気が違う。


 振り返れば、凌太がいる。

 弥織がいる。

 李々香が記録箱を抱えている。

 健平は廊下の端で腕を組み、外の騒ぎへ睨みを利かせている。

 さらに奥には、昼市で会った顔、荷揚げ場の若者、炊き出し小屋の女、花売り娘の母親までいた。


 彩加は一人では扉を開けない。


 だから扉は、怖くなかった。


 審問の席には、すでに港湾行政長官と祥章がいた。


 長官は徹夜明けの青白い顔で、それでも立派な外套を乱さず座っている。祥章は父の半歩後ろ。襟元は整っているのに、指先だけが落ち着きなく震えていた。


 彩加が入ると、長官の目が細くなる。

 「よくもまあ、平然と顔を出せたものだ。昨夜の混乱がなければ船団はもっと早く――」


 「混乱を起こした側が言う台詞ではありません」


 遮ったのは凌太だった。


 審問机の中央へ、監査官印を押した報告書を置く。さらに李々香が記録箱を開け、弥織が手続き札を並べる。木箱から出てくる証拠は、どれも小さく、地味で、しかし逃げ道を削る形に整っていた。


 偽造刻印板の破片。

 黒墨倉庫の出納控え。

 祥章の署名入り認可書。

 旧灯台の地下で見つかった母の覚え書き。

 大刻印板すり替えに使われた配送札。

 行政棟の保管庫から消えたはずの封印紐の一致記録。


 李々香が一つ一つ読み上げるたび、部屋の空気が重くなる。


 「偽造刻印の流通は、港湾行政長官管轄の保管印なしには成立しません」

 「黒墨の搬出経路は、難民船支援台帳の裏書きで偽装されていました」

 「すり替えられた大刻印板の搬入時間は、昨夜二刻。行政棟の封印紐の繊維と一致」

 「旧灯台地下倉庫の覚え書きには、正規刻印市場の独占を目的とした模倣品流通の計画が記されています」


 港湾行政長官は途中から何度も口を挟もうとした。

 「こじつけだ」

 「死人の書き残しを証拠扱いするのか」

 「そもそもその女の工房が――」


 けれど、そのたびに別の声が重なった。


 弥織が手続きの不備を指摘する。

 李々香が日付と番号を読み上げる。

 凌太が監査線を一本ずつ閉じる。

 健平が呼び入れた荷運び人が、深夜の搬入経路を証言する。

 老船員が、旧灯台まわりの不審な火の気を覚えていたと話す。

 パン屋の店主が、彩加の刻印が昨夜どれだけ町に残っていたかを語る。


 やがて、父子の前に残ったのは沈黙だった。


 祥章の横顔は、晩餐会の夜に見たそれよりずっと疲れていた。

 あのときは高い場所から彩加を見下ろしていた男が、今は父の影の中で自分の靴先ばかり見ている。


 審問長が、低い声で問う。

 「祥章。ここにある認可書の署名は、おまえのものだな」


 祥章の喉が上下した。


 長い間があった。


 彩加は、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。

 ここで彼がまた保身に走れば、もう情けを挟む余地は何もなくなる。そう思いながら、しかし同時に、自分がかつて婚約を結ぶはずだった男の最後の選び方を見届けずにはいられなかった。


 祥章はようやく顔を上げた。


 「……俺の署名です」


 室内が小さくざわめく。


 長官が鋭く振り向く。

 「何を――」


 「俺の署名です」

 今度はさっきよりはっきり言った。

 「父上に出せと言われて出した。内容も、行き先も、途中からは分かっていた。分かっていて止めなかった」


 握った拳が白くなる。

 それでも言葉は止まらなかった。


 「彩加の家に罪をかぶせれば、正規の刻印工房を一気に整理できると言われた。そうすれば交易の認可はこっちで握れると。……俺は、その方が勝てると思った。父上に認められると思った」


 長官の顔色が変わる。

 「黙れ」

 「もう黙りません」


 その一言は、部屋の空気を切った。


 祥章は唇を引き結び、それから彩加ではなく、審問長へ向かって続けた。


 「黒墨倉庫の鍵番号も、行政棟の保管印の予備も、父上の机の二重底にあります。昨夜、割れた大刻印板を搬入したときの伝令名簿も、たぶんそこに」

 短く息を呑み、視線を落とす。

 「俺も処分を受けます。受けるべきだ」


 父の顔を見ることは、最後までしなかった。


 彩加はその横顔を見つめた。


 許す気にはなれない。

 忘れることもない。

 けれど、あの晩餐会で自分を切り捨てた男と、今ここで自分の汚れを口にしている男は、同じ顔をしていても、同じままではなかった。


 審問は長くは続かなかった。


 証拠は十分で、逃げ道は少なすぎた。


 港湾行政長官は認可権限の剥奪、保管印不正使用、偽造刻印流通主導、港機能妨害の責で即日拘束。行政棟の封印と家宅検めが決まり、部屋の外で待っていた執行役が静かに前へ出る。長官は最後まで外套の襟を正そうとしたが、その指がうまく動かず、布地を引きつらせるだけだった。


 祥章には資格停止と監督下での労務奉仕が言い渡された。父の罪を隠さず証拠開示へ応じたこと、港機能回復へ必要な帳簿の所在を自ら明かしたことで、完全な断絶ではなく、再起の余地だけが細く残された。


 その宣告を聞いたとき、祥章は一度だけ目を閉じた。

 安堵とも絶望ともつかない顔だった。


 審問長は最後に、彩加へ向き直った。


 「朝凪刻印房に対する偽造関与の疑いは、本日付で正式に撤回する」

 重い槌音が落ちる。

 「営業停止勧告は無効。名誉を回復し、聖夜灯航祭における港機能維持への功績を記録する」


 その言葉を聞いた瞬間、彩加は自分の中のどこかが、ようやくほどけるのを感じた。


 名誉回復。


 たった四文字なのに、ここへ辿りつくまで、どれだけ遠かっただろう。


 晩餐会で浴びた視線。

 帰り道の石畳。

 工房の冷えた台所。

 香辛料倉庫の傷んだ荷札。

 泣く子どもの手。

 黒墨で汚れた帳簿。

 旧灯台の地下。

 焼けた倉庫。

 壊された大刻印板。

 氷雨の夜。


 全部が胸の中で一度だけ波のように押し寄せ、静かに引いていく。


 気づけば、弥織がそっと背中へ手を当てていた。


 「泣くなら外に出てからにしなさい」

 声音は淡々としているのに、指先はあたたかい。


 李々香が小さく咳払いする。

 「正式な回復文書は、字を間違えずに写してから渡します」

 そのあとで、目を伏せたまま付け足した。

 「……おめでとうございます」


 健平は部屋の入口から、「よかったな」とだけ言った。

 それだけなのに、昔から知っている声で言われると、涙腺がひどく危うい。


 凌太は何も言わなかった。


 ただ、審問室を出るときに、混み合う廊下から彩加を守るよう半歩前へ立った。人波が自然と割れる。その背中を見た瞬間、彩加は泣くより先に笑ってしまった。


 この人は本当に、最後までこうなのだ。


 昼を過ぎると、港町はようやく「勝った」と理解し始めた。


 中央広場では割れた大刻印板の破片が整理され、代わりに昨夜つないだ分散刻印の地図が掲げられた。昼市ではパン屋が祝いの丸パンを並べ、花売り娘が白い枝花を一輪ずつ配っている。炊き出し小屋からはいつもより濃い煮込みの匂いが漂い、荷揚げ場では夜通し働いた若い衆へ温い茶が配られていた。


 朝凪刻印房の戸口には、弥織が持ってきた正式文書が掛かった。


 ――朝凪刻印房の業務資格、商標、祝福刻印取扱権を完全に回復する。


 墨の乾ききらないその文書を見たとき、彩加は思わず指を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。触ったら滲みそうで怖かったのだ。


 「触っても、今日は消えないと思うけどな」


 健平が勝手口から顔を出して言う。


 「やめて。こういうのは、心の中で三回くらい読んでから触るの」

 「何だその作法」

 「今決めた」

 「おまえ、昔から変なところで神経質だよな」


 言い合いながら笑っていると、トトが棚の上から飛び降りて二人の間を跳ねた。耳はもう青く光らず、真っ白なまま、どこか自慢げにふくらんでいる。


 夕方まで、人の出入りは絶えなかった。


 パン屋が祝いの甘パンを持ってくる。

 花売り娘が枝花を一輪、工房の窓辺へ挿す。

 老船員が「今度は膝当てじゃなくて孫の手袋へ頼む」とぶっきらぼうに言う。

 炊き出し小屋の女たちが鍋ごとスープを差し入れる。

 夜に毛布を盗んだ子どもは、今度は母親に手を引かれてやってきて、「ありがとう」を二回言ってから逃げた。


 そのひとつひとつを受け取るたび、彩加は少しずつ実感した。


 朝凪刻印房は、もうただ疑いを晴らしただけの場所ではない。

 ちゃんと、町の中へ戻ってきたのだと。


 日が傾くころ、ようやく来客が途切れた。


 工房の中へ冬の夕暮れが入り込み、棚の瓶が飴色に光る。弥織と李々香は書類を持ってギルドへ戻り、健平も「夜はこっちで見張る必要ねえな」と荷揚げ場へ帰っていった。トトは暖炉脇の籠へ丸くなり、スープの匂いに満足した顔で眠っている。


 静かになった工房で、彩加はようやく椅子へ腰を下ろした。


 座った途端に、身体が信じられないほど重くなる。


 「……終わった、のかな」


 誰にともなく呟く。


 返事はすぐには来なかった。


 凌太は帳場机の前で、何かを書き終えたところだった。筆を置き、紙を乾かし、封筒へ入れる。動作はいつもと変わらずきっちりしているのに、その横顔だけが妙に静かだ。


 彩加は首をかしげた。

 「何書いてるの」


 「提出書類」


 「まだあるの?」


 「ある」


 「ギルドって嫌い」


 「同感だ」


 あまりにも真顔で言うので、彩加は吹き出した。


 笑ったあとで、ふと思う。


 この人は、今日一日ずっと自分を優先してくれた。船団、審問、名誉回復、来客対応。その全部のすき間で、包帯の巻き直し一つ、自分からは言わなかった。


 彩加は椅子から立ち上がった。


 「ちょっと、右腕貸して」


 「大丈夫だ」


 「その台詞、今日十回くらい聞いた」


 抵抗する間も与えずに手首を取ると、凌太がわずかに眉を上げる。包帯を解く。薬の匂いが広がる。火傷自体は浅いが、昨夜より赤みが戻っている。


 「……後でいい、じゃなかったの」

 彩加は小さく言う。

 「後にしたら悪くなってるじゃない」


 凌太は視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。

 やがて、低い声が落ちる。

 「君の方が先だと思った」


 またそれだ。


 彩加は新しい薬を塗りながら、少しだけ口を尖らせた。

 「そういうところ、ずるい」

 「どこが」

 「こっちが怒りたいのに、怒れなくなるところ」


 薬を塗る指先へ、凌太の視線が落ちている。


 包帯を巻き終えたとき、工房の外はすっかり青い夕暮れに変わっていた。窓辺へ挿した枝花の影が、床へ長く伸びる。


 凌太が静かに言う。

 「少し、外へ出るか」


 彩加は一瞬だけ迷った。

 身体は疲れている。けれど、その声の調子に、今行かなければいけない気がした。


 厚手の外套を羽織り、二人で工房を出る。


 向かったのは、朝の船団を見送った南岸壁だった。


 夜の港は、昨夜とはまるで違っていた。暴風の名残は消え、空気は冷たいのに刺さるようではない。沖へ出た船団の灯が遠くに小さく見え、岸壁の誘導灯は規則正しく波へ揺れている。雪は石畳の目地へ細く残り、踏むとしゃり、と乾いた音がした。


 人通りは少なかった。

 祭りの一日を終えた町は、それぞれの家で遅い食卓を囲んでいるのだろう。遠くから笑い声と鍋の蓋の鳴る音が混じって届く。


 彩加は岸壁の端で立ち止まった。


 海へ向けて立つと、灯りが背から差す。

 足元の石畳へ、二つの影が長く伸びた。


 彩加は、その影を見た。


 自分の影。

 隣に並ぶ凌太の影。

 二つは離れすぎず、ぴたりと重なりもしない、ちょうど歩き出せる距離で石の上へ落ちている。


 母のアルバム。

 裏に書かれていた言葉。

 地面に浮かぶ君の影。


 あの晩餐会の帰り道、自分は石畳にのびたたった一つの影を見て、立ち尽くしていた。明日がどこにも続いていないみたいで、笑うしかなかった。


 けれど今は違う。


 彩加は影を見たまま、ゆっくり口を開いた。


 「母さんの写真の意味、やっと分かった」


 隣で、凌太が黙って聞いている。


 「前は、自分の影を見ると、ひとりだって感じてた。ここで止まったら、そのまま消えるんじゃないかって」

 息を吸い、白く吐く。

 「でも、もう違う。私はもう、自分の影だけ見て立ち止まらない」


 言葉は夜気の中へまっすぐ出ていった。

 飾らずに言えたのは、たぶんここまで来るあいだに、散々遠回りしたからだ。


 凌太が、懐へ手を入れた。


 取り出したのは、一枚の紙だった。


 見覚えがある。

 十二月初旬の夜、石畳の帰り道で差し出された、あの契約書。工房の保全と調査のため、聖夜灯航祭の翌朝まで、配偶者として連帯責任を負うと定めた書面だ。何度も読み返し、何度も「利害一致」という言葉に助けられ、同時に傷ついた紙。


 凌太はそれを開いた。

 夜の灯りの下でも、条文の線がはっきり見える。


 「これで、君をこの家に引き留めた」

 低い声だった。

 「これがなければ、工房も調査も守れなかった。必要だったと思ってる」


 彩加は、何も言わずに待った。


 凌太の指先が紙の端をつまむ。


 「でも、ここから先に、これはいらない」


 びり、と音がした。


 派手ではない。怒って引き裂く音ではなかった。確かめるみたいに、ひと呼吸ごとに裂いていく。署名の上を。条件の文を。期限の一文を。冷たい夜に始まった関係を縛っていた線が、細く、しかし確実に切れていく。


 紙片は風に飛ばされないよう、凌太の手の中へ残った。


 最後の一片まで裂き終えてから、彼は彩加を見た。


 「ここから先は、契約じゃなくていい」


 その言葉だけで、胸の奥がいっぱいになる。

 けれど、まだ肝心なところが足りない。


 たぶんそれは、凌太自身も分かっている顔をしていた。


 「君がいい」

 彼は続ける。

 「君と働きたい。朝も夜も、同じ家で、同じ町を見たい。困ってる人が来たら一緒に考えて、終わったら一緒に帰りたい」

 一度だけ息を詰め、それから真正面から言った。

 「彩加。俺の妻になってくれ」


 彩加の目の奥が熱くなった。


 泣くまいと思ったのに、最初の一滴だけはどうしても止められなかった。頬へ落ちる前に、慌てて笑う。こんな大事なときに泣き顔ばかり見せるのは、少し悔しい。


 「……正式に言った」

 鼻にかかった声でそう言うと、凌太の肩から力が抜けるのが見えた。


 彩加は涙を指先で拭い、それから、いつもの調子を無理やりでも取り戻すように口を開く。


 「遅いのよ」

 「悪い」

 「あと、私は安くないの」

 「知ってる」

 「朝はちゃんとご飯食べる人じゃないと困るし、怪我したら後回しにする人も困るし、帰りが遅いときは一言ほしいし、工房の戸締まりは一緒に確認してほしいし」

 言いながら、自分で何を並べているんだろうと思う。けれど止まらない。

 「それから、契約じゃないなら、隣にいる理由を誤魔化さないで」


 凌太が、今夜初めて少しだけ笑った。

 「全部やる」


 「本当に?」


 「できなかったら、その都度言ってくれ」


 それはたぶん、この人ができる最大限の甘い台詞だった。


 彩加はとうとう笑ってしまった。笑いながら泣く形になる。みっともないのに、もうどうでもよかった。


 「……うん」

 小さく頷く。

 「じゃあ、よろしくお願いします。凌太さん」


 呼んだ名に、自分で頬が熱くなる。

 今まで何度も口にしてきたはずなのに、意味が変わるだけで、こんなに響きが変わるなんて思わなかった。


 凌太が一歩近づく。


 許しを取るように一瞬だけ止まってから、そっと彩加を抱き寄せた。力は強すぎず、逃がす余地を残した抱き方だった。そのくせ、離れようと思えばたぶん彩加の方が先に嫌がると分かってしまうくらい、ちょうどよくあたたかい。


 彩加は外套越しにその胸へ額を寄せた。


 波の音がする。

 遠い船団の鐘が、風に乗ってかすかに届く。

 港町リュストルの夜が、ようやく一日分だけ静まっていく。


 「ねえ」

 腕の中から彩加が言う。

 「契約書、捨てないで」


 「もう裂いた」

 「分かってる。だから」

 顔を上げて、少しだけ笑う。

 「あとで母さんのアルバムの空いてる頁に貼っておくの。こんな始まりだったって、忘れないために」


 凌太は一瞬だけ目を見開き、それから深く頷いた。

 「いい」

 「でも、その隣には別の紙を貼るから」


 「別の紙」


 「新しい婚姻届とか、正式な共同経営の書類とか」

 彩加はわざと少し胸を張る。

 「朝凪刻印房、これから忙しくなるもの。祝福刻印だけじゃなくて、相談も受けるし、子どもの毛布も船の荷札も仲直り祝いも、全部来るわよ」


 「分かってる」


 「逃げないでよ」


 「逃げない」


 たったそれだけの応酬なのに、未来の形が少しずつ見える。


 工房の朝。

 帳場の夜。

 差し入れのパン。

 勝手口から入ってくる健平。

 書類を抱えて来る李々香。

 伝令札を片手に現れる弥織。

 トトが窓辺で客を迎える音。

 誰かの困りごとと、誰かの明日。


 それらの真ん中に、自分とこの人が並んで立つ。


 彩加はもう一度、足元の石畳を見た。


 二つの影がある。

 灯りに伸ばされ、少し揺れて、それでも同じ場所から海へ向いている。


 昔は影を見ると怖かった。

 今は、歩き出す方向が分かる。


 「帰ろうか」

 凌太が言う。


 彩加は頷いた。

 「うん。帰ろう、うちに」


 その一言が、胸のいちばん深いところへやさしく落ちた。


 二人で岸壁を離れる。

 雪の残る石畳の上を、並んで歩く。

 もう演技で歩幅を合わせる必要はない。自然に同じ速さになる。工房へ向かう坂道の上では、窓辺の枝花がまだ薄く白く見え、その向こうに朝凪刻印房の灯がともっていた。


 完璧な恋人のふりから始まった二人は、その夜、ようやく本物の夫婦になった。



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