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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第21話 町じゅうの手で刻む

 朝凪刻印房へ駆け戻ったとき、戸口の鈴は風に煽られて鳴る余裕もなかった。


 彩加が肩で扉を押し開けると、工房の中には、冷えた木と乾いた墨の匂いが満ちていた。いつもなら落ち着く匂いなのに、今夜ばかりは胸の鼓動を速める合図にしかならない。


 「灯りを増やす」


 そう言ったのは凌太だった。濡れた外套を脱ぐより先に、壁際の油灯へ火を移していく。火傷を負った右腕はまだ包帯の下に熱を残しているはずなのに、動きには一切ためらいがない。


 「無茶しないで」


 彩加が思わず言うと、凌太は振り向かずに答えた。

 「無茶はしない。急ぐだけだ」


 その返しがあまりにもこの人らしくて、彩加は一度だけ息を吐いた。


 工房の奥へ踏み込む。母の刻印棚、乾燥台、墨壺、磨き布。全部がいつもの場所にある。その当たり前が、今夜は救いだった。


 彩加は濡れた手で屋根裏梯子を掴み、二段飛ばしで上がった。箱の中からアルバムと折り畳まれた古地図を引き出し、さらに裏板の間へ挟まっていた薄い羊皮紙を抜く。母の字で書かれた設計の補足だ。線は細いのに迷いがない。


 「これ……これよ」


 下へ降りると同時に、弥織と李々香が駆け込んできた。弥織は濡れた伝令札を束で抱え、李々香は古地図と定規を胸に抱きしめている。健平はその後ろから、荷揚げ場の若い者を三人引き連れてきた。


 「工房の前、すでに人が集まり始めてる」

 健平が言う。

 「指示が要るなら、今すぐ回すぞ」


 「待って。順番に決める」


 彩加は作業台の上を一気に片づけ、羊皮紙と古地図を広げた。油灯の明かりの下で、母の線と現在の町の地図が重なっていく。


 そこには、大きな一枚板を中心にした刻印ではなく、港町リュストルじゅうへ散らした小さな印を結ぶ円環が描かれていた。

 北倉庫。

 中央井戸。

 炊き出し小屋。

 昼市の石畳。

 南岸壁の係留杭。

 旧灯台の外壁。

 船溜まりの誘導柱。

 そして、朝凪刻印房。


 彩加は震えそうになる指を、両手で押さえた。


 「母さん……最初から、一人で守る気じゃなかったんだ」


 李々香がすぐに顔を上げる。

 「接続点が多すぎます。普通なら同調が散って、中心印が暴れます」


 「普通なら、ね」


 彩加は羊皮紙の余白を指した。そこには、短い走り書きがある。


 ――暮らしの中で一度でも役に立った印は、次の印を受け入れる。


 読み上げたあとで、彩加ははっとした。

 胸の奥で何かがぴたりとはまる。


 香辛料倉庫の保冷印。

 パン屋の窯の保温印。

 花売り娘の水桶の保冷印。

 炊き出し小屋の扉の保温印。

 老船員の詰所の窓枠。

 井戸端の防凍印。

 船溜まりの簡易誘導灯。


 これまで「小さな依頼」と呼んできたものが、全部ここへつながる。


 「母さんは、暮らしに残った印を土台にするつもりだったのよ」

 彩加は地図の上へ次々と印を置いていく。

 「だから助けた人の手で完成する。上手い刻み手を一人集める必要なんてなかった。必要なのは、使ってくれた場所を知ってる人、守りたい場所を知ってる人」


 弥織の目が細くなる。

 「なら話は早いわね」


 李々香もすぐに地図へ身を乗り出した。

 「過去の保全記録と照合できます。生きている旧印と、今夜新しく補うべき位置を分けましょう」


 健平は頬をぐいと拭う。

 「走る役はいくらでもいる。場所を言え」


 凌太は油灯を最後の一本まで灯し終えると、作業台の向こう側へ立った。濡れた前髪の下の目が、妙に静かだ。

 「全体は俺が割る。彩加、接続順を決めろ」


 「うん」


 彩加は頷いた。もう迷っている時間はない。


 「中心は広場じゃない。広場は壊された。代わりに、朝凪刻印房を基点にする」


 全員の顔が上がる。


 彩加は自分で言ってから、その重さを知った。

 工房を守るために始めた契約結婚だった。けれど今は、その工房から町へ印を送り出そうとしている。


 「ここなら乾燥台も墨壺もあるし、重ね刻印の調整ができる。ここで本線を起こして、北は井戸と倉庫、東は昼市と炊き出し小屋、西は岸壁、南は船溜まりと灯台へ流す」

 彩加は指先で地図に弧を描く。

 「残っている旧印へ薄く追刻して、最後に私が接続印で全部をつなぐ」


 李々香が紙へ書き込みながら言う。

 「同調の間隔は?」


 「短いほど安定する。でも、今夜は全部を密に刻む時間がない。だから間に『人が触れる場所』を挟む」


 「人が?」と健平が首をひねる。


 「扉の取っ手、窓枠、手すり、係留杭、井戸の桶、パン窯の縁。毎日誰かが触る場所は、祈りが薄く残るの」

 彩加は自分でも驚くほど落ち着いた声で言えた。

 「祝福刻印は、魔法だけじゃない。暮らしの癖を借りるのよ」


 弥織が小さく笑った。

 「今夜ほど、その説明が似合う夜もないわね」


 そこへ、工房の戸が激しく叩かれた。


 全員が一斉に振り向く。


 健平が一歩前へ出たが、凌太の方が早かった。扉を開けると、外から氷雨と一緒に人影がなだれ込んできた。


 祥章だった。


 青ざめた顔で、濡れた外套の裾から雫を落としている。呼吸は乱れ、いつもの整った身なりは跡形もない。右手には、錆びた鍵束が握られていた。


 工房の空気が張る。


 健平が低く唸った。

 「何しに来た」


 祥章はその声を無視するように、まっすぐ彩加だけを見た。

 「南の連結点が潰される」


 彩加の眉が跳ねる。


 「父が、もし大刻印板が壊されても、南岸壁の旧導線だけは封じれば船は出せないって……そう言っていた」


 祥章は喉を鳴らした。自分の言葉が自分の中を削っているみたいだった。

 「税関脇の保守小屋に、補助刻印の残骸が詰め込まれてる。そこから偽造の流れを南の杭へ回す手筈だ。鍵はこれしかない」


 弥織が険しい目で鍵束を見る。

 「今さら情けを買うつもり?」


 「違う」

 祥章はすぐに言い返したが、次の言葉は遅れた。

 「……違う、と言い切れないのかもしれない。でも、それでも、あれを通したら港が沈む」


 沈黙が落ちる。


 彩加は鍵束を見た。祥章の指は寒さだけではなく、別の震えを抱えている。


 昔なら、その震えへ理由を与えようとしたかもしれない。慰める言葉を探したかもしれない。

 けれど今は違う。


 「場所は正確に」


 彩加がそう言うと、祥章の目が揺れた。


 「南岸壁へ下りる石段の途中だ。保守小屋の床下。偽造墨を混ぜた継ぎ線が、古い導線に噛んでる」


 凌太が一歩出る。

 「案内しろ」


 祥章は顔を上げたが、凌太の目を正面から受け止めきれない。

 「お前も来るのか」


 「当たり前だ」


 健平が舌打ちする。

 「じゃあ俺も行く」


 弥織が即座に割って入った。

 「駄目。あなたは走らせる側。南へ主戦力を割いたら、他の持ち場が死ぬ」


 李々香が地図へ指を置く。

 「南を切るなら、同時に北へ追刻を入れて圧を逃がしてください。そうしないと接続印が片寄ります」


 彩加は頭の中で線を引き直した。


 「凌太、祥章と二人で南へ。健平、荷揚げ場の若い人を井戸と北倉庫に振って。弥織さんは人の割り振り。李々香さんは地図の更新。私は工房で母の線を起こす」


 言い終えると同時に、皆が動いた。


 「彩加」


 出ていく直前、凌太が呼ぶ。


 振り向いた彩加へ、彼は自分の左手を差し出した。右腕は包帯がある。だから使える方の手で、短く、確かめるように。


 彩加は迷わずその手を握った。


 「必ず戻る」


 「うん。戻ってきて」


 それだけで十分だった。


     *


 工房の前庭は、あっという間に臨時の帳場になった。


 弥織が伝令札を持ったまま、人を振り分ける。

 「花売りの子たちは昼市と中央井戸へ。炊き出し小屋の皆さんは扉と北窓を保温優先。パン屋さん、墨鍋は二つ要るわ。一つは工房、一つは南岸壁へ!」


 健平は荷揚げ場の若い者の首根っこをつかまえては方向を示す。

 「お前、北倉庫! お前は船溜まり! 転ぶなよ、転んだら俺が転がす!」


 「どっちにしても転ぶじゃねえか!」


 怒鳴り返しが飛び、それでも足は止まらない。


 彩加は作業台の前へ座り、母の羊皮紙を写し始めた。墨は三種類に分ける。通常の祝福墨、薄い接続用の銀混じり墨、そして偽造残骸を中和する塩灰墨。


 乾燥台の横へ、小さな木板を並べた。

 それぞれに持ち場の名を書き込む。


 北倉庫。

 中央井戸。

 昼市。

 炊き出し小屋。

 詰所。

 南岸壁。

 船溜まり。

 旧灯台。


 「彩加ちゃん、手が冷えてる」


 聞き慣れた声がして振り向くと、花売り娘がいつの間にか工房の戸口に立っていた。手には湯気の立つ小さなカップがある。


 「これ、パン屋のおじさんが。手を温めろって」


 受け取ると、甘く煮た林檎の匂いがした。


 「ありがとう」


 「ううん。私、井戸見てくるね」


 娘はそれだけ言ってまた駆けていく。

 その背へ、彩加は声をかけた。


 「井戸の縁に、前に刻んだ印が残ってるはず。青く光ったら、すぐ弥織さんへ言って!」


 「分かった!」


 戸が閉じる。

 氷雨の音がまた強くなる。


 彩加は林檎湯を一口だけ飲み、すぐ筆を取り直した。


 母の線は繊細だ。けれど怖がって細くなれば、町じゅうへ届かない。


 「……家柄より役に立つ手を持て、だったわよね」


 誰にも聞こえない声で呟く。

 返事はない。それでも、背中のあたりへ、昔の指先がそっと乗るような感覚がした。


 最初の木板へ接続印を描く。

 井戸用だ。

 次に北倉庫。

 次に昼市。

 その次に、炊き出し小屋。


 ただの形ではない。誰がそこを使うかを思いながら刻む。

 水を汲む人。

 荷を守る人。

 温かい汁を配る人。

 朝一番に窯へ火を入れる人。


 筆先に迷いが消える。


 李々香が工房の奥から顔を上げた。

 「北の詰所、旧印が半分だけ生きています。追刻で足ります」


 「了解。防寒より誘導を優先して」


 「分かりました」


 李々香の声は相変わらず事務的なのに、今夜は不思議と冷たく聞こえない。紙の人だと思っていた彼女が、いまは町の血の巡りを数えているみたいだった。


 工房の戸がまた開く。


 今度は老船員だった。帽子から氷雨をぼたぼた落としながら、無言で懐から木片を取り出す。膝当ての防寒印を入れたときに余った端材だ。


 「詰所の窓枠と同じ木だ」

 ぶっきらぼうに言う。

 「手本に使え」


 彩加は目を見開いた。

 「持っててくれたんですか」


 「捨てる理由がなかった」


 その一言が胸へまっすぐ刺さる。彩加は端材を受け取って、深く頭を下げた。

 「ありがとうございます」


 老船員は気まずそうに鼻を鳴らし、すぐに戸口へ向き直った。

 「南の風向きが変わる前に灯台側も動かせ。長くはもたんぞ」


 「分かりました」


 彼が去ったあと、彩加は木片へ指を当てた。

 暮らしの中で役に立った印は、次の印を受け入れる。

 母の言葉は本当だった。


     *


 同じころ、南岸壁へ向かった凌太と祥章は、氷雨で滑る石段を駆け下りていた。


 税関脇の保守小屋は、打ち捨てられたように暗かった。だが扉の下から、ぬめる黒い光が一筋、雨水に混じって流れ出している。


 祥章が鍵束を震える指で選る。

 「これだ」


 「早くしろ」


 凌太の低い声に急かされ、鍵が錠前へ差し込まれた。開いた扉の向こうには、古い保守具ではなく、粗末な桶と墨壺、それに削りかけの細板が積み上がっていた。床板の隙間から黒墨の継ぎ線が伸び、南岸壁の係留杭へ向かっている。


 凌太は一目で状況を掴んだ。

 「ここで旧導線へ噛ませていたのか」


 「父は、正規の印を壊すより、途中へ偽物を差し込む方が見つかりにくいと言っていた」


 祥章の声は、自分の父の言葉を吐くたびに削れていく。


 「聞いていたのに、止めなかった」


 凌太は床板をはがしながら、短く答えた。

 「それは審問で話せ」


 「……審問まで生きていられたらな」


 「生きるさ」


 凌太は顔を上げずに言う。

 「港を沈めずに済んだら、逃げる先はない」


 床下から、どろりと濁った塊が現れた。偽造墨を何層も重ねて固めた導線だ。祝福刻印の形だけ真似ているせいで、雨水と混ざるたびに本来の線を腐らせる。


 祥章が青ざめる。

 「そんなものまで……」


 「見ていなかっただけだ」


 凌太は塩灰袋を破り、その上へぶちまけた。じゅっと嫌な音が鳴り、黒い塊が泡立つ。


 外では健平が回した荷揚げ場の若者たちが、縄と板を運び込んできた。


 「監査官! 杭の側、雨で足場が死んでます!」


 「板を渡せ。継ぎ線を切る」


 祥章は反射的に前へ出た。

 「俺が行く」


 凌太が眉を上げる。


 「俺の家の印だ。せめて、最後に切るくらいは」


 それは言い訳なのか、懺悔なのか、本人にも分からない顔だった。


 凌太は一拍だけ見つめ、それから塩灰墨の小壺を投げ渡した。

 「手を滑らせるな」


 祥章は受け取り、雨の中へ飛び出した。


     *


 夜半までに、工房の床は木板と伝令札で埋まった。


 彩加は休む間もなく刻み続け、左手の小指まで墨で黒く染まっていた。何枚目か分からなくなったころ、トトが乾燥台の上でぴんと耳を立てた。


 白かった耳先が、ほのかに銀へ変わる。


 「つながり始めてる」


 彩加が呟くと、李々香がすぐに記録板を確認した。

 「中央井戸、反応あり。昼市も薄く点灯」


 弥織が外から戻ってくる。

 「炊き出し小屋の扉、子どもたちが順番に取っ手へ手を当ててる。『あったかくなれ』って唱えながら」


 彩加は思わず笑った。

 「それで十分」


 「十分以上よ」

 弥織は濡れた髪をかき上げる。

 「あなたが撒いてきたもの、ちゃんと根づいてた」


 そのとき、南側の窓がかすかに青白く光った。


 工房の中の全員が振り向く。


 南岸壁だ。

 つながったのだ。


 彩加は思わず筆を止めた。


 そこへ、戸が勢いよく開く。氷雨の向こうから凌太が戻ってきた。外套も髪もずぶ濡れで、呼吸は荒い。だが目は生きている。


 「南を切った」


 その一言に、工房中の空気が一段明るくなる。


 「祥章は?」


 彩加が聞くと、凌太は短く答えた。

 「外で縄を引いている。自分から残った」


 それ以上は言わない。

 今夜は誰かを裁く夜ではなく、つなぐ夜だと分かっているからだ。


 彩加は立ち上がり、凌太の包帯へ目を向けた。濡れて少し滲んでいる。


 「座って」


 「まだ――」


 「座って」


 言い切ると、凌太は一瞬だけ諦めたように息を吐き、椅子へ腰を下ろした。


 彩加は新しい布を取り、火傷の上へそっと巻き直す。指が触れるたび、包帯の下の熱が伝わる。


 「君の方が冷えてる」

 凌太が低く言う。


 「私はあとであったまる」


 「いつ」


 「全部終わったら」


 「それは遅い」


 言いながら、凌太は左手で彩加の手首を軽く包んだ。大きな手のひらから、冷えたはずなのに不思議な熱が移る。


 彩加は息を止めかけて、すぐに布を結び終えた。

 いまここで、その手の意味を考えたら、筆が持てなくなる。


 「……戻ってきてくれてよかった」


 結局、出たのはそれだけだった。


 凌太は少しだけ目を細める。

 「戻ると言った」


 「知ってる」


 それでも言いたかった。


 弥織があからさまに咳払いした。

 「甘い空気はあとにして。中心印、もう入れないと持たないわ」


 彩加の耳が熱くなる。

 「べ、別に甘くないです」


 李々香が紙から目を上げずに言う。

 「温度はともかく、時間がありません」


 「李々香さんまで!」


 小さな笑いが起きた。

 それだけで、肩に入っていた余計な力が少し抜ける。


     *


 深夜、町じゅうの持ち場が薄い光で返事を始めた。


 北倉庫の梁が青く光る。

 中央井戸の縁が白く息を吐く。

 昼市の石畳の目地に、細い線が走る。

 炊き出し小屋の扉が淡く温かくなり、詰所の窓枠が曇りを払う。

 船溜まりの誘導柱が、波間に小さな灯を落とす。


 残るは最後の接続印だけだ。


 彩加は厚手の外套を羽織り直し、母の羊皮紙と中心用の墨壺を抱えた。トトはその肩へ飛び乗る。耳は真っ白に澄み、もう青く怒ってはいない。


 工房の前には、今夜走り回った人々が自然と集まっていた。

 パン屋の店主。花売り娘。老船員。炊き出し小屋の女たち。荷揚げ場の若い衆。難民船台帳の整理を手伝っていた記録係。いつか毛布を盗んで叱られた子どもまで、母親の裾を掴んで立っている。


 彩加はその顔ぶれを見渡し、喉の奥が熱くなった。


 こんなふうに見送られる側に、自分が立つ日が来るなんて思わなかった。


 「広場へ行く」


 凌太が全体を見回して告げる。

 「道は確保した。転ぶな。持ち場へ戻る者は戻れ。残る者は風よけを作れ」


 人々が頷く。

 誰も命令された顔をしない。自分から動く顔をしている。


 割れた大刻印板のある中央広場へ戻ると、氷雨はさっきより細かくなっていた。空はまだ重いが、北の端にだけ、ほんのわずかな薄明かりがにじんでいる。


 割れた板はそのままだった。

 けれど、もう敗北の象徴には見えない。

 新しい線を起こすための、ただの起点だ。


 彩加は板の中央へ立った。


 母の設計通りなら、ここへ一人で力を叩き込む必要はない。町じゅうで起こした小さな印を、ここで呼び合せればいい。


 「皆さん」


 彩加が声を張ると、周囲のざわめきが静まった。


 「今から接続印を入れます。上手く刻めるかどうかは、私一人じゃ決まりません」


 花売り娘が目を丸くする。


 「井戸の縁を触ってくれた手、炊き出し小屋の扉を押さえた手、北倉庫の梁へ縄を渡した手、窯を温めた手、灯台の壁へ灯りを置いた手。その全部が、今夜の印の一部です」


 彩加は胸の前で筆を握り直した。


 「だから、お願い。自分の持ち場を、守りたい場所を思い出して」


 老船員が杖を鳴らす。

 パン屋の店主が大きく頷く。

 炊き出し小屋の女たちが、胸の前で手を組む。

 子どもたちまで、まねをして両手を合わせた。


 彩加は目を閉じ、ゆっくり息を吸う。


 潮の匂い。

 木の匂い。

 墨の匂い。

 そして、人の暮らしの匂い。


 目を開ける。


 筆を下ろした。


 割れた板の中心へ、細く、しかし迷いなく一画目を引く。

 次に円。

 重ねて、連結の返し。

 さらに、北へ伸びる線。東へ分かれる線。南へ潜る線。西へ返る線。


 木肌がかすかに震えた。


 「……来て」


 誰へともなく、彩加は囁いた。


 井戸が応える。

 北倉庫が応える。

 昼市が応える。

 炊き出し小屋が応える。

 詰所が応える。

 南岸壁が応える。

 船溜まりが応える。

 旧灯台が応える。

 そして、朝凪刻印房が応える。


 石畳の下を走る見えない線が、広場の割れた板へ集まってくるのが分かった。


 トトが肩の上で高く鳴いた。


 次の瞬間、広場の中心から白い光が立ち上がった。


 眩しいのに痛くない。冷たい夜なのに、胸の奥だけが熱い。

 光は一本の柱ではなく、細い糸の束だった。井戸から、窯から、扉から、窓から、係留杭から、灯台から、家々の窓辺から、港のあらゆる場所で生まれた淡い灯が、広場で結ばれていく。


 「つながった……!」


 花売り娘の声が震える。


 その声に重なるように、岸壁の方から鐘が鳴った。

 船溜まりの誘導灯が次々と灯る。

 荒れていた海面のうねりが、ほんのわずかに緩む。


 凌太が広場の端で空を見上げた。

 「風向きが変わった」


 老船員が笑う。

 「灯が海をなだめたな」


 彩加は最後の返しを刻み切った。筆先が震え、手首が悲鳴を上げる。けれど止めない。


 町じゅうから集まった光が、板の割れ目を避けるように編み直され、やがて一つの大きな輪になる。


 壊されたのは中央の板だった。

 でも守っていたのは、最初から板だけじゃなかった。


 人が暮らす場所。

 人が手を当てる場所。

 人が「明日もここにいたい」と願う場所。


 それら全部が、今夜の刻印だった。


 最後の一画を引き終えた瞬間、彩加の膝が折れそうになった。


 その体を、横から凌太が支える。


 「終わった」


 低い声が耳元で言った。


 彩加は肩で息をしながら、かろうじて笑う。

 「まだ、船を出すところまで」


 「そこまで含めて、終わる」


 言い切る声に、今度は反論できなかった。


 広場の周囲で、次々と歓声が上がる。

 パン屋の店主が帽子を振り回し、花売り娘が飛び跳ね、炊き出し小屋の女たちが泣き笑いしながら抱き合う。健平は「だから言ったろ、足はあるって!」と誰へともなく怒鳴り、弥織はその横でようやく深く息を吐いた。李々香は記録板を抱きしめたまま、眼鏡の奥でそっと目を閉じている。


 少し離れた場所には、祥章も立っていた。

 氷雨に打たれたまま、光る岸壁を見ている。顔はよく見えない。けれど、広場の中心へ一歩も近づかないその立ち方だけで、彼が今夜の輪の外にいることは十分に分かった。


 彩加は、その姿から視線を外した。


 いま見るべきは、ここに残った灯の方だ。


 海から吹く風はまだ冷たい。けれどさっきまでの刺すような痛さはない。港の上を流れる空気が、ほんの少しだけ、人の息で温められたみたいだった。


 「彩加ちゃん!」


 花売り娘が駆け寄ってくる。

 「井戸、あったかいままだよ!」


 「窯も死んでないぞ!」とパン屋。


 「南の杭、全部灯った!」と荷揚げ場の若者。


 「詰所の窓、曇ってない」と老船員。


 「炊き出し小屋の鍋も、火が弱らなかったわ」と女たち。


 報せが次々と飛び込む。

 それは勝ち鬨というより、暮らしがちゃんと生きているという確認だった。


 彩加は笑った。笑いながら、涙が滲む。


 凌太がその顔を見て、何か言いかける。

 けれど結局、言葉の代わりに外套の前を閉じ直してくれた。


 その手つきがやさしすぎて、彩加はまた泣きそうになる。


 「……ねえ」


 かすれた声で呼ぶと、凌太が顔を寄せた。


 「何だ」


 「契約で始まったとしても」


 そこまで言って、彩加は唇を噛んだ。

 いま言うべき言葉の形が、分かりすぎるほど分かってしまう。けれど、この歓声の真ん中で、まだ全部を言ってしまうには少しだけ早い。


 だから別の言葉を選ぶ。


 「……今夜、隣にいてくれて、よかった」


 凌太は一拍だけ黙り、それから、ひどく静かな顔で答えた。

 「俺もだ」


 そのたった三文字が、今夜いちばん深く胸へ沈んだ。


 広場の向こう、岸壁では、出航準備の鐘が改めて鳴り始めていた。

 守りの線はつながった。あとは夜明けを待って、船団を送り出し、不正を裁く朝へ向かうだけだ。


 彩加は割れた大刻印板を振り返る。


 壊された跡は残っている。

 でももう、それを見ても怖くなかった。

 壊れた場所から、別の形を立ち上げられると知ったからだ。


 石畳には、たくさんの影が伸びている。

 自分ひとりの影ではない。町の人たちの影と、灯りの影と、隣に立つ凌太の影が、同じ広場の上で重なっている。


 母が写真の裏へ残した言葉が、ようやく実感を持って胸へ降りてきた。


 地面に浮かぶ君の影。

 それは、立ち止まるためのものじゃない。

 誰かの影とつながり、進むためのものだったのだ。


 氷雨の夜はまだ終わらない。

 それでも港町リュストルの灯は、もう簡単には消えない。


 彩加は墨で汚れた手のまま、そっと凌太の袖をつかんだ。

 彼は何も言わず、その手を振りほどかなかった。


 そのまま二人で、灯りのついた港を見た。

 夜明けの前の町が、静かに、確かに、次の朝へ向かって息をしていた。



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