表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/23

第20話 クリスマス前夜の破壊

 聖夜灯航祭の前夜、港町リュストルは、寒さの底にひそむ期待で白く明るんでいた。


 朝のうちから、中央広場へは船主や荷運び人や商人たちが行き交っていた。広場の中央には、祭り用の大刻印板が据えられている。厚い樫板へ幾重にも下塗りを重ね、夜になれば護航刻印の中心になるはずの一枚だ。四方には縄柵が張られ、灯り役の子どもたちが触らないよう見張りも立っている。


 彩加は、吐く息を白くしながら、その板の前に立っていた。


 濃紺の外套の下へ作業着を重ね、指先には薄い革手袋。肩口には、トトが小さく丸まっている。白い潮うさぎは、寒い朝だというのに落ち着きなく耳を動かしていた。祝福刻印の余光を食べて育つこの小さな獣は、危うい印が近いときほど機嫌が悪くなる。


 「昨夜より風が強いわね」


 彩加が板の表面へ指先をかざすと、薄い防湿の下印がわずかに揺れ返す。表面の仕上がりは問題ない。だが海の方から吹きつける風には、潮だけではない、ぴりぴりしたささくれが混じっている気がした。


 横で縄柵を確認していた凌太が顔を上げる。

 「北の沖で気圧が下がっている。午後から氷雨になるかもしれない」


 「聖夜前日にそれ、かなり嫌な報せなんだけど」


 「嫌な報せだから先に言った」


 「そこは気遣いが下手ねえ」


 彩加は口ではそう言いながら、少しだけ安心した。嫌なことを嫌なまま、飾らず言ってくれる相手が隣にいるのは助かる。妙に取り繕われる方が、いまの彩加にはよほど怖い。


 李々香は広場の東端で、書板を抱えたまま関係者の名簿を照合していた。弥織は屋台位置の変更を頼みに来た花売りたちの話を聞いている。健平は荷揚げ場から借りてきた男たちを使って、岸壁側へ祭礼用の灯架を運ばせていた。


 皆、それぞれに手を動かしている。


 昨夜、母の隠し紙を見つけたあとから、彩加の胸の中には、焦りと同じくらいはっきりした別の感覚が生まれていた。

 自分ひとりで何とかしなくていいかもしれない、という感覚だ。


 それは甘えではなかった。

 むしろ、いままで認めるのが遅かった現実だった。


 「彩加ちゃん!」


 広場の西側から、明るい声が飛んできた。


 振り向くと、昼市の花売り娘が、白布でくるんだ籠を両腕に抱えて走ってくるところだった。頬を真っ赤にし、鼻先まで冷えさせながら、それでも笑っている。


 「頼まれてた針葉枝、持ってきたよ。灯りの下へ巻くぶん」

 娘は籠を差し出し、それから声を潜めた。

 「それと、井戸の横の印、朝いちで見てきたの。まだ生きてる。水、ちゃんと凍ってなかった」


 彩加は思わず目を丸くした。

 「見てきてくれたの?」


 「うん。だって昨日、弥織さんが、人手が多いほど助かるって」

 娘は胸を張る。

 「私、花を売るだけじゃなくて、見回りくらいできるもん」


 その言い方があまりにも誇らしくて、彩加は笑ってしまった。

 「ありがとう。すごく助かる」


 花売り娘はふふんと鼻を鳴らして去っていく。その背へ、弥織が「走ると転ぶわよ」と声を投げた。けれど娘は「今日は転ばないもん!」と振り返りもせず手を振る。


 その小さな後ろ姿を見送りながら、彩加は胸元の奥で白花の感触を思い出した。昨日もらったあの一輪は、いま工房の食卓の小瓶へ挿してある。


 「顔がやわらいだ」


 不意に凌太が言った。


 彩加は板から視線を戻す。

 「何それ」


 「昨日までより」


 「……昨日まで、そんなにひどかった?」


 「ひどいというより、息を止めてる顔だった」


 健平と同じことを言う。港の男たちは、示し合わせて人の顔ばかり見ているのだろうか。


 彩加は眉を寄せたが、言い返す代わりに大刻印板へ視線を戻した。木肌の上には、今夜刻む本印のための補助線が薄く引かれている。中心円から放射状に伸びる線。その一本一本を、今夜は彩加が最終確認する予定だった。


 ――予定、だった。


 広場の空気が変わったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 海鳴りが、急に近くなった。


 岸壁側で荷を固定していた男たちが、一斉に顔を上げる。北の空が暗い。雪ではなく、氷を細かく砕いたような雨が、風に押されて斜めに走ってくるのが見えた。


 「まずいな」

 健平が低く吐く。

 「思ったより早い」


 弥織がすぐ伝令札を取り上げる。

 「屋台に幕を下ろさせる。李々香さん、広場の記録箱を屋根の下へ」


 「分かりました」


 彩加も外套の襟を押さえながら、板へかける防湿布を取りに走ろうとした。その瞬間、トトが肩の上でぴんと身を伸ばした。


 白い耳が、ぞっとするほど鮮やかな青に光る。


 「トト?」


 次の刹那、広場の中央で、耳障りな音が鳴った。


 ぎいん、と、板の芯までひっかくような音。


 彩加は反射的に振り向いた。


 大刻印板の中央へ、黒い筋が走っていた。上から誰かが斬りつけたみたいに、いや、それよりもっと悪質に、内側から腐らせたようなひびだ。補助線の上へ、濁った墨が一気に広がっている。普通の刻印墨ではない。黒墨に似せて混ぜ物をした、あの粘つく偽造の色。


 「離れて!」


 彩加は叫んだ。


 板の表面で、薄い下印が悲鳴みたいに明滅する。正規の印が、偽造墨に噛まれて剥がれ始めているのだ。このままでは、刻印板そのものが割れる。


 凌太が最初に動いた。縄柵の内側へ飛び込み、近くにいた見張りの若者を突き飛ばすように外へ出す。

 「全員、柵の外へ!」


 健平も駆け込んで、広場側の子どもたちを抱えて離す。弥織は屋台の女たちへ下がるよう指示を飛ばし、李々香は記録板を胸に抱えたまま、誰がどこにいたかを視線で追っている。


 彩加は板のそばへ膝をついた。濁った墨の臭いが鼻を刺す。粗悪な鉄臭さ。海塩と混じると、吐き気がするほど嫌な匂いになる。


 「下印を噛んでる……早すぎる」

 手袋を外し、木肌へ指を置く。

 「これ、上からかけたんじゃない。内部に仕込んである」


 凌太がすぐ理解する。

 「下地の時点で?」


 「ええ。今朝までは持ってたのに、氷雨で反応が進んだのね」

 彩加は歯を食いしばった。

 「最初から、今この時間に壊れるよう組まれてた」


 言い終えるより早く、板の中央がばきん、と嫌な音を立てて割れた。


 周囲から悲鳴が上がる。


 大刻印板は、中心円から放射状に裂け、刻むはずだった線を飲み込むように黒く染まっていく。祭りの夜に港を守るはずの一枚が、目の前で、役目を果たす前に死んでいった。


 氷雨が強くなる。

 海風が広場を舐める。

 遠く、岸壁の方で船鐘が不規則に鳴った。


 そのときだった。


 「見たかね!」


 よく通る、耳障りなくらい大きな声が広場へ響いた。


 港湾行政長官だった。


 黒い毛皮襟の外套をまとい、従者を二人連れて、いつの間にか広場の石段へ立っている。その隣には祥章の姿もあった。彼は父の一歩後ろにいて、顔色をひどく悪くしている。


 行政長官は、割れた大刻印板と、その前にいる彩加を見下ろし、わざと広場全体へ聞かせる声で叫んだ。


 「祭りを前にして、よりによってこの始末だ。やはりあの家の血は争えない!」


 氷雨の中でも、その言葉ははっきり届いた。


 広場にいた人々がざわつく。責める声ではない。だが驚きと戸惑いが入り混じり、空気が不安定に揺れた。


 行政長官は続ける。

 「朝凪刻印房の娘が祭りの準備へ関わってから、倉庫火災、黒墨騒ぎ、今度は大刻印板の破壊だ! 母親の代から問題のある家だったと、これで証明された!」


 彩加の胸の奥で、何かが一気に冷えた。


 母のことまで。


 この男は、いつだってそうだ。自分が掴みやすい言葉を、人目の集まる場所で先に置く。証明など一つもしていないのに、断定の形で広める。そうして、疑いの泥を先に相手へかぶせてしまう。


 最初の晩餐会と同じだった。


 同じ、はずだった。


 彩加はゆっくり立ち上がった。膝へついた雪混じりの水が、裾を濡らしている。割れた板の前に立つ自分は、端から見れば、確かに失敗の中心に見えるだろう。


 喉の奥が締まる。

 視線が集まる。

 嫌な記憶が、石畳の底から浮き上がってくる。


 ここでまた一人にされたらどうしよう、と、体のどこかが古い恐怖を思い出しかけた、その瞬間。


 「違うよ!」


 高い声が、風を裂いた。


 花売り娘だった。


 小さな体で人垣を押し分け、石段の前まで出てくる。頬は氷雨で濡れているのに、目だけはまっすぐだった。


 「彩加ちゃんは朝からずっとここにいたもん! 井戸の印のことだって、私が見てきたって話してたもん! 壊したりしてない!」


 行政長官が眉を吊り上げる。

 「子どもの口出しを――」


 「子どもだからって、見たことが消えるわけじゃない!」


 娘の声は震えていた。けれど引かなかった。


 その横へ、今度はパン屋の店主が進み出た。粉袋でも担ぐみたいに肩を張り、濡れた帽子を脱いで言う。


 「うちの窯を直してくれたのは朝凪の娘さんだ。あんたら役人が冬前に見に来たときは、書類だけ眺めて帰ったがね」

 店主は割れた板を睨む。

 「この板が壊れた理由は知らん。だが、あの娘が壊す側じゃないことくらい、店をやってりゃ分かる」


 「そうだとも!」


 別の声が上がる。老船員だった。膝をかばいながらも、杖を石畳へ強く突く。

 「防寒印ひとつで、冬の番がどれだけ楽になるか。こっちは身をもって知ってる。朝凪の印は、人を助ける印だ」


 炊き出し小屋の女たちもいた。

 「あの子がいなかったら、うちの鍋、今ごろとっくに駄目になってたよ」

 「毛布だって、あの日すぐ用意してくれたじゃないか」

 「あんたは何をしてくれたんだい、長官さん」


 言葉が、ひとつ、またひとつと前へ出る。


 荷揚げ場の若い船員。

 昼市の魚屋。

 北倉庫の番人。

 迷子よけの木札を首から下げた兄妹まで、女たちの後ろから顔を出していた。


 「彩加さんが悪いなら、トトが黙ってない」


 誰かがそう言ったとたん、肩の上のトトがきゅい、と鳴いた。小さな潮うさぎは彩加の肩から飛び降り、割れた板の周囲をぴょんぴょん走る。そして黒く染まった裂け目のひとつで耳をさらに青く光らせた。


 李々香が鋭く声を上げる。

 「そこです! 見せてください!」


 彼女は裾も気にせず膝をつき、割れ目の内側を覗き込んだ。指先で表面の墨を拭い、内部の木口から滲み出た黒を確認する。

 「……内部に異物が詰められています。表面事故ではありません。板材の接ぎ目へ、先に偽造墨を練り込んである」

 書板を掲げ、広場の人々へ向き直る。

 「つまり、破壊は準備段階から仕込まれていた、ということです」


 行政長官の表情が一瞬だけ固まった。


 凌太がその隙を逃さなかった。彼は石段の下から冷たい声で告げる。

 「広場設営の記録はすべて残っている。誰が板材を納入し、誰が保管し、誰が最後に封印を確認したかも」

 左腕の火傷をかばいながらも、その立ち姿は揺らがない。

 「責任を叫ぶ前に、まず経路を明らかにしましょう。監査官として正式に記録を押さえます」


 「監査官風情が!」

 行政長官が声を荒げる。

 「私は港の安全を守る立場にある! この場で最優先すべきは代替策だ!」


 「その通りですわね」


 彩加の口から、その言葉は思いのほか静かに出た。


 広場が一瞬、静まる。


 彩加はゆっくり石段の方を見上げた。さっきまで胸の中を満たしていた古い恐怖は、もう同じ形をしていなかった。冷えたままではある。けれどその冷たさを、いまは支えてくれる声が周りにある。


 ひとりではない。


 その事実が、足元の石よりたしかだった。


 「責任の押しつけ合いをしている時間はありません」

 彩加は割れた大刻印板を振り返る。

 「この板はもう使えない。でも、港を守る方法が消えたと決まったわけじゃない」


 行政長官が鼻で笑う。

 「ほう。では、今夜までにどうするつもりだ。新しい大刻印板でも生やすと?」


 言葉の端々に侮りが混じる。

 けれど、その侮りはもう以前ほど刺さらなかった。


 彩加は板の裂け目、広場の灯架、岸壁のロープ、屋台の幕、遠くに見える灯台の影を順に見た。そして、自分を見てくれていた人々の顔を見る。花売り娘。パン屋夫婦。老船員。炊き出し小屋の兄妹。健平。弥織。李々香。凌太。


 皆、返事を待っていた。


 その眼差しの中に、疑いより先に信頼がある。

 それが、胸の奥で火をつけた。


 「……まだ、あります」


 彩加は小さく呟いた。


 凌太だけが、すぐにその意味へ気づいたように目を細める。


 彩加ははっきり声を上げた。

 「この板が駄目でも、港を守る印はまだある。私は昨日、そのことに気づいた」

 そして広場の人々へ向ける。

 「私が今まで刻んできた小さな印。皆さんの窯や、水桶や、窓や、倉庫や、船の荷札に残っている印です」


 ざわ、と今度は別のざわめきが広がった。

 困惑ではなく、思い出すようなざわめきだった。


 パン屋が先に口を開く。

 「窯なら生きてる」


 花売り娘が跳ねる。

 「井戸の横も!」


 老船員が杖を鳴らす。

 「詰所の窓だって切れてないぞ」


 炊き出し小屋の女が言う。

 「うちの扉も、朝まだ熱を逃がしてなかった」


 彩加は頷いた。言葉が、手から手へ渡っていく感じがした。


 「広場一枚の板で守る形は壊されました。でも、町の中へ分けて刻んだ印をつなげるなら、まだ間に合うかもしれない」

 息を吸う。

 「方法はあります。簡単じゃない。たくさんの手が要ります。それでも――」


 そこで、一瞬だけ声が途切れた。


 言ってしまえば、もう戻れない。

 けれど戻る場所など、最初から欲しくなかったはずだ。


 彩加は笑った。晩餐会で自分を守るために浮かべた笑みではない。寒さの中でもちゃんと息ができる笑みだった。


 「皆さんが、手を貸してくれるなら」


 広場のあちこちで、誰かが息を呑み、誰かが頷き、誰かがすぐに「やる」と言った。


 最初に動いたのは健平だった。

 「荷揚げ場の連中、足ならある! 走る役を寄越しゃいいんだろ!」


 弥織も前へ出る。

 「伝令と割り振りは私がやるわ。誰をどこへ回すか、その場で決める」


 李々香が書板を抱き直す。

 「過去の配置図と現行の保全記録を照合します。切れている印、まだ使える印、位置の重なり、全部出せます」


 パン屋の店主が腕をまくった。

 「窯場は温度管理ができる。必要な墨を温めるなら任せろ」


 花売り娘はもう片足を上げている。

 「井戸と昼市、走って見てくる!」


 「転ぶなよ!」と誰かが叫び、娘は「今日は転ばないって言ったもん!」と叫び返す。


 笑いが起きた。


 氷雨の下なのに、広場の空気が少しあたたかくなる。


 行政長官は顔を赤黒くしていた。

 「勝手な真似を! 祭礼運営は私の許可なく――」


 「許可なら、緊急対応規約の第五条が使えます」


 弥織がぴしゃりと言った。

 「中央設備が破損した場合、現場責任者と監査官の連名で代替手段へ切り替え可能。去年、南防波堤の誘導灯が折れたときも使いました」

 やわらかな声なのに、刃物みたいによく通る。

 「忘れたとは言わせませんよ、長官さま」


 凌太が短く付け加える。

 「記録も残っている」


 行政長官は言葉を失った。


 その後ろで、祥章がはじめて彩加を見た。氷雨に濡れた睫毛の下で、何か言いたそうに唇を動かす。けれど何も言わない。いや、言えないのだろう。


 彩加はその目を一瞬だけ受け止めたあと、すぐに逸らした。

 いま見るべきは、過去ではない。


 「凌太」


 呼ぶと、彼はすぐ近くへ来た。


 「分散でいけると思う」

 彩加は声を落とす。

 「母の紙の通りに。広場一枚じゃなくて、港全体をつなぐ形へ」

 視線で広場から岸壁へ、さらに遠い灯台の方へ線を引く。

 「今夜じゅうに全部を組み直すのはきつい。でも、やるしかない」


 凌太は迷わなかった。

 「なら、やる」

 それだけ言って、少し身を寄せる。

 「君は一人じゃない。もう知っているはずだ」


 彩加は目を閉じそうになった。

 こんなときなのに、泣きたくなる。


 泣いている暇はないのに。


 それでも、胸の奥にたまっていた何かが、少しだけ融ける。


 「……うん」

 頷いてから、彩加は広場の中心へ向き直った。


 割れた大刻印板は、そのままではただの失敗の象徴だ。けれど見方を変えれば、独占の形が壊れた瞬間でもある。

 一枚の板に全部を預けるやり方は、もう終わりでいい。


 彩加は割れた中心部へしゃがみ込み、偽造墨の滲んだ木肌へそっと触れた。

 「あなたはもう役目を終えた」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 「でも、ここから先は、別のやり方で守る」


 トトがその手首へ鼻先を押しつけた。

 小さなぬくもりが、冷えた皮膚に移る。


 彩加は立ち上がった。


 「皆さん、お願いします!」

 広場に響くよう、腹から声を出す。

 「今から港じゅうの印をつなぎ直します。残っている印の場所を知っている人は教えて。走れる人は伝令へ。温められる窯がある人は墨の準備を。灯台、岸壁、倉庫、昼市、炊き出し小屋、北の詰所、船溜まり――一つでも思い当たる場所があれば、全部必要です!」


 返事が、あちこちから上がった。


 「北倉庫なら任せろ!」

 「船溜まりはうちの若いのが走る!」

 「窓枠の印、うちも残ってる!」

 「墨を煮る鍋、持ってくるよ!」

 「灯り役の子らは屋根のある所へ集める!」


 人が動き始める。

 氷雨の中で、石畳の上を駆ける足音が次々と広がる。


 その様子を見て、彩加はようやく、母の紙に書かれていた意味を体で理解した気がした。


 助けた人の手で完成する。


 それは綺麗事ではなかった。

 実際に、今この場で、自分のためではなく町のために動いてくれる手が、こんなにもあるという現実だった。


 行政長官は、広場の端でなお何か叫んでいた。だがもう、その声は中心になれない。人々の耳は別の方向を向いている。


 弥織が走りながら叫ぶ。

 「彩加ちゃん! 工房へ戻って母上の設計を広げて! ここで全員に説明するには寒すぎる!」


 「分かった!」


 李々香も声を重ねる。

 「私、資料庫から古地図を持ってきます! 接続距離を出すには必要です!」


 健平はすでに三人ほど引き連れていた。

 「荷揚げ場、叩き起こしてくる! どうせ皆まだ酒飲んでねえ!」


 「飲んでる人もいるでしょ!」


 「殴って起こす!」


 「そこは声で起こしなさいよ!」


 怒鳴り返すと、健平ががははと笑う。その笑い声に、広場のあちこちから苦笑が返る。こんな緊急時だというのに、少しだけ肩の力が抜けた。


 凌太は彩加の横へ残った。

 「行けるか」


 「行くしかない」

 彩加は濡れた前髪を払う。

 「怖くないって言ったら嘘になるけど」


 「怖いままでいい」

 凌太は短く言った。

 「その代わり、止まるな」


 彩加は、ふっと笑った。

 「命令?」


 「提案だ」


 「じゃあ採用する」


 その瞬間、強い風が広場を吹き抜け、割れた大刻印板の破片へ氷雨が散った。黒く汚れた木肌の向こう、港の方では、荒れ始めた海が鈍く唸っている。


 時間はない。

 明日の夜までに、町を守る新しい形を組み上げなければならない。


 それでも彩加の足は、もう震えていなかった。


 晩餐会の夜、石畳に伸びる自分の影だけを見て立ち尽くした娘は、ここにはいない。

 いま足元にあるのは、自分ひとりの影ではなく、走り出したたくさんの人の影だ。


 彩加は外套の前をかき合わせ、トトを肩へ乗せ直した。


 「帰るわよ、凌太」

 息を吸う。

 「設計を広げて、町じゅうを一枚の印にする」


 凌太は頷く。

 その目には、最初から答えを知っていた人の静かな強さがあった。


 二人は割れた大刻印板に背を向け、氷雨の広場を駆け出した。

 後ろでは、彩加の名を呼ぶ声、墨鍋を探す声、灯りを守れと叫ぶ声が、港町じゅうへ散っていく。


 壊されたのは一枚の板だ。


 けれど失われなかったものがある。


 信じてくれる手。

 つないでくれる声。

 そして、ひとりではないと、ようやく言い切れるだけの居場所。


 クリスマス前夜の空は暗い。

 それでも港町リュストルの灯は、まだ消えていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ