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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第13話 慰める、慰められる

 朝凪刻印房へ戻るころには、空の色はもう鉛みたいに鈍く沈み、海から吹き上がる風に細かな霙が混じっていた。


 凌太は勝手口から入るなり、作業台の上を片づけ、暖炉へ乾いた薪を二本くべた。彩加も外套を脱ぎ、旧灯台から持ち帰った帳面と紙片を一つずつ布の上へ並べる。湿気を吸った紙は、気を抜けばすぐ波打ってしまう。李々香に見せる前に、まず息を吹き返させなければならない。


 仕事が目の前にあるうちは、まだ平気だった。


 帳面の頁へ薄紙を挟み、重しの位置を調整する。空袋の紋章を写し取り、荷札の順番を揃える。凌太が封緘袋へ採取時刻を書き足し、彩加が母の字を読み間違えないよう横へ注釈を添える。いつもの工房で、いつものように手を動かしているだけで、胸の奥に刺さった氷も少しは形を失う気がした。


 だが、それが一段落した途端、静けさが来た。


 乾燥棚の木がぱちりと鳴る。暖炉の赤い火が、墨壺の縁をぬらりと照らす。奥の籠で眠るトトが、時おり鼻先をひくつかせる。


 凌太は資料の上へ布を掛けながら言った。


 「今夜はここまでにしよう。残りは明朝、李々香と合わせる」


 「……ええ」


 返事はしたのに、彩加の身体はすぐ動かなかった。


 机の上にはもう、母の字が残っていない。布の下へ隠された。なのに目の前の空気だけが、まだ旧灯台の石の匂いを引きずっているようだった。


 彩加は何か言い訳を探すみたいに、刻印筆と墨皿をまとめて持ち上げた。


 「これ、洗ってくるわ。乾く前に落としたいし」


 凌太は止めなかった。ただ、彩加の足取りが少し頼りないことに気づいたらしく、視線だけが背中についた。


 台所は工房の奥にある。狭いが、磨かれた銅鍋と白い皿が並び、夜になると工房よりずっと私的な場所になる。彩加は流しへ水を張り、墨皿を沈めた。黒がじわりと広がって、水面の上で冬の雲みたいに薄まっていく。


 指先へついた墨をこすり落としながら、母の手を思い出した。


 骨ばって見えるのに温かい手だった。忙しい朝でも、刻印板の角で怪我をすると必ず気づいた。包帯を巻きながら、家柄なんかより役に立つ手を持ちなさい、と笑っていた。


 役に立つ手を持て。


 あの言葉に何度も背中を押されてきた。


 それなのに、肝心の母が何に怯えて、どこまで一人で抱えていたのか、彩加は何も知らなかった。


 指の腹が震える。


 墨皿の縁を持つ力が抜け、かちゃんと小さな音が立った。


 「彩加」


 背後から呼ばれても、すぐには振り向けなかった。


 「大丈夫」と言えば済む。そういう顔を作るのは得意だ。晩餐会の夜だって、荷揚げ場の子どもの前だって、李々香に睨まれたときだって、彩加は笑って切り抜けてきた。


 けれど今夜は、その笑い方がどうしても思い出せない。


 「……大丈夫じゃないみたい」


 自分でも驚くほど正直な声が出た。


 流しの上へ両手をつく。濡れた指先が冷たいはずなのに、頬だけ熱い。


 「私ね」


 そこで一度、喉が詰まった。


 言葉にしたら崩れると分かっていた。分かっていたのに、もう胸の内側へ押し込んでおけなかった。


 「どこかで、まだ思ってたの」


 凌太は何も言わない。


 背中越しでも、彼が耳を傾けているのが分かった。


 「事故で流されたって聞いても、遺体が見つからなかったから、ひょっとしたらって。どこか別の港で生きてて、急に扉を開けて帰ってくるんじゃないかって。馬鹿みたいでしょう」


 笑おうとした声は、途中で掠れた。


 「でも、さっきの紙を見たら……知ってたんだもの。戻れないかもしれないって。私に読ませたいって書くくらい、知ってたんだもの」


 そこでとうとう、彩加は振り向いた。


 目の奥が熱くて、視界が滲んでいる。これ以上こぼしたくないのに、もう堰は壊れかけていた。


 「もう会えないのね」


 その一言を口にした瞬間、世界が静まり返った。


 暖炉の音も、外の風も、遠くへ退く。


 母にもう会えない。


 晩餐会で婚約を壊された夜より、旧灯台で帳面を見つけたときより、その現実は今ここでいちばん重く落ちてきた。


 彩加は片手で口元を押さえた。みっともなく泣きたくないのに、息がうまく吸えない。


 凌太が一歩だけ近づく気配がした。


 慰めの名人なら、ここで気の利いた言葉を言えたのかもしれない。思い出は消えないとか、母君は君の中に生きているとか。けれど彼は、そういう飾りのある言葉を持っていない。


 代わりに、火にかけてあった小鍋へ水を足した。


 棚から茶葉缶を取り、蜂蜜壺を開ける。乾いた柑橘の皮も一片だけ入れた。冬の夜に身体を冷やさないよう、朝凪刻印房でよく飲む甘い茶だ。


 湯が沸く音が、静かな台所へ細く満ちる。


 彩加は涙を拭う暇も忘れて、その音を聞いていた。


 凌太は二つの杯へ茶を注ぎ、一つを彩加の前へ置く。


 「熱い。すぐ飲むな」


 言葉はそれだけだった。


 けれど、命令ではなく注意として置かれたその声が、どうしようもなく優しかった。


 彩加は震える指で杯を持つ。湯気の向こうで柑橘の香りがほどけ、張りつめた胸の奥へ少しずつ入ってくる。


 「……慰めるの、やっぱり得意じゃないわね」


 泣き顔のままそう言うと、凌太は向かいの椅子へ腰を下ろした。


 「知ってる」


 「自覚あるの」


 「ある」


 間の抜けた返事なのに、それで少しだけ笑ってしまう。


 笑った拍子にまた涙が落ちた。今度は止めなくていい気がした。


 彩加は椅子へ座り直し、杯を両手で包んだまま、ぽつりぽつりと母のことを話した。朝の市場で魚屋に負けない声を出していたこと。刻印墨の配合を教えるときだけ急に厳しかったこと。忙しいくせに、冬の一番寒い日は必ず甘い焼きりんごを作ってくれたこと。


 話しているうちに、泣き顔は少しずつ崩れ、代わりに幼い記憶の輪郭が鮮やかになっていく。


 凌太はほとんど口を挟まなかった。ただ茶が減るたびに立ち上がり、湯を足し、もう一度淹れた。


 一杯目が空になり、二杯目が半分ほど減るころ、彩加の声はずいぶん静かになっていた。


 「私、お母さんみたいに強くなれてると思ってたのに」


 杯の底を見つめたまま言う。


 「違ったわ。さっき、灯台で、今すぐ全部燃やしたいくらい腹が立って……でも怖かった。真相に近づいたら、本当に失ったって認めることになるから」


 凌太はしばらく沈黙し、それから言った。


 「強い人間は、怖がらない人間じゃない」


 彩加が顔を上げる。


 彼はいつものように表情を大きく動かさないまま、まっすぐ言葉を置いた。


 「怖いまま持ち帰った。君は逃げなかった。それで十分だ」


 たったそれだけなのに、また泣きたくなる。


 彩加は困ったように笑い、額を押さえた。


 「そういうのよ。ずるいの」


 「さっきも言われた」


 「二度でも三度でも言うわ」


 凌太の手が、卓上に置かれたまま少しだけ動いた。慰めたいが、どう触れていいか分からないときの、彼特有の小さな迷いだ。


 彩加はその迷いごと愛しく思ってしまって、余計に困る。


 泣き疲れたのか、身体が急に重くなった。暖炉の熱と甘い茶のせいで、瞼の裏がじわじわ溶ける。


 「少し、だけ」


 何を言おうとしたのか、自分でも曖昧なまま、彩加の身体は横へ傾いた。


 凌太がすぐ支える。


 腕ではなく肩だった。しっかりした骨と外套越しの体温が、ひどく現実的で、だから安心した。


 「部屋まで行くか」


 「……や」


 子どもみたいな返事が出た。


 彩加は自分でも呆れたが、離れたくない気持ちのほうが先に口を動かしていた。


 凌太は黙る。


 拒まなかった。


 それだけで十分だった。


 彩加は彼の肩へ額を預けたまま、浅く息を吐く。柑橘と茶葉と、どこか乾いた紙の匂いがする。仕事帰りの匂いだ。安心してはいけないはずなのに、安心してしまう。


 「凌太」


 「ん」


 「……今日は、いて」


 返事は短かった。


 「いる」


 その一言で、糸が切れたみたいに力が抜けた。


 彩加はもう何も言えなかった。涙の跡が乾ききらないまま、彼の肩にもたれ、呼吸のたびに上下する温度へ身を預ける。遠くで暖炉の薪が弾け、トトが籠の中で小さく寝返りを打った。


 次に目を開けたとき、窓の外は薄青く明るんでいた。


 朝だ、と分かるまでに少し時間がかかった。


 彩加は台所の長椅子に半分座り、半分もたれかかるような格好になっていた。肩の下には丸めた外套が差し込まれ、膝には毛布まで掛かっている。隣では凌太が椅子へ座ったまま、壁に頭を預けて目を閉じていた。


 そして、彩加の頭はまだ彼の肩に乗っていた。


 「…………」


 思考が一気に目を覚ます。


 昨夜の記憶が、熱を伴って戻ってきた。泣いた。弱音を吐いた。母の話をした。しかも最後には、いて、なんて言って、そのまま肩で眠った。


 彩加は耳まで熱くなった。


 起き上がろうとして毛布を落としかけ、その気配で凌太が目を開ける。


 「起きたか」


 声が少しかすれている。まともに寝ていないのだと分かった。


 彩加は慌てて距離を取った。


 「お、おはよう。あの、ええと、昨日のことは」


 言いながら自分で分かる。ここで言うべき台詞など、一つしかない。


 「忘れて」


 凌太は瞬きをひとつした。


 昨夜の余韻がまだ残る薄い朝の光の中で、その沈黙はやけに長く感じた。


 やっぱり言わなければよかった、と彩加が後悔しかけたとき、彼は低く答えた。


 「忘れない」


 彩加の喉が鳴る。


 凌太はさらに言った。


 「忘れたくない」


 それだけで充分だった。


 彩加は何も返せず、ただ顔を真っ赤にしたまま毛布を抱きしめるしかなかった。台所の窓の向こうで、朝の港を知らせる鐘がひとつ鳴る。


 夜は明けていた。


 けれど昨夜の温度は、まだどこにも消えていなかった。



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