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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第16話 完璧な恋人の綻び

 第八鐘が鳴るころ、港はもう半分祭りの顔をしていた。


 冬の陽は低いままだというのに、岸壁沿いの柱には青銀の細布が巻かれ、荷車の軸には小さな誘導灯の刻印が試しに灯されている。海風にあおられた旗布が鳴るたび、塩の匂いと、焼き栗を煎る屋台の甘い匂いが交じって流れた。


 朝凪刻印房から持ち出した視察用の箱を、凌太が片手で支えている。もう片方の手には、李々香が夜のうちに整えた受領名簿の控えだ。


 彩加は歩きながら、自分の手袋の縫い目を親指でなぞった。


 緊張しているときの癖だった。


 「手、冷えてるな」


 隣から低い声が落ちる。


 「そりゃ冷えるでしょ。こんな朝から有力商人勢ぞろいなんだから」


 「違う」


 凌太は足を緩めずに言った。


 「指先に力が入りすぎている」


 見られている。そんなところまで。


 彩加は少し唇を尖らせてから、わざとらしく息を吐いた。


 「監査官って本当に嫌な職ね」


 「夫としての観察だ」


 その返しがあまりに自然で、彩加は危うく足をもつれさせかけた。


 今朝はそういうのをやめてほしい。いや、むしろ今朝だからこそ困るのかもしれない。


 視察場所は、祭り当日に護航刻印板を配るための仮設保管棟だった。第三岸壁と第四岸壁の間に建てられた長い木造倉で、板材の乾燥棚、封印前の検分卓、受領印台が一直線に並んでいる。表にはすでに十人近い人影が集まり、毛皮襟の外套や厚い帽子の向こうで、それぞれが港の顔をしていた。


 塩商の古株、香辛料商の夫婦、二隻持ちの船主、布商組合のまとめ役、それに行事統括の書記役。弥織もいる。いつも通り姿勢が良く、凍る空気の中でも声だけは柔らかい。


 「来たわね、朝凪。監査官殿も」


 「遅れてませんよね」


 彩加が言うと、弥織は小さく笑った。


 「ええ。むしろ他が早すぎるの。みんな、自分の船に載る板が本物か気が気じゃないのよ」


 その一言で、場の温度がよく分かった。


 朝凪刻印房が補助工房に選ばれたことを面白く思わない人もいる。

 けれどそれ以上に、今年の祭りで荷と船を守れるかどうかを見極めたい人たちが集まっている。


 彩加は箱を卓へ置き、蓋を開けた。中には冬柏と浜楢の見本板、刻印墨の比較紙、湿気を吸わせたときの反りの差を示す端材、そして本板へ入る前の試し印片が整然と収まっている。


 「本日は、祭り当日に配布する護航刻印板の見分け方を確認していただきます」


 彩加が声を張ると、視線が一斉に集まった。


 喉がひりつく。


 けれど、逃げる場所はもう選ばないと決めている。


 「正規板は冬柏。木目が詰まっていて、水気を吸っても反りが浅い。模倣板に使われやすい浜楢は、見た目を似せられても、冷えた朝ほど縁が逆らいます」


 そう言って見本を持ち上げると、すぐ横から凌太が布を差し出した。板の端に薄霜がついていたのを拭うためだ。


 言葉を挟まず、必要な動きだけを先回りする。


 商人たちの前で、それは夫婦らしい息の合い方に見えるのだろう。


 彩加は一瞬だけ彼を見て、小さくうなずいた。


 「……ありがとう」


 そのやり取りだけで、香辛料商の女主人が目を細めた。


 「本当に息が合うのねえ、朝凪さんたち」


 彩加は笑う。


 「工房仕事は、手を貸してくれる人が優秀だと助かるんです」


 「手だけかしら」


 横から塩商の老人がくっくっと喉で笑った。からかわれている。けれど悪意の色は薄い。試されているだけだ。


 彩加は視線を逸らさず返した。


 「見張りも、書類も、体調管理もしてくれます。過保護なくらい」


 「過保護ではない」


 凌太が真顔で訂正する。


 「必要な範囲だ」


 その真面目すぎる返答に、何人かが吹き出した。場の固さが少し緩む。


 弥織はそこで頷き、彩加へ先を促した。


 彩加は試し印片へ保温印と誘導灯印を順に重ね、刻まれた線の深さの違いを見せた。正規板へ入れた刻印は、冬の白光の下でも線が澄んで見える。模倣品は最初だけ似るが、角に濁りが出る。そこへトトが箱の陰からひょいと顔を出し、浜楢の端材へ鼻先を寄せた。耳先が、ほんの少しだけ青く光る。


 ざわめきが起きる。


 「その白いのが噂の潮うさぎか」


 「危ない板が分かるって話は本当だったのか」


 「全部あれに嗅がせれば済むんじゃないか」


 いくつかの声が飛ぶ。


 彩加はトトをそっと抱き上げた。


 「全部は無理です。この子は便利な道具じゃありません。ただ、人が見落としやすい違和感を先に教えてくれることはあります」


 「ずいぶん大事にしてるのね」


 布商組合の女がそう言ったとき、彩加は迷わず答えた。


 「この子に限りません。うちの工房は、荷も道具も、手伝ってくれる人も、大事に扱います」


 静かな返答だったが、言い終えたあと、妙にはっきり胸へ戻ってきた。


 朝凪刻印房は、そういう場所にしたい。

 その願いが、いつの間にか口癖ではなく本音になっている。


 視察はその後も続いた。


 受領印の位置、封印紐の通し方、保管棟へ入る人数制限、行事当日に板を手渡せる者の署名欄。凌太は質問の一つ一つに短く的確に答え、彩加が実物を示し、弥織が最終的な運用へ落とし込む。三人の役割が噛み合うほど、集まった人々の目は警戒から確認へ、確認から納得へ変わっていった。


 終盤、二隻持ちの船主が腕を組んだまま言った。


 「監査官。朝凪刻印房をそこまで推すのは、職務上の判断か。それとも、身内びいきか」


 空気がまた一段冷える。


 彩加は思わず息を止めた。


 だが、凌太は眉一つ動かさなかった。


 「両方です」


 即答だった。


 船主が目を細める。


 「ほう」


 「私情で庇うなら、ここへ立たせません。立たせたうえで責任を持てると判断したから、名を出しています」


 凌太はそこで一度だけ彩加を見た。


 「それに、身内であることを理由に働きを値切るつもりもありません」


 彩加の胸が大きく鳴った。


 庇うでもない。

 飾るでもない。

 働きを見たうえで、名を出すと言う。


 その言葉が、何より欲しかったのだと気づく。


 船主はしばらく黙り、それからふっと肩を抜いた。


 「分かった。祭り当日、うちの受領係もその手順に従わせる」


 他の商人たちも次々に頷き始める。


 視察はそこで一応の区切りとなった。


 書記役が控えへ署名を集める間、彩加はようやく肩の力を抜いた。指先がじんと痛い。緊張していたのは寒さのせいだけではなかった。


 「よく通したわね」


 弥織が小声で言う。


 「通したのはみんなででしょう」


 「違うわ。最後にあの目を受け止めたのは、あんた」


 弥織はさらりと言って、すぐ次の書類確認へ回っていった。


 残された彩加は、返す言葉を持てなかった。


 表ではすべてうまくいった。

 朝凪の名も守れた。

 補助工房としての責任も、きちんと立った。


 なのに、胸の内側だけがきれいに収まらない。


 控え室として借りた小部屋へ入ると、急に音が遠くなった。表のざわめき、木箱の触れ合う音、係員の呼び声。それらが扉一枚向こうへ退くと、彩加は卓の縁へ手をついて、小さく息を吐いた。


 終わった。

 成功した。

 よかった。


 そのはずなのに、なぜか息が足りない。


 さっきの「両方です」が頭の中で何度も響く。

 夫として。

 監査官として。

 どちらも本当の顔で立たれたら、自分はどこまで演技でいればいいのだろう。


 「彩加」


 背後で扉が閉まる音がした。


 凌太が入ってきたのだと分かったが、振り向けなかった。


 「具合が悪いのか」


 「悪くないわ」


 「顔色がよくない」


 「緊張してたの。終わったら気が抜けただけ」


 嘘ではない。けれど全部でもない。


 彩加は帳面を整えるふりをした。手元の紙が少しずれる。指先にまだ力が入りすぎている。


 「少し外の風に当たる」


 そう言って逃げるように小部屋を出た。


 回廊は海側へ開いた半屋外で、欄干の向こうに冬の水面が見える。白い泡を引いた小舟がゆっくり横切り、その向こうで祭り用の灯柱が並んでいた。


 冷たい空気が肺へ入って、少しだけ頭が澄む。


 けれど次の瞬間、背後の足音で逃げ切れないと知る。


 「彩加」


 今度は近い。


 振り向くと、凌太が数歩の距離で立ち止まった。表で見せていた監査官の顔ではなく、家の卓越しにこちらを見るときと同じ、静かすぎる目だった。


 「無理をしなくていい」


 「してない」


 「している」


 言い切られると、胸の奥がかえってざわつく。


 「さっきから、私のこと見すぎじゃない」


 「見ている」


 「ほんと、嫌な職」


 「もう監査ではない」


 その一言のあと、彼は少しだけ間を置いた。


 「嫌なら、もう演じなくていい」


 風が、二人の間を横へ流れた。


 彩加は瞬きを忘れた。


 もう演じなくていい。

 それは優しさだ。逃げ道をくれる言葉だ。ちゃんと分かる。


 なのに、その優しさが胸を強く引っかいた。


 「……嫌なのは、演技じゃない」


 口が勝手に動いた。


 言うつもりなんてなかったのに、止まらなかった。


 凌太の目がわずかに揺れる。


 彩加はその揺れを見てしまったからこそ、もう引き返せなくなった。


 「嫌なのは――終わりがあることよ」


 言ってしまった。


 胸の中へ隠していたものが、冬の空気の中へ裸で放り出された気がした。


 回廊の向こうで荷車の輪が鳴る。

 遠くで誰かが受領番号を呼ぶ。

 祭り前の港は忙しく動き続けているのに、この数歩ぶんの空間だけが止まってしまったみたいだった。


 凌太はすぐには何も言わなかった。


 ただ、手袋越しに握っていた書類の端が、少しだけ折れる。


 彩加は今さら喉が乾いた。冗談へ逃がそうにも、もう遅い。


 「……忘れて」


 やっとそれだけ絞り出す。


 けれど凌太は首を振った。


 「無理だ」


 低い声だった。


 彩加は息を呑む。


 その先を、言ってほしいと思ってしまう。

 言われたら困るとも思う。

 終わりのある契約の中で、そんな言葉をもらったら、もう前のふりへ戻れなくなる。


 凌太が一歩だけ近づいた。


 欄干から吹き返す冷気より、彼の体温のほうが先に分かる距離。


 「俺は」


 そこまで言って、彼は止まった。


 彩加も動けない。


 視線だけが絡み、互いに何を言おうとしたのか、たぶんどちらにも分かってしまう。


 だからこそ、踏み込めない。


 契約がある。

 祭りがある。

 暴かなければならない不正が、まだ目の前にある。


 今ここで気持ちを言葉にしたら、守ってきた均衡が壊れる。

 けれど、もう壊れかけてもいる。


 回廊の端で、伝令係がこちらへ走ってくる足音がした。


 「監査官殿! 朝凪さん!」


 若い声が近づく。


 凌太がほんのわずかに目を閉じ、すぐいつもの表情へ戻った。彩加も慌てて背筋を伸ばす。遅すぎるくらい、ぎこちなく。


 伝令係は二人の前で立ち止まり、息を切らせたまま書状を差し出した。


 「李々香さまから至急です。祭り用保管棟の裏帳場で、昨夜付けの受領印に重複が見つかったそうです」


 空気が一気に現実へ引き戻される。


 凌太はすぐ書状を受け取った。彩加も頭の熱が冷めるのを待たず、差し出された控えへ目を走らせる。


 重複受領印。

 つまり、板の流れを途中で差し替えるための下準備かもしれない。


 「裏帳場はどこ」


 彩加が問うと、伝令係が慌てて位置を告げる。


 凌太はもう歩き出していた。


 その横へ並んだ瞬間、彼の袖が彩加の外套へかすった。


 ほんのそれだけなのに、さっき言えなかった言葉全部が、まだその距離に残っている気がする。


 回廊を抜ける前、彩加は一度だけ彼を見上げた。


 凌太は前を向いたまま、小さく、けれどはっきりと告げる。


 「さっきの話は、終わっていない」


 心臓が、今度は痛いくらい強く鳴った。


 返事はできないまま、二人は伝令係を先頭に裏帳場へ向かう。


 表では、祭りのための灯が昼間の薄光の中で試しにともり始めていた。

 誰が見ても絵になる完璧な恋人夫婦のまま。

 けれど、その継ぎ目にはもう、隠しきれない本音の熱が差し込んでいた。



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