表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/23

第18話 黒墨倉庫の夜

 夜の港は、昼とは別の顔をしていた。


 聖夜灯航祭の前日だけあって、表通りはまだ明るい。食堂の窓には星形の紙灯りがともり、岸壁の欄干には細い光縄が渡され、冷えた海面へ金色の筋を落としている。だが、その賑わいから少し外れ、倉庫街の端へ近づくほど、灯りは心細く減っていった。波の音が大きくなり、石畳の隙間にたまった潮が靴底でぬめる。風に混じる匂いも、焼き菓子や香辛料ではなく、煤と油と湿った縄の匂いへ変わっていく。


 健平は先を歩きながら、肩越しに小さく手を振った。


 「声、落とせよ。ここから先は、夜回りの見回り札より、裏の搬入印のほうが物言う場所だ」


 厚手の外套を着ていても、歩幅には迷いがない。荷揚げ場を仕切る男の足取りだった。暗がりに慣れた者だけが知る抜け道を、石ひとつ踏み外さず進んでいく。


 その後ろを、彩加と凌太が並ぶ。少し離れて弥織、さらにその後ろで李々香が帳面袋を胸へ抱えていた。李々香は細い体で荷物持ちには向かないはずなのに、証拠袋も封蝋箱も自分で持つと言って譲らなかった。


 「あとで『誰がどこで何を見たか』が曖昧になるのが一番困るんです」

 出る前にそう言った顔を思い出し、彩加はこんな夜でも少しだけ口元がゆるみそうになる。


 トトは今夜だけ留守番だ。危険な場所へ連れていくわけにはいかない。朝凪刻印房の乾燥室に暖かい布を敷き、弥織の手で戸締まりを二重にした。耳をぺたりと下げた白い潮うさぎの顔が何度か脳裏をよぎるが、その代わりに、いまは胸の内側で別の熱が跳ねている。


 行かなければならない。

 今夜ここで押さえなければ、祭りの朝には何もかも移される。


 健平が古びた木柵の陰で足を止めた。


 「見ろ」


 指差した先、港外れの空き地の向こうに、低く長い建物が沈んでいた。黒墨倉庫。

 外壁は潮風で白く粉を吹き、屋根の端には去年の雪で曲がったままの雨樋がぶら下がっている。表側の扉は閉まり、正規倉庫の札も外されて久しいはずなのに、裏手には新しい足跡が何本も重なっていた。板塀の脇に積まれた樽には、雨除けの布がかけられている。使われていない建物の手入れではない。


 弥織が息をひそめる。


 「いかにも、ね」


 「いかにもすぎて腹立つな」

 健平が吐き捨てるように言った。

 「旧検量小屋は倉庫の裏手にくっついてる。昔は荷の重さをごまかさないための小屋だったが、今は空っぽ扱いだ。床板をめくるなら、見張りを外へ引きつけた隙しかない」


 凌太は周囲を一度見渡し、短く指示を出した。


 「健平は裏木戸を押さえろ。弥織は通り側。誰か逃げたら顔を見ろ。李々香は小屋の中に入ったら帳票と搬出票だけを拾え。欲張らなくていい。彩加は俺と一緒に護航刻印板の確認を最優先。火種があったら油樽より先に刻印板を守るな。人と証拠だ」


 最後だけ、彩加のほうを見て言う。


 分かっているつもりでも、そう言われると少し胸が痛む。

 彼はいつも、彩加が先に無茶を選ぶことを知っている。


 彩加はわざと口を尖らせた。


 「先回りの注意が細かいのよ」


 「細かく見ないと君は危ない」

 凌太は即答した。

 「反論は帰ってから聞く」


 帰ってから。


 その四文字が、こんな場所で妙に温かく響く。帰れる前提で言っているのだと分かってしまって、彩加はそれ以上何も返せなかった。


 健平が鼻を鳴らす。


 「夫婦喧嘩は帰りの荷車でやれ。行くぞ」


 四方へ散る。

 夜気が一段冷たくなった気がした。


 彩加は凌太と並んで板塀沿いを進んだ。黒墨倉庫の壁際には、昔の搬入番号が薄く残っている。だがその上から、最近になって削られた跡が何本も走っていた。隠したい荷があるときの手つきだ、と彩加は思う。朝凪刻印房にも、まっとうな商人が荷札の書き損じを削りに来ることはある。だが、ここにある削り跡はもっと荒い。急いで消し、しかし完全には消し切れていない。


 裏木戸の前で、健平が懐から細い鉄具を出した。錠前へ差し込むと、乾いた音がひとつ鳴る。


 「まったく。真面目に働いてる側からすると、こういう手癖の悪い仕事は肩身が狭いぜ」


 軽口のわりに、目は笑っていない。


 扉がわずかに開く。中から、冷えた油と墨の匂いがどっと流れ出てきた。


 倉庫の中は暗い。

 けれど、完全な闇ではなかった。奥の方で、覆い布をかけられたランプがひとつ揺れている。誰かいる。


 凌太が片手を上げて止まれの合図を出す。耳を澄ますと、奥で男たちのくぐもった声がした。


 「……夜明け前には移す。祭りが始まれば、どさくさで紛れる」

 「親父殿のほうは?」

 「表の刻印板はそのままだ。出航直前に差し替える。風が荒れりゃ全部、天候のせいだ」


 彩加の背筋を冷たいものが走った。


 風が荒れりゃ全部、天候のせい。

 町の船も人も、そうやって片付けるつもりだったのだ。


 凌太が彩加へ目だけで問いかける。

 聞いたな、と。


 彩加は小さくうなずいた。


 健平が倉庫の影へ滑り込み、通路をふさぐ位置へ回る。弥織もすでに表側へ出た気配がある。李々香は息を殺したまま、小さな封蝋箱を抱えていた。


 凌太が低く言った。


 「行く」


 次の瞬間、彼は覆い布を払ってランプの光をあえて広げた。


 「ギルド監査官だ。動くな」


 灯りが倉庫の奥まで走る。

 積み上げられた木箱。黒墨の樽。布をかけられた長方形の板が何枚も並び、その一部には祭り用の護航紋が刻まれていた。だが線が浅い。力の流れが死んでいる。見ただけで分かる、見かけだけの刻印板だ。


 男たちが振り返る。三人。いや、箱の影にもう二人いる。


 「ちっ」


 最前にいた大柄な男が舌打ちし、すぐ壁際の笛へ手を伸ばした。健平が飛び出して腕をはたき落とす。笛が床で跳ね、甲高い音をひとつ漏らして転がった。


 「鳴らすなっての」


 健平の肩が男へぶつかる。樽が揺れた。


 凌太はもう一人を壁へ押しつけ、腕をねじり上げる。動きに迷いがない。帳場で紙をめくる指とは思えないほど、無駄のない力だった。


 彩加はすぐ近くの刻印板へ駆け寄った。

 布をはぐる。


 やはり偽物だ。

 正規の護航紋に似せてはいるが、外縁の導流線が一本足りない。これでは出航直後は持っても、沖に出て寒波を受けたときに割れる。板だけではない。そばの箱には、祭り用倉庫の受領印まで偽造した荷札が束になっている。


 「李々香、これ!」

 彩加が低く呼ぶと、李々香がすぐそばへ来て、震えもしない指で荷札の番号を控え始めた。


 「刻印板七枚、未処理二枚、荷札束一、搬入番号は――」


 そのときだった。


 箱の陰にいた痩せた男が、荷の隙間を縫うように裏へ下がる。逃げるのではなく、奥の樽棚へ向かったのが見えた。


 彩加の胸がざわつく。


 「あれ、待って――」


 叫ぶより早く、男は棚の下へ何かを投げ込んだ。

 小さな火種。

 油をしみこませた布玉だった。


 ぼ、と音がして、床近くの煤が一気に赤く走る。


 「火を入れたぞ!」

 健平が怒鳴った。


 倉庫の中の空気が変わる。乾いた木箱と油樽が並ぶ場所で、それが何を意味するか考えるまでもない。


 凌太が押さえていた男を床へねじ伏せながら叫んだ。


 「外へ! 李々香は帳票だけ持て! 弥織――!」


 表側から、弥織の声が返る。


 「こちらは塞いでる! 出すなら裏から!」


 火は床を這うように広がっていた。樽棚の下に置かれた古布が燃え、そこから近くの油樽へ移ろうとしている。


 彩加は一瞬で計算した。


 ここで油へ移れば、倉庫半分が吹く。そうなれば偽護航刻印板も、荷札も、鉛箱の在処へつながる証拠も焼ける。何より、逃げ道そのものがなくなる。


 「彩加!」


 凌太が呼ぶ。

 分かっている。分かっているのに、足はすでに油樽へ向かっていた。


 樽は五つ。

 火種に近いのは三つ。

 その向こうに護航刻印板の偽物が並ぶ。


 彩加は腰の刻印具を引き抜いた。鞘から出した細筆の先へ、携帯墨壺の銀灰色の墨を吸わせる。息を止め、最初の樽へ半円を切る。


 防爆。

 それも仮留めでは足りない。熱圧を逃がし、破裂を抑え、周囲へ火を移しにくくする重ね刻印が必要だ。


 「っ、動かないでよ……!」


 誰へ言ったのか、自分でも分からない。

 彩加は二つ目の樽へ刻線を走らせた。線が熱を帯び、薄い青に光る。熱風が頬を舐め、目に涙が滲む。


 背後で、李々香が咳きこみながらも帳票袋を抱えているのが見えた。健平は男ひとりを蹴り飛ばして通路を開け、弥織は外から桶水を寄越そうとしたが、ここでは焼け石に水だ。


 「彩加、もういい、下がれ!」


 凌太の声が近づく。


 三つ目の樽。

 ここを止めなければ連鎖する。


 彩加は床へ片膝をつき、樽の継ぎ目へ刻線を滑り込ませた。母に教わった、割れやすい器物へ圧を逃がす印。暮らしの道具を守るための技術を、今夜は倉庫ごと守るために使う。


 墨がはじけ、青白い輪が樽を包む。


 その瞬間、奥から梁の焼ける音がした。


 ぱき、と乾いた音。視線を上げた彩加は息を呑む。火が回った梁の端が、ちょうど自分の頭上へ傾いでくる。


 避けようとした。だが、片膝をついた姿勢では半歩遅い。


 その腕を、後ろから強く引かれた。


 凌太だった。


 彩加の肩を抱えるように引きずり、樽の陰へ倒れ込む。次の瞬間、さっきまで彼女がいた場所へ、燃えた板切れが落ちた。火の粉が散る。


 「あ……」


 言葉にならない。

 だが、助かったと思うより早く、焦げた匂いが鼻を刺した。


 凌太の外套の袖が、肘のあたりで黒く焼けている。


 彼は顔色ひとつ変えず、彩加を立たせた。


 「足は」


 「だ、大丈夫、でも――」


 言い終わる前に、彼は左腕を無造作に引いた。袖口の布が張りつき、そこだけ動きが硬い。

 火傷だ。


 彩加の胸の奥で、何かがきつく縮む。


 健平が叫んだ。


 「道、開いた! そのまま出ろ!」


 弥織も裏口の外で手を振っている。李々香は帳票袋を死守したまま、目を真っ赤にしていた。


 彩加は凌太の袖を掴んだ。


 「行くわよ!」


 今度は彼女が引く番だった。


 煙が喉へ刺さる。床板は熱く、靴底越しに焼ける気配がする。だが油樽の爆ぜる音はまだしない。さっきの重ね刻印が、ぎりぎり持ちこたえている証拠だった。


 裏木戸から外へ出た途端、凍るような夜風が全身へ叩きつけられた。熱でぼやけていた視界が、一気に痛いほど冷える。


 彩加はその場で膝をつきそうになったが、凌太が逆に支えようとしてふらついたので、慌てて肩を貸した。


 「座って」


 「先に人数確認だ」


 「今は座って!」


 思わず声が強くなる。


 弥織がすぐ動き、近くの石積みへ毛布を広げた。健平は息を切らしながら、倉庫の外へ出た全員を指で数える。


 「五人、全員いる。男は二人逃げたが、ひとりは表で弥織が顔を見てる。李々香、帳票は」


 「あります」

 李々香は咳の合間にもきっぱり答えた。

 「荷札番号も控えました。……護航刻印板の線も、彩加さんが見た通り偽物です」


 弥織が肩で息をしながら笑う。


 「こんな夜にまで仕事が正確で助かるわ」


 「褒めている場合ですか」

 李々香は言い返したが、声が少し震えていた。


 彩加はもう、そのやりとりを聞く余裕がなかった。


 凌太の左腕。

 袖の布を切らなければならない。


 「刃物、貸して」

 彩加が手を差し出すと、健平が何も言わず小刀を渡してきた。


 彩加は凌太の前へ膝をつく。彼はいつも通り無表情でいようとしていたが、近くで見れば呼吸が浅い。痛いのだ。なのに、周りを落ち着かせるほうを先にしている。


 そういうところが、腹が立つほど優しい。


 彩加は焼けた袖口へ刃を入れた。布がはらりと落ちる。

 現れた前腕の外側が赤くなり、一部は水ぶくれになりかけていた。深くはない。けれど、応急処置を急がなければ跡が残る。


 彩加の指先が、かすかに震えた。


 「ごめん」


 ぽつりと出た言葉に、凌太が眉を寄せる。


 「何が」


 「私が樽のほうへ走ったから」

 彩加は傷から目を離せないまま言った。

 「あなた、また私をかばったでしょう」


 また。

 第3話のときは、小さな傷に薬を塗ってくれたのは彼だった。

 今夜は比べものにならない。比べものにならないのに、彩加の頭にはあの日の静かな手つきまで一緒によみがえっていた。


 「必要な判断だった」

 凌太は短く返す。

 「君が樽を止めなければ、倉庫ごと吹いていた」


 「それでも」


 「それでも、だ」

 彼は少しだけ息を吐いた。

 「君が無事でよかった」


 その一言が、火傷よりひどく彩加の胸を焼いた。


 冬の夜風の下なのに、耳まで熱くなる。

 泣きたいのか怒りたいのか分からない顔になっていたのか、弥織が小さく咳払いした。


 「薬箱は?」

 と、あえて事務的な声で言う。


 彩加ははっとし、持ってきていた応急袋を開いた。薬草膏、清水、小布、薄い保護布。祭り前の忙しさで持ち歩いていたものが、今夜ほどありがたいと思ったことはない。


 「李々香、水」

 「はい」


 渡された小瓶で布を湿らせ、彩加は火傷の周りをそっと拭いた。凌太の腕がぴくりと動く。だが彼は一度も手を引かなかった。


 「痛いなら言って」

 「言ったら君が余計に慌てる」


 「言わなくても慌ててるわよ」


 返した瞬間、健平が吹き出しそうになるのを必死でこらえた気配がした。

 彩加は睨みたかったが、そんな余裕はない。


 薬草膏を指へ取り、傷へ薄く塗る。

 赤く熱を持った皮膚へ触れるたび、彩加の喉がきゅっと縮んだ。刻印の細傷に薬を乗せてもらったとき、彼はこんな気持ちだったのだろうか。何も大げさな言葉を言わず、ただ必要なことをする手の中に、どれだけ心配を押し込めていたのだろう。


 「……じっとして」

 彩加は低く言う。

 「下手に動かれると、うまく巻けない」


 「分かった」


 素直すぎる返事だった。

 かえって、ずるい。


 包帯代わりの保護布を巻きながら、彩加はようやく顔を上げた。凌太のまつげの先に、さっきの煙がまだ少しだけ灰色に残っている。


 「ねえ」

 彩加は小さく呼んだ。

 「さっき、私に『人と証拠を優先しろ』って言ったでしょ」


 「ああ」


 「あなた、自分はその中に入ってないじゃない」


 凌太が言葉に詰まる。

 珍しいくらい、はっきりと。


 彩加は包帯の端を結びながら、震えを押し込めて続けた。


 「私、工房も町も守りたい。でも、あなたが傷だらけになるやり方で守りたいわけじゃないの」

 喉が熱い。

 それでも、今は笑ってごまかしたくなかった。

 「今度からは、あなたもちゃんと守る側へ入れて。命令じゃなくて、お願い」


 夜風が吹く。

 倉庫の屋根の向こうでは、火がまだ赤く明滅していた。けれど油樽は爆ぜなかった。さっき刻んだ印が持ちこたえているからだ。


 凌太は包帯の巻かれた腕を見下ろし、それから彩加を見た。


 「……努力する」


 「少な」


 思わず言い返すと、彼の口元がほんの少しだけゆるんだ。

 疲れているのに、その笑いは妙にやさしかった。


 弥織が肩をすくめる。


 「その返事、ほぼ告白の手前よね」


 「弥織さん」

 李々香が即座にたしなめる。

 「今は証拠確認が先です」


 「分かってるわよ」

 弥織は笑い、すぐ顔を引き締めた。

 「でも、いい加減二人とも口より先に行動で見せすぎなの。見てるこっちが冷える」


 「冷えてないだろ、顔」

 健平がぼそっと言う。

 「むしろ面白がってる顔だぞ」


 「あなたは黙って人員数えなさい」


 いつものやりとりが戻ってくる。

 そのことに、彩加は少しだけ救われた。火の中から出てきても、いつもの声がここにある。それだけで、港の夜はまだ壊れていないと思える。


 健平は倉庫を振り返った。


 「中まで全部は焼けねえな。彩加の樽止めが効いてる。明け方までに見張り置けば、残りも拾える」

 そして、顎で裏手を示す。

 「旧検量小屋の床下、行くなら今だ。連中はまだ、こっちがそこまで気づいてると思ってねえかもしれん」


 凌太が立ち上がろうとする。

 彩加はとっさに肩を押さえた。


 「だめ。腕、今すぐ酷使したら開く」


 「歩くだけだ」


 「歩くだけの顔じゃない」


 低い言い争いになりかけたところで、李々香が静かに割って入った。


 「なら、床板を開けるのは健平さんと私でやります。監査官は確認だけ。封印は私がする」

 きっぱりした声だった。

 「誰が何を持ち出したか、あとで争わせないためです」


 健平が目を瞬かせる。


 「お嬢さん、こういうとこ肝据わってんな」


 「書類を燃やされるほうが嫌いなだけです」


 即答に、弥織がふっと笑った。


 結局、旧検量小屋へ向かったのは全員だった。ただし、彩加が凌太の左側につき、足場の悪いところでは無言で支えた。彼も振り払わない。さっき「努力する」と言ったばかりだからか、それとも単に痛むのかは分からないけれど、そのどちらでもよかった。


 黒墨倉庫の裏手に回ると、旧検量小屋は思っていた以上に小さかった。壁の漆喰は剥げ、扉の蝶番は錆び、窓には古い秤の針が置き去りにされている。けれど床板だけが不自然に新しい。


 「これね」

 李々香がしゃがみ込み、継ぎ目を確かめた。


 健平が鉄具を差し入れ、板をはがす。下から湿った土の匂いが上がった。ほどなく、鈍い灰色の箱の角が見える。鉛箱だ。


 誰も口をきかなかった。


 ここまで来れば、もう言い逃れの余地がない。

 祭り用護航刻印板の偽物。重複認可書。火を放って証拠を焼こうとした手下。そして床下に埋められた本帳。


 凌太が息を整え、短く言う。


 「開ける」


 李々香が封印具を構え、弥織が灯りを寄せる。彩加はその横で、自然と凌太の右手へ視線を落としていた。左腕は痛むはずなのに、箱を前にした目だけは冴えている。


 蓋が開いた。


 中には油布で巻かれた帳簿が三冊、認可印の元版が二つ、そして別袋に入れられた薄い紙片があった。彩加はそれを見た瞬間、息を呑む。

 母の手癖だ。

 帳簿の端へ残る、線の引き方。昔、台所の献立表へさえ余白をまっすぐ揃えていたあの人の筆跡に似ている。


 「……これ」


 思わず手を伸ばきかけたが、止まる。

 今はまだ勝手に触れない。証拠として残さなければならない。


 李々香が彩加の顔を見て、わずかにうなずいた。


 「見ます。ここで内容だけ確認しましょう」


 油布を解く。

 灯りの下に現れた最初の頁には、祭り用護航刻印板の差し替え予定日と、表向きには存在しない搬入番号が並んでいた。さらに次の頁には、正規工房を値崩れさせるために模倣刻印を意図的に流した先の一覧。その中に、朝凪刻印房が偽造へ関与したように見せる細工の記録まである。


 彩加は唇を噛んだ。

 悔しさより先に、妙な静けさが来る。

 ようやく、ここまで辿りついたのだ。


 そして薄い紙片をめくった李々香が、息を止めた。


 「……後で」

 と、彼女は珍しく言い淀む。

 「これは、ここで読み上げるより、工房へ持ち帰ったほうがいいです」


 彩加の胸が跳ねる。


 母に関わるものだと分かったのだろう。


 凌太が李々香の判断にすぐうなずいた。


 「封印して持ち帰る。今夜はここまでで十分だ」


 弥織が外へ目をやる。倉庫の火は小さくなり、海風が煙を薄く流していた。遠くでは、祭りの試し鐘が一度だけ鳴る。聖夜を告げるには早い、けれど明日がもう目の前まで来ている音だった。


 健平が箱を担ぎ上げる。


 「ったく、祭り前日に拾う荷じゃねえな」


 「文句を言いながら一番しっかり持つの、ずるいわよ」

 彩加が言うと、健平は肩をすくめた。


 「雑に扱われる役にも、たまには見せ場が要るんだよ」


 その返しに、みんな少しだけ笑った。


 帰り道、彩加は凌太の歩幅に合わせて歩いた。祭り前の港はまだ明るい。表通りへ戻るにつれ、パンを焼く匂いが風に混じり、子どもたちの歌う声まで聞こえてくる。そのあまりの普通さに、ついさっき火の中へいたことが夢みたいに思えた。


 でも、袖の下に巻いた包帯だけが現実だった。


 朝凪刻印房へ戻ると、トトが真っ先に玄関まで転がるように飛び出してきた。白い耳をぴんと立て、彩加の裾へ鼻先を押しつけたあと、すぐ凌太の包帯へ気づいて耳を青く光らせる。


 「大丈夫、大丈夫」

 彩加はしゃがんで撫でた。

 「もう火はここまで来てないから」


 トトは納得していない顔で、なおも凌太の足元をうろうろする。弥織が「看病役が増えたわね」と笑い、健平は鉛箱を作業台へ下ろしたところでようやく大きく息をついた。


 李々香は封印の確認だけ済ませると、「中身は朝になってから、灯りの下で正式に読みます」と告げた。声は落ち着いていたが、瞳の奥には隠しきれない緊張がある。母の手がかりが、この先にあるのだ。


 弥織と健平、李々香が帰ったあと、工房には静けさが戻った。


 乾燥室のほうでトトが布へ潜り込み、台所の鉄鍋からは温め直したスープの匂いがする。彩加は薬箱をもう一度持ち出し、凌太を椅子へ座らせた。


 「包帯、巻き直す」

 「さっきで十分だ」


 「十分じゃない。煤が入ってるかもしれないもの」


 反論を許さず、彩加は水盆を置いた。さっきは外で慌てて処置しただけだ。工房の灯りの下で見ると、火傷の輪郭がはっきりして痛々しい。深くないとはいえ、腕の内側まで熱が回っている。


 彩加は布を絞り、そっと当てた。


 凌太がごくわずかに肩を強張らせる。

 その小さな反応だけで、胸がまた痛んだ。


 「……怖かった」

 気づけば、声になっていた。


 凌太が目を上げる。


 「樽じゃなくて」

 彩加は傷を見つめたまま続ける。

 「落ちてきた梁より、爆発より、あなたが私の前に来た瞬間のほうが、ずっと怖かった」


 工房の灯りは柔らかい。夜の倉庫よりずっと暖かいのに、その言葉を出すのはずっと難しい。


 「私、自分が危ないときより、あなたが怪我するほうが嫌」

 包帯を巻く手が、また少し震える。

 「だから、さっきお願いしたの。本当に」


 凌太は黙って聞いていた。

 それから、いつもの少ない言葉で返す。


 「分かった」


 「ほんとに?」


 「ほんとに」

 少し間を置いて、彼は続けた。

 「でも、君も同じだ。自分だけで止められる火でも、次は合図を待て」


 彩加は言い返しかけて、やめた。

 同じ顔をしているのだと気づいたからだ。相手が無茶をする前提で、先回りして注意する顔。


 「……分かった」

 今度は彩加が言う番だった。


 それでようやく、凌太がほんの少しだけ目元をゆるめる。


 彩加は新しい包帯を結び、薬草膏の蓋を閉めた。工房の外では風が窓を鳴らしている。明日の祭りへ向けた寒波の前触れかもしれない。けれど、今夜の工房の中だけは静かで、湯気の立つ薬草の香りと、乾ききらない墨の匂いが混じっていた。


 凌太がふいに言う。


 「さっきの防爆印、見事だった」


 彩加は瞬いた。


 「褒めるの遅いのよ」


 「火の中で言う余裕はなかった」


 「今あるなら、もう少し上手に言って」

 つい口が軽くなる。

 「命拾いした直後なんだから、五割増しで褒めてもいいのに」


 凌太は考え込むみたいに数秒黙った。

 その沈黙に、彩加は少しだけ笑ってしまう。やっぱり器用じゃない。でも、その不器用さごと信じられる気がしてしまうのが困る。


 やがて彼は、まっすぐ彩加を見た。


 「君がいたから、証拠も人も守れた」

 低い声だった。

 「俺は、君のその手を誇りに思う」


 彩加は息を止めた。


 誇りに思う。

 婚約していたころでさえ、祥章から一度ももらえなかった言葉だ。役に立つとか、見栄えがするとか、家同士に都合がいいとかではなく、その手そのものを見て言われたことなんて、なかった。


 笑い返したいのに、うまくできない。

 胸の奥がいっぱいになって、目の端が熱くなる。


 「……そういうの」

 彩加はやっとのことで言った。

 「今みたいに急に言うの、反則」


 「君も急に本音を言う」


 「同じにしないで」


 でも、同じなのかもしれない。

 笑って流せないところまで来てしまっている。


 その沈黙を破ったのは、作業台に置いた鉛箱の存在だった。

 灯りの下で鈍く光る蓋。中には、焼け残った帳簿と、母の手に近い紙片が眠っている。


 彩加はそちらへ目を向けた。

 明日になれば、それを開く。

 母が最後に何を残したのか、ようやく知ることになる。


 怖い。

 でも、逃げたくはなかった。


 「明日」

 彩加が言う。

 「最後まで読みましょう。祭りの前でも、前だからこそ」


 凌太も鉛箱を見た。


 「ああ」


 短い返事なのに、それだけで一緒に進める気がする。


 彩加は片づけた薬箱へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。代わりに、そっと凌太の右手の甲へ触れる。火傷のないほうの手だ。


 「今夜は、ありがとう」

 小さく言った。

 「守ってくれて。……ちゃんと戻ってきてくれて」


 凌太は、その手を振りほどかなかった。


 むしろ、ごく自然に指先を返してくる。

 握るというほど強くはない。ただ、そこにいると確かめるみたいな温度だった。


 工房の窓の外で、遠くの鐘がもう一度鳴る。

 聖夜の前夜。

 火の匂いをくぐり抜け、痛みを巻いたまま、それでも二人は同じ灯りの下へ帰ってきた。


 そして、作業台の上では、母の残した最後の手がかりが静かに待っている。


 明日、その頁を開けば、町を守るための印はきっと、もう一段先へ進む。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ