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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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14/23

第14話 契約の期限

 翌朝の朝凪刻印房は、いつもより静かだった。


 静かというより、妙に音が近い。薬缶の小さな鳴り、匙が皿へ触れる軽い音、乾燥棚の奥でトトが干し海藻をかじるしゃりしゃりという音。普段なら会話のすき間へ紛れてしまうものが、今朝はどれもはっきり耳へ届いた。


 彩加は焼いた黒麦パンへ林檎の煮詰めを塗りながら、できるだけ自然に振る舞おうとした。


 けれど向かいの席に座る凌太と目が合いそうになるたび、昨夜のことが勝手によみがえる。


 肩へ額を預けたこと。

 いて、と言ったこと。

 忘れて、と口走った自分へ、彼が忘れないと返したこと。


 思い出すたび、耳の奥が熱くなる。


 「その瓶、逆だ」


 不意に言われて、彩加は手元を見た。


 林檎煮ではなく、塩漬け鰊の瓶を開けようとしている。


 「……朝から海の味にするところだったわ」


 「見れば分かる」


 「見てなかったのよ」


 「そう見えた」


 短いやり取りなのに、そこへ昨夜の余韻が混じって、余計に落ち着かない。


 凌太はいつもと同じ顔で湯気の立つ茶を差し出した。けれど、卓の端に置く角度だけが少しだけ彩加の手元へ寄っている。こぼさせないためだ。そういう細かな気遣いを当たり前のようにするから困る。


 彩加は茶杯を受け取り、わざと軽い口調を作った。


 「監査官さまは、朝から観察が細かいわね」


 「昨夜、眠れていない顔をしている」


 「あなたもでしょう」


 「少しは」


 「少しどころじゃない顔よ」


 そこまで言ってから、彩加はふっと息をこぼした。


 妙にぎこちないのに、言葉の受け渡し自体は途切れない。それがいちばん厄介だった。昨夜のあとで距離を測り損ねているのは同じなのに、朝の支度も茶の温度も、互いの癖も、すでに身体が覚えてしまっている。


 トトが卓の端へ飛び乗り、彩加の袖を前脚でつついた。白い耳は今朝もまっすぐで、危険の気配はないらしい。


 「あなたが一番、平常運転ね」


 彩加が撫でると、トトは気楽に鼻を鳴らした。


 その気楽さに少しだけ救われたところで、工房の戸が叩かれる。


 来客は弥織だった。


 いつもの淡い鼠色の外套に、帳場用の革鞄を提げている。朝の冷気を連れて入ってきた彼女は、台所の空気を一目見て、何かを察したように片眉を上げた。


 「おはよう。二人とも、妙に静かね」


 「いつも賑やかだと思われていたのなら心外だわ」


 「そういう返しがすぐ出るなら大丈夫そう」


 弥織はあっさり言って、鞄から書面を二通取り出した。


 厚手の生成り紙に、交易ギルドの青い封蝋が押されている。


 彩加は受け取る前から嫌な予感がした。


 封を切る。


 上にあるのは、婚姻保証契約更新届。

 下にあるのは、婚姻保証契約解消確認書。


 文字を見た瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。


 弥織は事務の声で告げる。


 「期限が近いの。聖夜灯航祭の翌朝までが、最初の契約だったでしょう。あの日の正午までに、更新か解消か、どちらかを本部へ出して」


 彩加は書面の端を指で押さえたまま、笑う形だけを作った。


 「ずいぶん夢のない紙ね」


 「夢で帳簿は閉じられないもの」


 弥織はそう返したあと、少しだけ声を柔らかくした。


 「これは手続き。だから今すぐ決めろって話じゃない。ただ、祭りが終われば誰かが聞くわ。朝凪刻印房の今後も、調査の継続も、あなたたちの名義もね」


 凌太が紙面へ目を落としたまま尋ねる。


 「更新した場合、調査権限の扱いは」


 「現状維持。共同名義も継続。ただし保証責任の範囲もそのまま延びる」


 「解消した場合は」


 「婚姻保証に基づく保全措置はその時点で終了。工房の営業権は、現時点までの再審査結果をもとに通常扱いへ戻す。ただし、港湾行政長官まわりの件で何か動くなら、別の監査名目が必要になる」


 そこまで聞いて、彩加はやっと意味を飲み込んだ。


 工房の信用が戻れば、もうこの契約にしがみつく理由は薄くなる。


 その当たり前のことが、紙になって目の前へ置かれた途端、急に鋭くなった。


 自分は最初からそのために署名したのだ。工房を守るため。港の腐った流れを暴くため。恋だのぬくもりだのを差し込む余地なんて、最初からなかったはずなのに。


 彩加は書面をきちんと重ね、卓へ置いた。


 「分かったわ。期日までに決める」


 凌太も短くうなずく。


 弥織は二人を交互に見て、それ以上は踏み込まなかった。


 「今日のところは、祭り前の積み荷整理が港じゅうで遅れてる。健平のところも人手不足。工房の護航刻印の準備に入る前に、現場の流れを見ておくのも悪くないわ」


 そう言い残し、彼女は青い封蝋の欠片を手袋で摘み取ってから帰っていった。


 戸が閉まる。


 朝の工房へ、また静けさが戻る。


 だが先ほどまでの静けさとは別のものだった。卓の上に置かれた二枚の紙が、見えない音を立てている。


 彩加は先に立ち上がった。


 「港へ行きましょう。座ってても、ろくなこと考えないもの」


 凌太は反対しなかった。


 「外套を着ろ。風が強い」


 「その言い方、完全に夫のそれなのよね」


 口が勝手にそう返してから、彩加は自分で赤くなった。


 凌太も一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに視線をずらした。


 「……事実として、今日は冷える」


 それ以上は続かない。


 続かないまま、二人は並んで港へ向かった。


 聖夜灯航祭を数日後に控えた岸壁は、冬の朝からせわしなかった。


 塩漬け鱈の樽、乾燥果実の籠、灯航祭で船へ吊るす光布、船首へ結ぶ常緑枝、酒樽、蝋燭箱、旅客用の毛布。石畳の上を行き交う荷車は絶えず、荷札を確認する声と縄を締める掛け声が潮風へ混じる。


 空は薄曇りで、海は鈍い鉛色だ。けれどあちこちに赤い実や金の紐が見えて、港全体が忙しさのなかで祭りの支度をしているのが分かる。


 「遅い!」


 岸壁の先から、健平の声が飛んできた。


 分厚い手袋を片手にぶら下げ、荷票板を脇へ挟んだまま駆け寄ってくる。朝からすでに二往復は走った顔だった。


 「夫婦そろって暗い顔して歩いてるから、遠くからでも分かったぞ」


 「暗くないわよ」


 「暗い」


 「即答しないで」


 健平は彩加の抗議を流し、今度は凌太を見る。


 「お前もだ。監査官の顔じゃなくて、寝てねえ男の顔してる」


 凌太は否定も肯定もしなかった。


 健平は、なるほど面倒な空気だな、という顔を一度だけしてから、にやっと口角を上げた。


 「ちょうどいい。喧嘩でも何でもしてる暇あるなら働け。十二番岸壁の灯布箱、札の組み直し。三番倉庫の防湿縄、締め直し。あと巡航船ノールの食料箱に仮の護送印。お前ら二人いれば一刻で終わる」


 「喧嘩はしてない」


 彩加が言うと、健平は肩をすくめる。


 「してなくてこれなら、余計めんどくせえな」


 そうして返事を待たずに、二人の背をぐいぐい押して現場へ放り込んだ。


 働き始めれば、身体の方が先に動く。


 十二番岸壁では、灯航祭で各船へ配る光布の箱が山になっていた。箱ごとに船名札と積込順の札があるのだが、昨夜の風でいくつか入れ違っていたらしい。


 彩加が箱の側板へ屈んで札紐をほどき、凌太が荷票板と照らして順を読み上げる。


 「これは巡航船ノール。次が商船エルヴァ。こっちの赤紐は旅客便用だ」


 「なら金糸の札へ替える。角が湿ってるから、先に乾かすわ」


 言葉は必要な分だけで足りた。


 箱の向きを変えるときは凌太が持ち上げる側へ回り、彩加は札の墨が擦れないよう板布を挟む。高い位置の札へ手を伸ばすときは、何も言わなくても下から箱を押さえる手が入る。彩加が筆を出そうとした瞬間には、風除けの板が横へ立てられている。


 周囲の荷運び人たちが、途中から面白そうにそれを見始めた。


 「なんだ、やっぱり息合ってるじゃねえか」


 「見ろよ、あの札の渡し方。完全に長年の相棒だぞ」


 「夫婦ってのは、喋らなくてもああなるもんなのか」


 からかうような声が飛ぶ。


 彩加は苦笑いで受け流したが、胸の奥では別の意味で苦しかった。


 こういうときだけ、何も迷わない。

 手を出す場所も、声をかける間も、相手の次の動きも、自然に分かる。


 なのに更新するか解消するかというたった一つの問いになると、喉へ鍵が掛かる。


 三番倉庫へ回るころには、風が少し強くなっていた。


 防湿縄を通すための木枠が高く組まれていて、彩加は足場板へ乗って上から刻印位置を測る。縄へ短い防湿印を等間隔で入れ、木枠の継ぎ目には防腐の薄印を重ねる。大げさな魔法ではない。だがこういう細い積み重ねが、冬の港では効く。


 「彩加、右足」


 下から凌太の声が飛ぶ。


 次の瞬間、足場板の端がわずかにきしんだ。彩加が体重を寄せすぎていたのだ。


 彼がすぐ支える。


 木枠の下から板を押さえ、もう片方の手で彩加の足首の高さへ腕を差し入れる。落ちるほどではない。けれど、もし支えが遅れれば筆は折れ、印は歪んだ。


 彩加は一拍遅れて息を吐いた。


 「……ありがとう」


 「終わるまで降りるな。板を替える」


 「命令口調」


 「落ちるよりましだ」


 健平が少し離れたところから大声を投げる。


 「そこ、いちゃつくなら後にしろ! 先に縄だ!」


 「してない!」


 彩加と凌太の声が、珍しくぴたりと重なった。


 周囲が笑う。


 健平は腹を抱えている。


 彩加は足場の上で顔をしかめたが、笑い声が悪意のないものだと分かって、怒りきれなかった。


 昼前には、巡航船ノールへ積む食料箱の仮護送印まで済んだ。


 霜で湿った木箱の蓋へ、彩加が防水と防腐の軽印を重ね、凌太が横で荷票番号を書き留める。最後の一箱を閉じたところで、ノールの船員が帽子を取って頭を下げた。


 「助かったよ、朝凪の奥さん」


 言われた瞬間、彩加は手元の筆を危うく落としかけた。


 奥さん。


 この数日で何度も呼ばれてきたはずなのに、今日は妙に刺さる。


 凌太が先に応じた。


 「祭り当日も岸壁を回ります。不具合が出たらすぐ呼んでください」


 船員は安心したように笑い、去っていく。


 彩加は箱の蓋へ置いた手をゆっくり離した。


 彼の声は落ち着いていた。夫として呼ばれても、監査官として返しても、何一つ乱れない。そういうところに何度も助けられてきた。


 だからこそ思う。


 祭りが終わり、工房の信用が戻り、不正の筋道まで見えたなら。

 この人は、もっと身軽な形で先へ進めるのではないか。

 自分を背負っていなくても。


 その考えが胸へ落ちた瞬間、冷えた箱板より冷たいものが内側をなぞった。


 休憩に入るころ、健平が紙袋を抱えて戻ってきた。中には湯気の立つ肉まんと、焼き林檎を挟んだ薄焼きパンが詰まっている。


 「ほら。働いた分だけ食え」


 「買ってきたの?」


 「おう。腹減ってる奴がろくな判断しねえのは、お前んとこの監査官がいつも言ってる」


 健平はそう言って、わざとらしく二人の間へ座った。


 肉まんをひと口で半分なくしてから、こちらを見比べる。


 「で。何があった」


 「何も」


 彩加が即答すると、健平は鼻で笑った。


 「何もない夫婦は、朝から同じタイミングで同じ方向見て黙らねえよ」


 「夫婦って言い切るの好きね、あんた」


 「外から見りゃそうだろ」


 彼はあっさり言って、薄焼きパンを彩加へ投げてよこす。


 「まあ、喋る気ねえなら別にいい。ただ一個だけ言っとく。さっきの現場、誰もお前らを無理して組ませてるようには見てなかった。むしろ、あれで離れる方が不自然だって顔してたぞ」


 彩加は返事をしなかった。


 健平は今度は凌太を見る。


 「お前もだ。考え込むのは勝手だけど、黙ってりゃ賢く見える時間には限りがある」


 凌太は肉まんの湯気越しに、ほんの少しだけ眉を動かした。


 「覚えておく」


 「今じゃなくていいのかよ」


 「今は積み荷が先だ」


 その返しに、健平は呆れたように笑った。


 「ほんと面倒くせえ夫婦」


 午後の作業は、午前よりさらに忙しかった。


 祭り用の常緑枝を束ねる縄へ簡単な保水印を入れ、旅客便の毛布束へ持続時間の短い保温印を配り、岸壁脇の仮設灯へ誘導灯印を刻む。小さな仕事ばかりだが、どれも祭り当日の混乱を減らすためには欠かせない。


 彩加は筆を動かしながら、何度も思った。


 自分はやはり、この町でこうして働くのが好きだ。

 荷を待つ人の顔が変わる瞬間を見るのが好きだ。

 祭りを前に浮き立つ港の空気も、寒いのに忙しく動く手も、嫌いになれない。


 そして、そのすぐ隣に凌太がいる景色に、もう慣れてしまっている。


 慣れてしまったものを、期限だからと切り離せるのだろうか。


 夕刻、最後の荷票確認を終えるころには、空が群青へ沈み始めていた。海の上に冷たい風が走り、遠くの船灯が一つずつともる。


 彩加は使い終えた筆を布で拭い、岸壁の端へ積んだ空箱へ腰を下ろした。足がじんわり重い。


 少し遅れて、凌太も隣へ来る。


 黙って、湯入りの小瓶を差し出した。港の茶屋で買ってきた生姜湯らしい。


 「冷えてる」


 「あなたもでしょう」


 「自覚はある」


 彩加は瓶を受け取った。温かさが手のひらへにじむ。


 岸壁の下で、波が石を打つ音がした。


 いまなら何か言えるかもしれない、と思った。


 更新したいとも、終わるのが怖いとも、昨夜の忘れないがどれほど嬉しかったかとも。

 どれか一つでも。


 けれど口を開く前に、凌太の方が低く言った。


 「今日の足場、危なかった」


 彩加は思わず笑った。


 「そこから入るの」


 「他に言うべきことがあるのは分かってる」


 彼は海を見たまま続けた。


 「だが、急いで言って、君の選ぶ余地を狭くしたくない」


 生姜湯の湯気が、彩加の頬をかすめた。


 選ぶ余地。


 その言葉に、この人らしさが全部入っていた。自分の気持ちを通すより先に、相手が逃げ場を失わないことを考える。優しいという一語では足りない、不器用で頑固なやり方だ。


 彩加は瓶の口を両手で包みながら、小さく息を吐く。


 「ずるいわね、ほんとに」


 「またか」


 「またよ」


 それ以上は続かなかった。


 けれど黙ったままでも、隣に座る距離だけは離れない。


 岸壁の向こうで、祭り用の試し灯がともった。青白い光が風へ揺れ、海面へ細長く道を描く。その光を見ながら、彩加は思う。


 契約の期限は近い。

 紙の上では、終わりがもう決まっている。


 それでも今日一日、荷札を直し、縄を締め、箱を運び、危ない足場で支えられ、寒い夕方に湯を差し出された。その積み重ねまで、紙一枚でなかったことにはできない。


 工房へ戻ったら、卓の上の書面をまた見ることになるだろう。

 更新か、解消か。


 答えはまだ言えない。

 言えないまま、心だけが少しずつ片方へ傾いていく。


 彩加は生姜湯をひと口飲んだ。


 甘さより先に、辛みが喉へ落ちる。


 「明日も忙しいわよ」


 「ああ」


 「祭り前に倒れたら許さないから」


 「君もだ」


 海風が二人の間を通り抜けた。


 それでも温かさは、まだ手の中に残っていた。



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