第17話 祥章の崩れ始めた仮面
李々香から回された書状に導かれて、彩加と凌太が祭り用保管棟の裏帳場へ入ったときには、窓の外の空がもう薄い鉛色へ変わり始めていた。
昼の喧騒はまだ港じゅうに残っている。岸壁では、翌日の聖夜灯航祭に備えた灯飾りの試し点灯が続き、荷車の車輪が石をきしませ、遠くで子どもが歓声を上げている。けれど裏帳場の中だけは別の場所みたいに静かだった。墨の乾いた匂いと、古い帳面の紙が吸いこんだ湿気だけが、じっと棚の間に溜まっている。
李々香は机いっぱいに証票を広げていた。弥織もすでに来ていて、窓を半分だけ閉め、外から声が入らないようにしている。
「見つかったのは、重複している受領印だけじゃないの」
李々香はそう言って、二枚の仮認可書を並べた。
一枚は正規の祭り用護航刻印板の搬入記録。もう一枚は、同じ日付、同じ棟番号、同じ受け入れ担当名でつくられた差し替え用の認可書だった。数字は整っている。形式も崩れていない。雑に見れば、どちらも正式な紙に見える。
だが、右下にある署名だけが、彩加の喉をひやりと冷やした。
祥章。
癖のある払い。章の字の最後で、いつも少しだけ筆圧が重くなる。
彩加は紙の上へ指を伸ばしかけて、途中で止めた。
婚約の際に交わした贈与目録でも、季節ごとの挨拶状でも、何度も目にした筆跡だった。好きで覚えたわけではない。ただ、長く並ぶつもりでいたから、自然に知ってしまっていた。
「……本物ね」
かすれた声で言うと、凌太が横でうなずいた。
「李々香が筆圧と書式の年代差を見た。後から偽造したものじゃない。本人が書いた可能性が高い」
弥織が腕を組む。
「問題は、何を承知で書いたか、よ」
それを聞いた瞬間、彩加は妙に腹の底が静かになった。
怒っていないわけではない。むしろ逆だ。ここまで来ると、怒りが熱ではなく重さになる。笑って流す余地のない重さだ。
凌太は紙束をそろえ、帳場の少年へ短く指示を出した。
「祥章を呼べ。父親には通すな。祭り用書類の照合だと言えば来る」
少年が走っていく。
彩加は窓の外を見た。灰色の海の上を、白いカモメがひとつ横切る。自分の心まで冷えたみたいに見えたが、不思議と手は震えていなかった。
やがて扉が開き、祥章が入ってきた。
濃い緑の外套に、港湾行政棟の記章。昼の表舞台に立っていたときのきちんとした顔のままだ。けれど、裏帳場に彩加までいると知った瞬間、ほんのわずかに目が細くなった。
「何の用だ。今は祭り前で――」
「書類の照合です」
凌太が遮る。
声に無駄がない。
机の上に二枚の認可書を置くと、祥章は一瞬だけ視線を落とし、すぐに表情を戻した。
「似た書類が二枚あるだけだろう。事務方の転記ミスは珍しくない」
「転記ミスで同一番号の仮認可書が二重発行されることはありません」
李々香が言った。
「しかも受領先は、祭り用保管棟とは別口の搬入路を通すための裏記載つきです」
祥章の口元が硬くなる。
彩加は机へ半歩近づいた。
「この署名、あなたの字よね」
「だから何だ」
「私、見慣れているもの」
その言葉だけで、祥章の肩がわずかに揺れた。
婚約者だった時間を、彩加は責めるための札みたいに使いたくなかった。けれど、相手がその時間ごと切り捨てたのなら、こちらも目を逸らす必要はない。
「祭りの護航刻印板をすり替える認可書に、あなたの字がある」
彩加は紙から目を離さず言った。
「知らなかったでは済まないわ」
祥章は鼻で笑おうとした。うまく笑えず、ただ息が荒く抜けた。
「父上の決裁前に、私が仮署名を置くことはある。行政棟では珍しくもない。全部をいちいち精査していたら仕事は回らない」
「回すために、誰の仕事を潰してもよかったのか」
凌太の声は低い。怒鳴っていないのに、机の脚まで冷えるようだった。
祥章はそこでようやく視線を上げた。
「君には分からないだろうな。失敗を許されない家の中で、期待に応え続けることがどういうことか」
その目は、彩加へではなく、もっと遠くの何かを見ているようだった。
「正しいかどうかなんて、最初から問題じゃない。父上が必要だと言えば、必要になる。結果を出せば認められる。勝てば価値がある。そうしなきゃ、俺は――」
言葉が途中で途切れた。
裏帳場の小窓を鳴らして、冬の風が一度だけ吹きこんだ。
祥章は、拳を握ったまま絞り出すみたいに続けた。
「期待に応え続けるしか、俺には価値がなかった」
沈黙が落ちた。
弥織は何も言わない。李々香も帳面へ視線を落としたまま、すぐには紙をめくらない。
彩加は、胸のどこかがかすかに痛むのを感じた。
昔から、祥章は人前で失敗を嫌った。飲みものをこぼした給仕へ真っ先に布を渡すようなやさしさもあったのに、それが父親の視線の前ではすぐ薄くなった。褒められる形へ、自分を削って合わせていく癖があった。
あのとき助ければ違ったのか、と一瞬だけ思う。
でも、すぐに分かる。
違わない。少なくとも、彩加の工房を沈めていい理由にはならない。
「それで」
彩加は静かに言った。
「私の家を潰したの」
祥章が顔を上げる。
「私の母が残したものまで隠して、港じゅうに偽造刻印を流して、私に戻ってこいと言ったの」
彩加はまっすぐ彼を見た。
「誰かに認められたかったからって、人の暮らしを踏んでいい理由にはならないわ」
その言葉は鋭かったが、叫びではなかった。
かえって、それが祥章を追い詰めたのかもしれない。
彼は視線を逸らし、机の木目へ落とした。
「……全部を俺が考えたわけじゃない」
「でも、署名はあなたがした」
李々香が淡々と重ねる。
「それだけで十分、責任の線は引けます」
祥章は苦く唇をゆがめた。
反論したいのに、もうできない顔だった。
「父上は、まだ本帳を持っている」
ぽつりと落ちたその言葉に、全員の空気が変わる。
凌太がすぐ問う。
「どこだ」
祥章は逡巡した。喉が上下する。
保身と反発が、目の奥でぶつかっているのが見えた。
「港外れの黒墨倉庫の裏だ」
やがて彼は言った。
「使われなくなった旧検量小屋がある。床板の下に鉛箱を埋めてある。祭り前に移す予定だった。……今夜のうちに」
健平がここにいれば舌打ちしただろうと、彩加は場違いに思った。
今夜。
つまり迷っている猶予はない。
凌太が一歩詰める。
「なぜ教える」
祥章は笑った。うまくいかなかった。
「自分でも分からない」
その声は、晩餐会で婚約破棄を告げた夜よりずっと低かった。
「父上に背けば終わる。だが、従い続けても、たぶんもう俺は何にもなれない」
彩加は返事をしなかった。
慰める気にはなれない。
責め足りない気もした。
けれど、いま必要なのは感情の決着ではなく、港を守るための次の一手だと分かっていた。
祥章は最後に一度だけ彩加を見た。
未練とも悔しさともつかない目だったが、そこへ戻る道がもうないことだけは、本人も知っている顔だった。
「……昔みたいに、笑ってごまかさないんだな」
「ええ」
彩加は言う。
「もう、誰かの都合に合わせるために笑わないから」
祥章は何も返さず、踵を返した。
扉が閉まる音が、やけに乾いて響く。
裏帳場に残ったのは、紙の匂いと、いま聞いた場所の名だけだった。
弥織が先に動いた。
「健平を呼ぶ。港外れの搬入路は、あの子の顔が利くほうが早い」
李々香もすぐ帳面を抱える。
「旧検量小屋の見取り図を取ってきます。床下に鉛箱なら、火を入れられる前提で考えたほうがいい」
凌太は短くうなずき、彩加へ向き直った。
「行けるか」
その問いには、労わりと確認の両方があった。
さっき回廊で終わらなかった話が、まだ二人の間に残っている。けれど今は、それを抱えたまま前へ進むしかない。
彩加は息を吸った。
母の記録。
偽造刻印。
祭りの護航刻印板。
踏まれてきたもの全部へ、今夜ようやく手が届く。
「行く」
彼女ははっきり答えた。
「工房を潰された分も、港の人たちが困った分も、まとめて取り返すわ」
凌太の目が、ほんの少しだけやわらいだ。
「分かった。今夜の踏み込みは俺が前を切る。君は証拠の確認を優先しろ」
「指図が細かい」
「細かく見るのが仕事だ」
いつものような短いやりとりだった。
なのに、その一言一言が妙に頼もしくて、彩加はわずかに肩の力を抜いた。
裏帳場の外では、祭りの試し灯りがひとつ、またひとつとともり始めている。
明日の聖夜へ向かう町の光だった。
その下で今夜、黒墨倉庫へ向かう。
崩れ始めた仮面の奥に隠されていた帳簿ごと、港を喰いものにしてきた手を引きずり出すために。




