第23話 春、朝凪刻印房兼相談所
春の潮風は、冬のそれより少しだけやわらかい。
聖夜灯航祭から三か月ほど過ぎた朝。港町リュストルの坂道には、昨夜の雨を吸った石畳が淡く光り、岸壁の向こうでは荷を積み替える船頭たちの掛け声が、もう高く空へ抜けていた。
朝凪刻印房の看板は、その朝から新しくなっている。
古い木札の下へ、もう一枚、明るい色の板が増えていた。
祝福刻印房兼相談所。
彩加が何度も墨を塗り重ね、凌太が傾きを見て打ち直し、弥織が「店の顔なんだから、字の間を欲張らない」と口を挟み、李々香が乾燥用の布を無言で差し出し、健平が勝手口から顔を出して「看板ひとつで急に立派な家に見えるな」と茶化した、その板である。
開店前だというのに、もう玄関前には人がいた。
炊き出し小屋で会った兄妹のうち、今はすっかり頬の色が良くなった妹が、母親の手を引いて立っている。通学鞄へ保温の刻印を入れてほしいのだと、目をきらきらさせていた。花売り娘は水桶の保冷印の具合を報告に来ていて、老船員は「膝当てを直したら今度は孫の手袋だ」と言い張っている。開きかけた隣家の窓からは、昨冬に窯を助けたパン屋の主人が焼きたての丸パンを掲げ、「看板祝いだ」と怒鳴った。
彩加は戸を開けるなり、笑って両手を上げた。
「順番に聞くから押さないで。今日は相談所も兼ねてるんだから、困りごとは一人ずつよ」
言ってから、足元に青白い光がちろりと走る。
トトだった。
白い潮うさぎは新しい看板の下を一周すると、満足したみたいに耳を揺らし、そのまま店先の籠へぴょんと飛びこんだ。耳の色は白い。危ない偽造刻印が近くにない印だ。
「今日の見張りは平和そうだな」
背後から声がして、彩加は振り向いた。
朝の光を肩にのせた凌太が、帳場机の上へ書類の束を置くところだった。監査官の外套ではなく、今日は袖口の締まった地味な仕事着である。けれど持ってきた書類は相変わらずきっちり角が揃っていて、表紙には『共同経営登録』『相談受付控え』『港内支援印の申請簡略化案』と几帳面な字が並んでいた。
「平和そう、じゃないの。平和にするために昨日まであれだけ走り回ったんでしょう」
彩加が言うと、凌太は否定せず頷いた。
「戸締まりは昨夜も確認した」
「知ってる。私が二回目を確認したもの」
「朝飯は食べた」
「それも知ってる。私が座らせたから」
短いやり取りに、戸口で待っていた人たちがくすくす笑う。
彩加は少しだけ頬を熱くしながらも、もう視線から逃げなかった。
冬のあいだは、見られることに慣れるまで時間がかかった。契約夫婦として向けられていた好奇の目は、聖夜の夜を越えたあと、祝福の混じったものへ変わった。それでも最初のうちは、誰かの前で自然に隣へ立つだけで胸が落ち着かなかった。
けれど今は違う。
凌太が近くにいることは、演じるためではなく、仕事を回し、暮らしを回し、自分の呼吸を整えるための、当たり前の位置になっていた。
「彩加さん」
妹の方の子が、鞄を両手で抱えて差し出す。
「これ、朝だけ本が冷たくならないようにできる?」
「できるわよ。ただし欲張りすぎると、今度はお昼に温かすぎて中の飴が溶けるから加減する」
「飴入れるの?」
「たぶん入れる顔してる」
その子は真剣に考えてから、こっくり頷いた。
工房の中に笑いがひろがる。
彩加は作業台へ鞄を置き、細い刻印筆の先へ、塩と鉱石を混ぜた墨を含ませた。春の朝日が窓から差しこみ、筆先の黒を青く光らせる。
この光景を、母は見たかっただろうかと、ふと考える。
答えは分からない。けれど、もし見ていたなら、たぶん「やっと店らしい顔になったね」と笑った気がした。
重ね刻印は、焦ると線が濁る。
彩加は息をひとつ整え、鞄の内側へ、ごく薄い保温印と湿気避けの補助印を二層に重ねた。防寒だけでは足りない。春先の海辺は朝だけ冷え、昼には急に陽が強くなる。暮らしのための印なら、季節の半端さまで引き受けなければならない。
「はい、これで朝の石筆は冷たくなりにくいし、昼には熱を逃がす」
「すごい」
子どもが目を丸くする。
それだけで、彩加の胸の奥へ小さな灯がともる。
あの晩餐会の夜、自分は全部失うのだと思っていた。婚約者も、工房も、母の残した仕事も、ここに立つ資格も。石畳にのびた自分の影だけがやけに長くて、どこまで歩いても一人きりだと思っていた。
今は、その影の隣にもう一つある。
そして、その少し先にも、いくつもある。
帳場では弥織が勝手知ったる顔で相談札を並べ始めていた。
「はい、まず急ぎの人から。船荷証券の防水印の相談は左。贈り物に添える祝い印は右。夫婦喧嘩の仲直り祝いは、内容を先に聞いてから」
「そこ、窓口を増やさないでください」
李々香が書類箱を抱えたまま、冷えた声で言う。
けれどその箱の中には、今日から正式にここへ出入りするための監査補佐の控えがきちんと収まっていた。机へ置く動きは無駄がない。その横で健平がいつものように勝手口から入ってきて、包み紙を放った。
「パン屋のおっさんが、祝いなのに俺に持たせるなっての。潰すところだった」
「半分潰れてるじゃない」
「味は同じだろ」
「見た目も大事なんです」
彩加が呆れて言うと、健平は鼻で笑ってから、店先の列を振り返った。
「でも、まあ」
そう言って、少しだけ目を細める。
「潰れかけてた家にしちゃ、上等だ」
彩加は返事の代わりに、潰れた丸パンのひとつを健平へ投げた。健平が器用に受け止める。その様子にまた笑いが起きる。
工房は忙しい。
忙しくて、狭くて、毎日なにかが足りない。
乾燥棚も、椅子も、保管箱も、相談時間も、たぶん睡眠も少し足りない。
けれど不思議と、足りないことが前ほど怖くなかった。足りないなら足す方法を考えればいい。誰かと一緒なら、その考え方自体も増える。
昼が近づくころ、店先の列がようやく落ち着いた。
彩加は奥の棚から、一冊のアルバムをそっと取り出す。
母のアルバムだった。
焼け跡のにおいも、海風にさらされた紙の傷みも、まだ少し残っている。その最後の頁には、裂けた契約書の一片が小さく貼ってあり、その隣には、数日前に改めて提出した婚姻届と共同経営登録の控えを写した薄い紙片が挟まれていた。
そして今朝、そこへ新しい写真が一枚加わった。
店先で撮ったものだ。
新しい看板の下で、彩加が刻印筆を持ち、凌太が少しだけぎこちない顔で隣に立っている。足元ではトトが籠から顔を出し、後ろでは弥織がきちんと整えた帳場机を守り、李々香は書類箱を抱えたまま目線だけこちらへ寄こし、健平はなぜか画面の端で丸パンをかじっていた。
家族写真にしては騒がしい。
けれど、今の自分たちには、これくらいがちょうどよかった。
「貼るのか」
背後から覗きこんだ凌太が言う。
「貼るの」
彩加は頷いた。
「空いてる頁、まだあったでしょう」
「まだある」
「じゃあ、これから埋まるわね」
アルバムを閉じる前に、彩加は指先で写真の端をやさしく押さえた。
母が残したものは、もう復讐のためだけの記録ではない。今日から先へ渡していく、暮らしの証拠だ。
そのとき、外で鈴が鳴った。
新しい客だ。
若い夫婦が、少し照れた顔で立っている。男の方が、包み布にくるんだ木箱を差し出した。
「すみません。仲直り祝いに、長持ちする保温印を入れた茶器を贈りたくて」
女の方が慌てて続ける。
「喧嘩したのは兄夫婦なんですけど」
彩加は目を細めた。
「なるほど。じゃあ、割れにくい補助印も少しだけ足した方がいいわね。仲直りの最中って、変に手が滑ることがあるもの」
若い夫婦が揃って吹き出す。
凌太が横で、すでに相談札へ記入欄を作っていた。
「受付はこっちだ」
「早い」
「相談所だからな」
彩加はふっと笑う。
そうだ。
ここはもう、祝福刻印を売るだけの店ではない。
荷札の防水印も、通学鞄の保温印も、灯りを守る窓の印も、仲直り祝いの茶器も、全部ひっくるめて、誰かが明日を少しだけ楽に生きるための場所だ。
彩加は作業台の前へ戻り、袖を軽くまくった。
春の光が、硝子窓から机へ落ちる。
戸口ではトトが小さく鳴き、帳場では弥織が相談札を捌き、李々香が新しい控えをめくり、健平がまた勝手にパンを食べていた。凌太は筆記具を整え、彩加の方を一度だけ見て、何も言わずに頷く。
その頷きだけで、今日もやっていけると思えた。
「いらっしゃいませ」
彩加は笑って、次の客へ手を差し出す。
港町リュストルの朝は忙しい。
でもその忙しさの真ん中で、朝凪刻印房兼相談所の灯は、今日もあたたかくともっていた。




