第15話 聖夜灯航祭の依頼
翌朝、朝凪刻印房の表戸を叩いたのは、まだ陽が低いうちだった。
乾いた木の音が三つ。続いて、控えめだが急ぎを隠せない声がする。
「朝凪刻印房。ギルド本部から書状です」
彩加は、刻印墨を温めていた小鍋の火を弱め、表へ向かった。背後ではトトが干し海藻をくわえたまま跳ね、来客の気配に耳をぴんと立てている。
戸を開けると、まだ少年のあどけなさが残る伝令係が、白い息を吐きながら立っていた。厚手の外套の胸には、港町交易ギルドの青銅章。手には封蝋のついた細長い箱と、短い書状がある。
「至急だそうです。窓口主任の弥織さまから」
「朝からずいぶん改まってるわね」
彩加が受け取ると、封蝋には本部窓口の印ではなく、行事統括の印が押されていた。年に一度、聖夜灯航祭の準備期間だけ使われる印だ。
心臓が一つ跳ねる。
ちょうど背後から、凌太が卓上の書類をまとめながら出てきた。
「本部からか」
「ええ。しかも、お祭り用の印」
伝令係はそれだけ確認すると、もう次の配達先があるらしく深く一礼して去っていった。石畳を走る足音が角を曲がって消える。
彩加は戸を閉め、朝の冷気を防ぐように箱を胸へ抱えた。
「縁起でもない知らせじゃないといいけど」
「開けよう」
作業台へ戻り、封蝋を切る。
細長い箱の中には、祭り用の薄青いリボンで綴じた正式依頼書と、補助工房指定の仮章札が入っていた。朝凪刻印房――そう墨書きされた札の下に、行事統括印が鮮やかに押されている。
彩加は最初、その文字の意味をうまく呑み込めなかった。
凌太が横から依頼書を読み上げる。
「聖夜灯航祭における大船団護航刻印準備に際し、朝凪刻印房を補助工房として正式に登用する。担当範囲は、第三岸壁から第六岸壁までの護送札修正、保温印補助、誘導灯用小板の補刻、当日不具合への現場対応……」
そこまで聞いて、彩加はようやく目を瞬いた。
「待って。これ、正式依頼よね」
「そうだ」
「補助じゃなくて、ただの手伝いじゃなくて、ちゃんと名指しの」
「朝凪刻印房名義の正式依頼だ」
凌太の声は落ち着いていた。だが、その落ち着きの奥に、はっきりした熱がある。
彩加は紙へもう一度目を落とした。
ついこの前まで、同じギルドから偽造刻印の疑いを向けられていた。荷札一枚の仕事でさえ、頼む方がためらう空気があった。昼市の実演も、倉庫の補修も、荷場の手当ても、全部こつこつ積み上げてきたつもりではいたけれど。
それが今、町じゅうの船が海へ出る日の準備を任される。
失った信用が、ただ戻るのではなく、形を持って戸口まで来た。
喉が熱くなる。
「……変な顔してる?」
彩加が訊くと、凌太は少しだけ目を細めた。
「してる」
「どういう意味で」
「泣きそうな顔と笑いそうな顔が、一度に来てる」
彩加は反射的に唇を結んだ。言い返そうとしたのに、先に笑いが漏れてしまう。
「だって、嬉しいのよ」
そう口にした途端、胸の奥の実感が一気に膨らんだ。
嬉しい。
朝凪刻印房の札が、もう恥ではなく役目として呼ばれる。母が残した棚も、自分が磨いてきた筆も、この町でまだ使っていいと言われたようで。
トトが机の端へ飛び乗り、仮章札をちょいちょいと前脚で叩いた。札の青い紐が揺れる。
「トトも祝ってくれてるのかしら」
「食べられないと分かってる物には優しいな」
「ひどい言い方」
彩加は札を大事に持ち上げた。
けれど、嬉しさと同じだけ、別の感情も底から浮いてくる。
祭り当日。
護航刻印。
大船団。
偽造刻印の黒幕から見れば、これほど都合のいい狙い目はない。
その考えを口にする前に、凌太が依頼書の末尾を指でなぞった。
「本部へすぐ来いとある。詳細は面談だ」
「やっぱりそれだけじゃ済まないわよね」
「たぶん、現場を任せる以上、説明と釘刺しの両方だ」
彩加は頷き、もう一度依頼書を畳んだ。
「行きましょう」
◇
朝の本部は、祭り前らしい慌ただしさで満ちていた。
石造りの玄関ホールを抜けるだけで、荷票の束を抱えた書記が横切り、船主らしい男たちが岸壁割り当てを巡って声を荒らげ、窓口の前では箱入りの装飾灯が検品待ちで積まれている。冬の冷気に紙とインクと羊皮の匂いが混じり、どこか乾いた緊張が漂っていた。
それでも、彩加が本部へ足を踏み入れたときの視線は、晩餐会の夜とは明らかに違っていた。
露骨な嘲りも、ひそひそ声も、前のようにはない。
代わりに向けられるのは、確認するような目、そして思い出したような頷きだ。
「あ、昼市の刻印師さん」
「パン屋の窯、あの人が直したんだろ」
「第三岸壁の荷札も助かったって聞いた」
小さな囁きが耳へ届く。
彩加は歩幅を乱さないようにした。嬉しい。けれど、まだ浮かれて転ぶ段ではない。いまは依頼内容を確かめるのが先だ。
窓口の奥から弥織がこちらに気づき、書類を抱えたまま手招きをした。
「来たわね。上へ」
「ずいぶん忙しそう」
「忙しいのよ。聖夜灯航祭の三日前に暇な本部があったら逆に怖いわ」
言いながらも、弥織の足は速い。二階へ上がる階段の途中で、彼女は一度だけ振り返った。
「先に言っておくけど、これは情けで回した仕事じゃないから」
彩加は軽く目を見開いた。
弥織はその反応を見て、少しだけ口元を和らげる。
「昼市での実演、第三岸壁の補修、香辛料倉庫の件、巡航船ノールの荷札修正。全部、ちゃんと報告が上がってる。救急で頼んだ仕事の仕上がりも早かった。だから、回す価値があると判断された。それだけ」
その言い方が、かえって嬉しかった。
彩加は笑みを作るのではなく、自然に息を吐いて頷く。
「ありがたく受けるわ」
「受ける前に中身を全部知りなさい」
「そうね」
二階の小会議室へ入ると、机の上にはすでに数冊の台帳と、岸壁配置図、船団一覧、刻印板の管理表が並んでいた。窓際には大きな湯差しと三つの杯。先に来ていたらしい李々香が、紙の束を抱えたまま顔を上げる。
「遅いです」
「朝一番で呼んだ側が言う?」
「言います。急ぎの案件なので」
相変わらずぶれない口調だが、今日はそれ以上に目が鋭い。
嫌な予感がひとつ増える。
弥織は机の端へ書類を置き、手短に言った。
「本題に入るわ。朝凪刻印房へ、聖夜灯航祭当日の補助工房任務を正式依頼する。これはもう決裁済み。断ることはできるけど、断れば別の工房へ振るだけ。その場合、朝凪へ戻り始めた信用の流れは一度止まる」
「断るつもりはありません」
彩加は即答した。
弥織が頷く。
「そう言うと思ってた。任せる範囲は書面の通り。ただし現場対応が入るから、準備だけで終わらない。祭り当日は第三岸壁から第六岸壁を動き回ることになる。凌太、あなたは監査官としての巡回権限で補佐」
「了解した」
「夫婦として並んでもらう場面もあるわ。行事担当は、工房の顔と監査の保証が揃っている方が商人たちを黙らせやすいと考えてる」
彩加は書類へ伸ばしかけた手を少し止めた。
夫婦として並ぶ。
また、その役目だ。
けれど今回は、疑いを逸らすためだけではない。工房の看板を背負って人前へ立つための形だ。
凌太は何も言わず、岸壁図へ視線を落としていた。だが、彩加が黙ったのに気づいたのか、机の下でほんの少しだけ手の甲が触れた。
大丈夫だ、と言う代わりのように。
彩加は息を整えた。
「必要ならやるわ」
「助かる」
そこで李々香が、抱えていた紙束を机へ置いた。
乾いた音がして、空気が変わる。
「祝い話だけなら、わたしは呼ばれていません」
弥織が短く顎を引いた。
「ええ。ここからが厄介な話」
李々香は一番上の書類を開き、整った指先で二つの欄を示した。
「祭り用護航刻印板の管理簿です。正規保管庫から第三岸壁分と第四岸壁分が、昨日の夕方に『点検のため一時移動』として出されています」
「点検なら普通の流れじゃない?」
彩加が言うと、李々香は首を横に振った。
「点検先の署名欄が変です」
別紙を重ねる。
「ここ。港湾行政長官直属補佐官、という肩書きで受領印が押されている。でも、その補佐官は祭礼備品の受領権限を持っていません。しかも返却予定時刻が空欄です」
凌太の目が鋭くなった。
「承認したのは誰だ」
「行事倉庫番の名で通っていますが、筆跡が違う。おそらく代筆か、偽造です」
彩加は管理簿の数字を追った。
第三岸壁分、十四枚。
第四岸壁分、十一枚。
補助小板、三十六枚。
数だけ見れば、ただの移動に見える。だが、返却時刻がない。受領権限のない人間が持ち出している。
それは、あまりにも露骨だった。
「まさか……もう、すり替えが始まってる?」
「可能性が高いです」
李々香はそう言って、今度は薄い包みを開いた。
中から出てきたのは、小さな木片が二枚。どちらも護航刻印板に使う試し彫り用の端材らしい。一見すると同じ材質に見えるが、よく見ると木目の詰まり方が違う。
「これは倉庫の床に落ちていた削り屑と、正規工房から届いた端材です。正規品は冬柏。水を吸いすぎず、熱でも歪みにくい。こちらは安い浜楢。乾いているうちは似ていますが、塩気を吸うとすぐ反る」
彩加は木片を受け取り、爪先で軽く弾いた。
音が違う。
冬柏は硬く澄み、浜楢はわずかに鈍い。
「護航刻印板に浜楢を使ったら」
「一日目は持つかもしれない。でも海風と霜で反り、刻印の線がずれていく」
凌太が低く答える。
彩加は木片を握り直した。
偽造刻印は、派手に壊れないから厄介だ。最初は効いているように見える。だから被害が出たときには、責任だけが別の場所へ飛ぶ。
しかも今回は祭り当日、大船団を送り出すための護航刻印だ。出港直後に誘導灯が乱れ、保温印が落ち、防水の重ねが崩れたらどうなるか。冬の海では、少しの狂いが命取りになる。
弥織が指で机を軽く叩いた。
「港湾行政長官は、祭りの準備を盾に人の出入りを増やしてる。倉庫も、岸壁も、商人の控え室も、誰かがどこかで『急ぎだから』を理由に通してしまう。今の時期はそれがいちばん危ない」
「黒幕にとっては、騒がしい今が紛れ込みやすい」
彩加が言うと、凌太が頷く。
「しかも、もし祭りで事故が起きれば、責任は補助工房にも飛ぶ」
その一言で、依頼書の重みが変わった。
名誉であると同時に、罠になりうる。
朝凪刻印房の信用が戻ってきた今だからこそ、ここで失敗させればもう一度深く沈められる。
彩加は依頼書の端を指で押さえた。紙の感触はしっかりしているのに、胸の内側は冷えた海水のようにざわついた。
けれど、怖いからと引いたら終わる。
ここまで助けてきた人たちの顔が浮かぶ。荷札泥棒をした子ども、炊き出し小屋の妹、昼市で笑ってくれた花売り娘、窯が戻って泣きそうになっていたパン屋、第三岸壁で頭を下げた船員。
あの人たちが海へ出る日だ。
自分の工房の名が呼ばれたのは、その日のためだ。
彩加は顔を上げた。
「受けるわ」
弥織がまっすぐ見る。
「危ない仕事よ」
「分かってる。でも、ここで手を引いたら、向こうの思う通りだもの」
彩加は木片を机へ戻した。
「それに、港の人たちが使う刻印を、怪しい板に任せたくない」
しんとした室内で、李々香がわずかに目を伏せる。肯定なのか、ただ考えているだけなのか、一瞬では読めない表情だった。
先に動いたのは凌太だ。
「俺も異論はない。朝凪が中へ入れば、祭り用備品の流れを正面から追える。裏帳簿の線とも繋がる」
「でしょうね」
弥織は肩をすくめた。
「だから、もう一つ。今日の午後から現物確認を始めるつもりだったけど、予定を前倒しする。明日の午前、祭り前の最終視察が入る。第三岸壁から行事保管庫、有力商人の控え室まで。行事担当、商人側代表、監査側、補助工房代表、全部まとめて歩く」
彩加は思わず眉を上げた。
「明日?」
「ええ。すり替えが始まっているなら、悠長に構えてる時間はない」
弥織はためらいなく続ける。
「商人たちは、朝凪刻印房へ正式依頼が回ったことにまだ半信半疑よ。だから、視察の場で実際の手順と板の見分け方を見せる必要がある。彩加、あなたは工房代表として説明に立つ。凌太、あなたは監査の保証人として横に立つ」
李々香が補足する。
「つまり、人前で夫婦らしく見える方が話が早い、ということです」
あまりに率直な言い方に、彩加は苦笑いを浮かべた。
「遠回しって知ってる?」
「急ぎの案件に遠回しは不要です」
「ほんと容赦ないわね」
けれど、その容赦のなさが今はありがたかった。誤魔化している暇がない。役目があるなら、その形に自分を合わせるだけだ。
凌太が岸壁図の端へ視線を落としたまま言う。
「視察の前に、保管庫の鍵の流れを確認したい。受領権限者全員の名簿も」
「もう用意してる」
李々香が別の紙束を差し出す。
「あと、祭礼備品の出入りに関わった者の中で、行政長官側と繋がりが深い人間へ印を付けました」
彩加はその几帳面さに感心しながら紙を受け取った。名前がいくつも並び、その横に細い注記がびっしり入っている。肩書き、担当日、持ち場、過去の異動先。責任の線が逃げないよう、全部とどめてある。
「李々香、こういうとき本当に頼もしい」
ぽろりと本音が落ちる。
李々香は一瞬だけ黙り、それから小さく咳払いした。
「褒めても紙は増えません」
「増えたら困るのよ」
弥織が即座に言って、室内の空気が少しだけ緩んだ。
そこへ給仕係が湯差しを替えに入ってきた。三つの杯へ新しい茶が注がれる。熱い湯気と一緒に、ほんの短い静けさが会議室へ落ちた。
彩加はその間に、依頼書の欄外に書かれた細い字へ目をやる。
補助工房札は、本日正午までに受領印を返送。
祭り前視察、明朝第八鐘。
当日現場対応責任者、彩加。
自分の名前が、正式書式の中にある。
責任者。
嬉しさと恐さがまた同時に湧いた。けれど、逃げたいとは思わなかった。
「受領印、ここで押していい?」
彩加が言うと、弥織が筆と朱墨を寄せた。
「もちろん」
彩加は筆を持った。
こういう正式文書へ名を入れるとき、母はいつも言っていた。上手く書く必要はない。責任を受けるときは、手を震わせないことだけ覚えなさい、と。
彩加は一度息を吸い、依頼書の所定欄へ名前を書いた。
朝凪刻印房代表 彩加。
続けて、受領印を押す。
朱が紙へ乗った瞬間、不思議な静けさが胸へ落ちた。
戻ってきた。まだ途中だが、確かに戻ってきたのだと分かる。
弥織は受領済みの依頼書を取り上げ、大きく頷いた。
「これで正式ね。じゃあ、浮かれている暇がないことも正式に伝えておくわ」
「分かってる」
「本当に?」
「半分くらいは」
「残り半分を今から埋めなさい」
彩加は笑って頷いた。
◇
会議を終えて一階へ下りると、本部のざわめきは朝よりさらに濃くなっていた。
彩加は仮章札の入った箱を抱え、階段下で一度立ち止まる。木の箱は軽いのに、胸の内側には確かな重みがあった。
正式依頼。責任者。視察。すり替えの可能性。
全部まとめて受け取ったばかりなのに、不思議と足は前へ出る。
玄関へ向かう途中、窓口横で見覚えのある声がした。
「お、朝凪」
健平だった。肩へ縄束を担ぎ、どう見ても本部へ似合わない量の荷票筒を片手に持っている。
「本部の床に泥落とさないでよ」
彩加が言うと、健平は鼻で笑った。
「お前も言うようになったな。で、何だその箱」
弥織より先に話が回るのも癪なので、彩加はわざと少し胸を張った。
「聖夜灯航祭の補助工房札」
健平が数秒止まる。
それから、口笛を吹くように息を吐いた。
「へえ。やるじゃねえか」
軽い口調なのに、目はちゃんと喜んでいた。
「第三岸壁の連中、朝凪が入るなら安心だってよ。昨日の足場の件も回ってる」
「足場の件って何よ」
「監査官が落ちそうなお前を支えたやつ」
彩加は眉を寄せた。
「なんでそんなのまで広まるの」
「港だからな。綱が鳴れば話も鳴る」
健平はそう言ってから、ちらりと凌太を見る。
「まあ、祭り前は気ぃ張れ。表で名前が戻ったときほど、裏で足引っ張る奴が増える」
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえな」
「うるさいわね」
けれどその言葉は、弥織たちの警戒と同じ重さで胸に残った。
本部を出るころには、空は薄曇りに変わっていた。風が海の塩を含み、頬へ冷たく刺さる。
帰り道、彩加は箱を抱えたまましばらく黙って歩いた。
横では凌太が、先ほど渡された名簿へもう目を通している。歩きながらでも紙を読むところは相変わらずだ。
「嬉しいか」
不意に訊かれ、彩加は前を向いたまま答えた。
「嬉しいわ。すごく」
少し置いて、続ける。
「でも怖いのも本当」
「そうだろうな」
「もし祭りで何か起きたら、朝凪の名前も一緒に沈む」
「起こさせない」
声が低く、迷いがなかった。
彩加はようやく彼を見る。
「簡単に言うわね」
「簡単ではない。だが、やることは明確だ。流れを押さえる。板を見分ける。人の出入りを絞る。証拠を先に固める」
言いながら、凌太はいつものように順番立てて考えている。その冷静さが心強くて、同時に少しだけ悔しい。こっちはさっきから嬉しいだの怖いだの忙しいのに、この人はちゃんと地面を見ている。
彩加はわざと鼻を鳴らした。
「そういうところ、助かるけど癪」
「褒め言葉として受け取る」
「勝手にどうぞ」
そのやり取りの後で、風が少し弱まった。
朝凪刻印房へ戻ると、トトが表戸の内側で待ち構えていたらしく、開いた隙間から真っ先に足元へ飛びついてきた。白い耳がぴんと立ち、抱えていた箱の匂いをしきりに嗅ぐ。
「だめよ、これはかじる物じゃないからね」
彩加は箱を高い棚へ置いた。
補助工房札は、よく見える場所へ掛けることにした。表から帰ってくるたび目に入る場所がいい。恥ではなく、責任として。
紐を通して壁へ掛けると、小さな札なのに工房の空気が少し変わった気がした。乾燥棚、墨壺、刻印板の列、その全部が札を受け止めている。
彩加は思わず一歩下がって眺めた。
「似合う」
背後で凌太が言う。
「工房に? それとも私に?」
「両方だ」
彩加は危うく手元の紐を落としかけた。
ほんの一息で済ませるような言い方なのに、こういうときだけ無防備に刺してくる。
「……言い方、分かってやってる?」
「何がだ」
「もういい」
彩加は顔の熱をごまかすように、作業台の上へ名簿を広げた。
午後は、明朝の視察に向けた準備で埋まった。
正規板と偽板の見分け方を書いた説明札を作り、冬柏と浜楢の違いが一目で分かるよう端材を並べ、湿気を吸ったときの反り具合を示す簡易表まで作る。彩加が手元で整え、凌太が説明順を詰め、必要な書類の控えには李々香の注記を書き写した。
途中で弥織から使いが来て、視察に同席する商人の名簿まで届く。塩商、香辛料商、布商、船主。顔ぶれを見るだけで、明朝がただの確認会で終わらないと分かった。
朝凪刻印房へ任せて大丈夫なのか。
補助工房の板は本当に見抜けるのか。
監査官が横に立っているからといって、全部信じていいのか。
そういう目が集まる。
彩加は紙へ説明文を書きながら、胸の内で何度も言い聞かせた。
見られるのは怖い。
けれど、見られる場所へ戻りたくてここまで来たのだ。
夕刻、灯りを入れ始めたころ、作業台の上には明朝持ち出す資料が几帳面に整っていた。正規板の見本、端材、管理簿の写し、視察順路、受領権限者名簿。
その横で、彩加はふと、祭り用の補助工房札へ目をやる。
小さな札が、夕灯を受けて静かに揺れていた。
「戻ったんだな」
独り言のように漏らすと、すぐ近くで紙を綴じていた凌太が顔を上げた。
「何が」
「朝凪の名前」
彩加は札から目を離さないまま言った。
「まだ途中だけど、追い出される側じゃなくて、呼ばれる側へ」
少し沈黙があってから、凌太が答えた。
「君が戻した」
彩加は首を振る。
「一人じゃ無理よ」
「だとしても、最初に手を止めなかったのは君だ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
契約で始まった関係でも、こうして横から自分のやってきたことを見ていてくれる人がいる。それだけで、明朝の視察へ向かう足が少し軽くなる。
トトが棚から飛び降り、正規板の見本へ鼻を寄せ、それから浜楢の端材へ近づいた瞬間だけ耳先をうっすら青くした。
彩加と凌太の視線が同時に動く。
ほんの淡い光。けれど見間違いではない。
彩加は息を止めた。
「やっぱり、いるのね」
「明日までに消される前に、押さえる」
凌太はそう言って、視察用の包みを固く結んだ。
外では、祭りの試し灯がどこかでともったらしく、窓硝子へ淡い青白さが映る。
聖夜灯航祭は近い。
朝凪刻印房へ戻った信用も、母が残した痕跡も、偽造刻印を流した側の焦りも、全部が一つの方角へ集まり始めていた。
明朝、第八鐘。
有力商人たちの前で、工房の名と、自分の手と、この結婚の形まで試される。
彩加は視察資料の一番上へそっと手を置いた。
怖い。
けれど、逃げたくはない。
その指先へ、遅れて凌太の手が重なる。
大げさではない。ただ、紙が風で散らないよう押さえるだけの動きに見える程度の触れ方だった。
「明日、俺は君の横にいる」
低い声だった。
彩加はその手を見下ろし、ゆっくり頷く。
「知ってる」
それだけで、充分だった。
灯りの下で二人の影が机へ落ち、重なったり離れたりしながら揺れる。
明日になれば、また完璧な恋人夫婦のふりをする。
けれど、そのふりの奥で脈打っているものは、もうふりだけでは収まらなくなっていた。




