第20話 クリスマス前夜の破壊
聖夜灯航祭の前夜、港町リュストルは、寒さの底にひそむ期待で白く明るんでいた。
朝のうちから、中央広場へは船主や荷運び人や商人たちが行き交っていた。広場の中央には、祭り用の大刻印板が据えられている。厚い樫板へ幾重にも下塗りを重ね、夜になれば護航刻印の中心になるはずの一枚だ。四方には縄柵が張られ、灯り役の子どもたちが触らないよう見張りも立っている。
彩加は、吐く息を白くしながら、その板の前に立っていた。
濃紺の外套の下へ作業着を重ね、指先には薄い革手袋。肩口には、トトが小さく丸まっている。白い潮うさぎは、寒い朝だというのに落ち着きなく耳を動かしていた。祝福刻印の余光を食べて育つこの小さな獣は、危うい印が近いときほど機嫌が悪くなる。
「昨夜より風が強いわね」
彩加が板の表面へ指先をかざすと、薄い防湿の下印がわずかに揺れ返す。表面の仕上がりは問題ない。だが海の方から吹きつける風には、潮だけではない、ぴりぴりしたささくれが混じっている気がした。
横で縄柵を確認していた凌太が顔を上げる。
「北の沖で気圧が下がっている。午後から氷雨になるかもしれない」
「聖夜前日にそれ、かなり嫌な報せなんだけど」
「嫌な報せだから先に言った」
「そこは気遣いが下手ねえ」
彩加は口ではそう言いながら、少しだけ安心した。嫌なことを嫌なまま、飾らず言ってくれる相手が隣にいるのは助かる。妙に取り繕われる方が、いまの彩加にはよほど怖い。
李々香は広場の東端で、書板を抱えたまま関係者の名簿を照合していた。弥織は屋台位置の変更を頼みに来た花売りたちの話を聞いている。健平は荷揚げ場から借りてきた男たちを使って、岸壁側へ祭礼用の灯架を運ばせていた。
皆、それぞれに手を動かしている。
昨夜、母の隠し紙を見つけたあとから、彩加の胸の中には、焦りと同じくらいはっきりした別の感覚が生まれていた。
自分ひとりで何とかしなくていいかもしれない、という感覚だ。
それは甘えではなかった。
むしろ、いままで認めるのが遅かった現実だった。
「彩加ちゃん!」
広場の西側から、明るい声が飛んできた。
振り向くと、昼市の花売り娘が、白布でくるんだ籠を両腕に抱えて走ってくるところだった。頬を真っ赤にし、鼻先まで冷えさせながら、それでも笑っている。
「頼まれてた針葉枝、持ってきたよ。灯りの下へ巻くぶん」
娘は籠を差し出し、それから声を潜めた。
「それと、井戸の横の印、朝いちで見てきたの。まだ生きてる。水、ちゃんと凍ってなかった」
彩加は思わず目を丸くした。
「見てきてくれたの?」
「うん。だって昨日、弥織さんが、人手が多いほど助かるって」
娘は胸を張る。
「私、花を売るだけじゃなくて、見回りくらいできるもん」
その言い方があまりにも誇らしくて、彩加は笑ってしまった。
「ありがとう。すごく助かる」
花売り娘はふふんと鼻を鳴らして去っていく。その背へ、弥織が「走ると転ぶわよ」と声を投げた。けれど娘は「今日は転ばないもん!」と振り返りもせず手を振る。
その小さな後ろ姿を見送りながら、彩加は胸元の奥で白花の感触を思い出した。昨日もらったあの一輪は、いま工房の食卓の小瓶へ挿してある。
「顔がやわらいだ」
不意に凌太が言った。
彩加は板から視線を戻す。
「何それ」
「昨日までより」
「……昨日まで、そんなにひどかった?」
「ひどいというより、息を止めてる顔だった」
健平と同じことを言う。港の男たちは、示し合わせて人の顔ばかり見ているのだろうか。
彩加は眉を寄せたが、言い返す代わりに大刻印板へ視線を戻した。木肌の上には、今夜刻む本印のための補助線が薄く引かれている。中心円から放射状に伸びる線。その一本一本を、今夜は彩加が最終確認する予定だった。
――予定、だった。
広場の空気が変わったのは、昼を少し過ぎたころだった。
海鳴りが、急に近くなった。
岸壁側で荷を固定していた男たちが、一斉に顔を上げる。北の空が暗い。雪ではなく、氷を細かく砕いたような雨が、風に押されて斜めに走ってくるのが見えた。
「まずいな」
健平が低く吐く。
「思ったより早い」
弥織がすぐ伝令札を取り上げる。
「屋台に幕を下ろさせる。李々香さん、広場の記録箱を屋根の下へ」
「分かりました」
彩加も外套の襟を押さえながら、板へかける防湿布を取りに走ろうとした。その瞬間、トトが肩の上でぴんと身を伸ばした。
白い耳が、ぞっとするほど鮮やかな青に光る。
「トト?」
次の刹那、広場の中央で、耳障りな音が鳴った。
ぎいん、と、板の芯までひっかくような音。
彩加は反射的に振り向いた。
大刻印板の中央へ、黒い筋が走っていた。上から誰かが斬りつけたみたいに、いや、それよりもっと悪質に、内側から腐らせたようなひびだ。補助線の上へ、濁った墨が一気に広がっている。普通の刻印墨ではない。黒墨に似せて混ぜ物をした、あの粘つく偽造の色。
「離れて!」
彩加は叫んだ。
板の表面で、薄い下印が悲鳴みたいに明滅する。正規の印が、偽造墨に噛まれて剥がれ始めているのだ。このままでは、刻印板そのものが割れる。
凌太が最初に動いた。縄柵の内側へ飛び込み、近くにいた見張りの若者を突き飛ばすように外へ出す。
「全員、柵の外へ!」
健平も駆け込んで、広場側の子どもたちを抱えて離す。弥織は屋台の女たちへ下がるよう指示を飛ばし、李々香は記録板を胸に抱えたまま、誰がどこにいたかを視線で追っている。
彩加は板のそばへ膝をついた。濁った墨の臭いが鼻を刺す。粗悪な鉄臭さ。海塩と混じると、吐き気がするほど嫌な匂いになる。
「下印を噛んでる……早すぎる」
手袋を外し、木肌へ指を置く。
「これ、上からかけたんじゃない。内部に仕込んである」
凌太がすぐ理解する。
「下地の時点で?」
「ええ。今朝までは持ってたのに、氷雨で反応が進んだのね」
彩加は歯を食いしばった。
「最初から、今この時間に壊れるよう組まれてた」
言い終えるより早く、板の中央がばきん、と嫌な音を立てて割れた。
周囲から悲鳴が上がる。
大刻印板は、中心円から放射状に裂け、刻むはずだった線を飲み込むように黒く染まっていく。祭りの夜に港を守るはずの一枚が、目の前で、役目を果たす前に死んでいった。
氷雨が強くなる。
海風が広場を舐める。
遠く、岸壁の方で船鐘が不規則に鳴った。
そのときだった。
「見たかね!」
よく通る、耳障りなくらい大きな声が広場へ響いた。
港湾行政長官だった。
黒い毛皮襟の外套をまとい、従者を二人連れて、いつの間にか広場の石段へ立っている。その隣には祥章の姿もあった。彼は父の一歩後ろにいて、顔色をひどく悪くしている。
行政長官は、割れた大刻印板と、その前にいる彩加を見下ろし、わざと広場全体へ聞かせる声で叫んだ。
「祭りを前にして、よりによってこの始末だ。やはりあの家の血は争えない!」
氷雨の中でも、その言葉ははっきり届いた。
広場にいた人々がざわつく。責める声ではない。だが驚きと戸惑いが入り混じり、空気が不安定に揺れた。
行政長官は続ける。
「朝凪刻印房の娘が祭りの準備へ関わってから、倉庫火災、黒墨騒ぎ、今度は大刻印板の破壊だ! 母親の代から問題のある家だったと、これで証明された!」
彩加の胸の奥で、何かが一気に冷えた。
母のことまで。
この男は、いつだってそうだ。自分が掴みやすい言葉を、人目の集まる場所で先に置く。証明など一つもしていないのに、断定の形で広める。そうして、疑いの泥を先に相手へかぶせてしまう。
最初の晩餐会と同じだった。
同じ、はずだった。
彩加はゆっくり立ち上がった。膝へついた雪混じりの水が、裾を濡らしている。割れた板の前に立つ自分は、端から見れば、確かに失敗の中心に見えるだろう。
喉の奥が締まる。
視線が集まる。
嫌な記憶が、石畳の底から浮き上がってくる。
ここでまた一人にされたらどうしよう、と、体のどこかが古い恐怖を思い出しかけた、その瞬間。
「違うよ!」
高い声が、風を裂いた。
花売り娘だった。
小さな体で人垣を押し分け、石段の前まで出てくる。頬は氷雨で濡れているのに、目だけはまっすぐだった。
「彩加ちゃんは朝からずっとここにいたもん! 井戸の印のことだって、私が見てきたって話してたもん! 壊したりしてない!」
行政長官が眉を吊り上げる。
「子どもの口出しを――」
「子どもだからって、見たことが消えるわけじゃない!」
娘の声は震えていた。けれど引かなかった。
その横へ、今度はパン屋の店主が進み出た。粉袋でも担ぐみたいに肩を張り、濡れた帽子を脱いで言う。
「うちの窯を直してくれたのは朝凪の娘さんだ。あんたら役人が冬前に見に来たときは、書類だけ眺めて帰ったがね」
店主は割れた板を睨む。
「この板が壊れた理由は知らん。だが、あの娘が壊す側じゃないことくらい、店をやってりゃ分かる」
「そうだとも!」
別の声が上がる。老船員だった。膝をかばいながらも、杖を石畳へ強く突く。
「防寒印ひとつで、冬の番がどれだけ楽になるか。こっちは身をもって知ってる。朝凪の印は、人を助ける印だ」
炊き出し小屋の女たちもいた。
「あの子がいなかったら、うちの鍋、今ごろとっくに駄目になってたよ」
「毛布だって、あの日すぐ用意してくれたじゃないか」
「あんたは何をしてくれたんだい、長官さん」
言葉が、ひとつ、またひとつと前へ出る。
荷揚げ場の若い船員。
昼市の魚屋。
北倉庫の番人。
迷子よけの木札を首から下げた兄妹まで、女たちの後ろから顔を出していた。
「彩加さんが悪いなら、トトが黙ってない」
誰かがそう言ったとたん、肩の上のトトがきゅい、と鳴いた。小さな潮うさぎは彩加の肩から飛び降り、割れた板の周囲をぴょんぴょん走る。そして黒く染まった裂け目のひとつで耳をさらに青く光らせた。
李々香が鋭く声を上げる。
「そこです! 見せてください!」
彼女は裾も気にせず膝をつき、割れ目の内側を覗き込んだ。指先で表面の墨を拭い、内部の木口から滲み出た黒を確認する。
「……内部に異物が詰められています。表面事故ではありません。板材の接ぎ目へ、先に偽造墨を練り込んである」
書板を掲げ、広場の人々へ向き直る。
「つまり、破壊は準備段階から仕込まれていた、ということです」
行政長官の表情が一瞬だけ固まった。
凌太がその隙を逃さなかった。彼は石段の下から冷たい声で告げる。
「広場設営の記録はすべて残っている。誰が板材を納入し、誰が保管し、誰が最後に封印を確認したかも」
左腕の火傷をかばいながらも、その立ち姿は揺らがない。
「責任を叫ぶ前に、まず経路を明らかにしましょう。監査官として正式に記録を押さえます」
「監査官風情が!」
行政長官が声を荒げる。
「私は港の安全を守る立場にある! この場で最優先すべきは代替策だ!」
「その通りですわね」
彩加の口から、その言葉は思いのほか静かに出た。
広場が一瞬、静まる。
彩加はゆっくり石段の方を見上げた。さっきまで胸の中を満たしていた古い恐怖は、もう同じ形をしていなかった。冷えたままではある。けれどその冷たさを、いまは支えてくれる声が周りにある。
ひとりではない。
その事実が、足元の石よりたしかだった。
「責任の押しつけ合いをしている時間はありません」
彩加は割れた大刻印板を振り返る。
「この板はもう使えない。でも、港を守る方法が消えたと決まったわけじゃない」
行政長官が鼻で笑う。
「ほう。では、今夜までにどうするつもりだ。新しい大刻印板でも生やすと?」
言葉の端々に侮りが混じる。
けれど、その侮りはもう以前ほど刺さらなかった。
彩加は板の裂け目、広場の灯架、岸壁のロープ、屋台の幕、遠くに見える灯台の影を順に見た。そして、自分を見てくれていた人々の顔を見る。花売り娘。パン屋夫婦。老船員。炊き出し小屋の兄妹。健平。弥織。李々香。凌太。
皆、返事を待っていた。
その眼差しの中に、疑いより先に信頼がある。
それが、胸の奥で火をつけた。
「……まだ、あります」
彩加は小さく呟いた。
凌太だけが、すぐにその意味へ気づいたように目を細める。
彩加ははっきり声を上げた。
「この板が駄目でも、港を守る印はまだある。私は昨日、そのことに気づいた」
そして広場の人々へ向ける。
「私が今まで刻んできた小さな印。皆さんの窯や、水桶や、窓や、倉庫や、船の荷札に残っている印です」
ざわ、と今度は別のざわめきが広がった。
困惑ではなく、思い出すようなざわめきだった。
パン屋が先に口を開く。
「窯なら生きてる」
花売り娘が跳ねる。
「井戸の横も!」
老船員が杖を鳴らす。
「詰所の窓だって切れてないぞ」
炊き出し小屋の女が言う。
「うちの扉も、朝まだ熱を逃がしてなかった」
彩加は頷いた。言葉が、手から手へ渡っていく感じがした。
「広場一枚の板で守る形は壊されました。でも、町の中へ分けて刻んだ印をつなげるなら、まだ間に合うかもしれない」
息を吸う。
「方法はあります。簡単じゃない。たくさんの手が要ります。それでも――」
そこで、一瞬だけ声が途切れた。
言ってしまえば、もう戻れない。
けれど戻る場所など、最初から欲しくなかったはずだ。
彩加は笑った。晩餐会で自分を守るために浮かべた笑みではない。寒さの中でもちゃんと息ができる笑みだった。
「皆さんが、手を貸してくれるなら」
広場のあちこちで、誰かが息を呑み、誰かが頷き、誰かがすぐに「やる」と言った。
最初に動いたのは健平だった。
「荷揚げ場の連中、足ならある! 走る役を寄越しゃいいんだろ!」
弥織も前へ出る。
「伝令と割り振りは私がやるわ。誰をどこへ回すか、その場で決める」
李々香が書板を抱き直す。
「過去の配置図と現行の保全記録を照合します。切れている印、まだ使える印、位置の重なり、全部出せます」
パン屋の店主が腕をまくった。
「窯場は温度管理ができる。必要な墨を温めるなら任せろ」
花売り娘はもう片足を上げている。
「井戸と昼市、走って見てくる!」
「転ぶなよ!」と誰かが叫び、娘は「今日は転ばないって言ったもん!」と叫び返す。
笑いが起きた。
氷雨の下なのに、広場の空気が少しあたたかくなる。
行政長官は顔を赤黒くしていた。
「勝手な真似を! 祭礼運営は私の許可なく――」
「許可なら、緊急対応規約の第五条が使えます」
弥織がぴしゃりと言った。
「中央設備が破損した場合、現場責任者と監査官の連名で代替手段へ切り替え可能。去年、南防波堤の誘導灯が折れたときも使いました」
やわらかな声なのに、刃物みたいによく通る。
「忘れたとは言わせませんよ、長官さま」
凌太が短く付け加える。
「記録も残っている」
行政長官は言葉を失った。
その後ろで、祥章がはじめて彩加を見た。氷雨に濡れた睫毛の下で、何か言いたそうに唇を動かす。けれど何も言わない。いや、言えないのだろう。
彩加はその目を一瞬だけ受け止めたあと、すぐに逸らした。
いま見るべきは、過去ではない。
「凌太」
呼ぶと、彼はすぐ近くへ来た。
「分散でいけると思う」
彩加は声を落とす。
「母の紙の通りに。広場一枚じゃなくて、港全体をつなぐ形へ」
視線で広場から岸壁へ、さらに遠い灯台の方へ線を引く。
「今夜じゅうに全部を組み直すのはきつい。でも、やるしかない」
凌太は迷わなかった。
「なら、やる」
それだけ言って、少し身を寄せる。
「君は一人じゃない。もう知っているはずだ」
彩加は目を閉じそうになった。
こんなときなのに、泣きたくなる。
泣いている暇はないのに。
それでも、胸の奥にたまっていた何かが、少しだけ融ける。
「……うん」
頷いてから、彩加は広場の中心へ向き直った。
割れた大刻印板は、そのままではただの失敗の象徴だ。けれど見方を変えれば、独占の形が壊れた瞬間でもある。
一枚の板に全部を預けるやり方は、もう終わりでいい。
彩加は割れた中心部へしゃがみ込み、偽造墨の滲んだ木肌へそっと触れた。
「あなたはもう役目を終えた」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「でも、ここから先は、別のやり方で守る」
トトがその手首へ鼻先を押しつけた。
小さなぬくもりが、冷えた皮膚に移る。
彩加は立ち上がった。
「皆さん、お願いします!」
広場に響くよう、腹から声を出す。
「今から港じゅうの印をつなぎ直します。残っている印の場所を知っている人は教えて。走れる人は伝令へ。温められる窯がある人は墨の準備を。灯台、岸壁、倉庫、昼市、炊き出し小屋、北の詰所、船溜まり――一つでも思い当たる場所があれば、全部必要です!」
返事が、あちこちから上がった。
「北倉庫なら任せろ!」
「船溜まりはうちの若いのが走る!」
「窓枠の印、うちも残ってる!」
「墨を煮る鍋、持ってくるよ!」
「灯り役の子らは屋根のある所へ集める!」
人が動き始める。
氷雨の中で、石畳の上を駆ける足音が次々と広がる。
その様子を見て、彩加はようやく、母の紙に書かれていた意味を体で理解した気がした。
助けた人の手で完成する。
それは綺麗事ではなかった。
実際に、今この場で、自分のためではなく町のために動いてくれる手が、こんなにもあるという現実だった。
行政長官は、広場の端でなお何か叫んでいた。だがもう、その声は中心になれない。人々の耳は別の方向を向いている。
弥織が走りながら叫ぶ。
「彩加ちゃん! 工房へ戻って母上の設計を広げて! ここで全員に説明するには寒すぎる!」
「分かった!」
李々香も声を重ねる。
「私、資料庫から古地図を持ってきます! 接続距離を出すには必要です!」
健平はすでに三人ほど引き連れていた。
「荷揚げ場、叩き起こしてくる! どうせ皆まだ酒飲んでねえ!」
「飲んでる人もいるでしょ!」
「殴って起こす!」
「そこは声で起こしなさいよ!」
怒鳴り返すと、健平ががははと笑う。その笑い声に、広場のあちこちから苦笑が返る。こんな緊急時だというのに、少しだけ肩の力が抜けた。
凌太は彩加の横へ残った。
「行けるか」
「行くしかない」
彩加は濡れた前髪を払う。
「怖くないって言ったら嘘になるけど」
「怖いままでいい」
凌太は短く言った。
「その代わり、止まるな」
彩加は、ふっと笑った。
「命令?」
「提案だ」
「じゃあ採用する」
その瞬間、強い風が広場を吹き抜け、割れた大刻印板の破片へ氷雨が散った。黒く汚れた木肌の向こう、港の方では、荒れ始めた海が鈍く唸っている。
時間はない。
明日の夜までに、町を守る新しい形を組み上げなければならない。
それでも彩加の足は、もう震えていなかった。
晩餐会の夜、石畳に伸びる自分の影だけを見て立ち尽くした娘は、ここにはいない。
いま足元にあるのは、自分ひとりの影ではなく、走り出したたくさんの人の影だ。
彩加は外套の前をかき合わせ、トトを肩へ乗せ直した。
「帰るわよ、凌太」
息を吸う。
「設計を広げて、町じゅうを一枚の印にする」
凌太は頷く。
その目には、最初から答えを知っていた人の静かな強さがあった。
二人は割れた大刻印板に背を向け、氷雨の広場を駆け出した。
後ろでは、彩加の名を呼ぶ声、墨鍋を探す声、灯りを守れと叫ぶ声が、港町じゅうへ散っていく。
壊されたのは一枚の板だ。
けれど失われなかったものがある。
信じてくれる手。
つないでくれる声。
そして、ひとりではないと、ようやく言い切れるだけの居場所。
クリスマス前夜の空は暗い。
それでも港町リュストルの灯は、まだ消えていなかった。




