第12話 旧灯台の秘密
その日の仕事を片づけたのは、昼を少し過ぎたころだった。
朝のうちに受けたのは、魚屋の氷箱の防冷印の補修と、旅籠から持ち込まれた湯たんぽ袋の保温印の描き直し。どちらも急ぎで、どちらも町の小さな暮らしに直結している。彩加は刻印筆を持つと自然に指先の迷いが消えた。細い線を重ね、塩と鉱石を混ぜた墨を乾かし、持ち主がほっとした顔になるのを見届ける。
そうしているあいだは、祥章の声も、昨夜の冷たい視線も、少し遠くへ押しやることができた。
だが、最後の依頼主を見送って戸を閉めた瞬間、胸の奥にしまっていたものがまた顔を出す。
棚の上、薄茶の布にくるまれた母のアルバム。
そこにあると分かっているだけで、工房の空気の重さが変わる気がした。
「……行くなら、明るいうちね」
彩加が独り言のように言うと、帳場机で控えを書き終えていた凌太が顔を上げた。
「潮が満ちる前のほうがいい。旧灯台の裏手は、夕方になると足場が濡れる」
もう行くと決めている返答だった。
彩加は少しだけ笑った。
「脅かして止めるかと思った」
「止めたい気持ちはある」
凌太は控えを重ねて紐で結び、立ち上がる。
「でも、君は止めても行く」
「……そうね」
「だから、止めるより一緒に行くほうがましだ」
まし、という言い方がいかにも彼らしくて、彩加は鼻先で笑った。笑った拍子に胸のつかえも少しだけ軽くなる。
工房の裏棚から防寒外套を取り出し、細い刻印筆と小さな携帯墨壺を腰袋へしまう。凌太は短い提灯と、封蝋用の小型ナイフ、封緘袋を用意した。証拠になりそうなものが見つかったとき、そのまま持ち帰るためだろう。
足元ではトトが落ち着きなくぴょこぴょこ跳ねていた。
「あなたは留守番」
彩加が言うより先に、白い潮うさぎは棚の脚を蹴って外套の裾へ飛びついた。ぴたりとぶら下がり、青い目を丸くして見上げてくる。
「……行く気満々ね」
「偽造刻印の気配を見るなら、いたほうがいい」
凌太が静かに言う。
彩加は小さくため息をつき、トトを抱き上げた。
「分かった。でも危ないところでは、絶対に私の腕から離れないこと」
トトは返事の代わりに、彩加の袖口へ鼻を押しつけた。
旧灯台は、いまの港の主航路から外れた岩場の先に立っている。
昔は冬の濃霧を裂くように火をともしていたが、新しい灯塔が岬側に建ってからは役目を終え、石壁だけを潮風に晒したままになっていた。港の者でも、あそこへわざわざ行くのは、遊び盛りの子どもが肝試しをするときか、年寄りが若いころの武勇伝を語るときくらいだ。
工房から旧灯台までは、海沿いの石畳を四半刻ほど歩く。
空は晴れていたが、北からの風は細い刃みたいに頬を切った。防寒印を仕込んだ外套の内側は温かい。それでも鼻先は冷える。通りでは干し鱈を並べる店が軒先の縄を張り直し、香辛料屋が木箱へ布を掛け、港へ向かう荷運び人たちが肩をすぼめながら急ぎ足で通り過ぎていった。
彩加は母のアルバムから切り離して持ってきた一枚の写しを胸元で押さえる。
旧灯台を斜め下から撮った写真だ。石段の途中に、冬の低い陽で伸びた影が映っている。写真の端に、小さく母の字で書かれた言葉。
――地面に浮かぶ君の影。
幼いころは詩みたいなものだと思っていた。けれど今は違う。母はただ感傷で書き残す人ではなかった。船荷証券も、倉庫札も、刻印板の擦り跡も、何年も先に使うかもしれないものを、きちんと順番に残す人だった。
影とは、何かの形のことだ。
人ではなく、紋章か、刻印の重なりか。
「母は、ここに何を隠したかったのかしら」
歩きながら呟くと、隣で凌太が答えた。
「隠したかった、というより、見つけてほしかったんだと思う」
「私に?」
「たぶん。自分に何かあったとき、正面から奪われない場所に残すために」
彩加は唇を結んだ。
母に何かあったとき。
その言い方は静かだったのに、胸の内側を鈍く打った。
母が消えた日のことは、いまだに断片でしか思い出せない。海難事故だった。そう聞かされ、そういうことになっていた。冬の沖で船が返らず、積み荷と一緒に沈んだのだと。遺体は上がらなかった。だから泣く場所も、見送る場所も曖昧なままだった。
曖昧な死は、長い時間をかけて人を傷つける。
諦めたつもりでいても、ふとした拍子に、どこかでまだ生きているのではないかという考えが頭をもたげる。そして次の瞬間には、そんな都合のいい望みを抱く自分を、ひどく卑怯に思ってしまう。
旧灯台へ続く細い道は、港の賑わいから外れるほど風の音ばかりになった。
朽ちた係留柱。苔をかぶった石段。打ち捨てられた古い浮き輪。海鳥が一羽、岩場の上で首をすくめている。
やがて、灰色の石でできた丸い塔が見えた。
窓は板で打たれ、上階の硝子は半分ほど割れている。海からの塩気を吸い続けた壁は黒ずみ、扉の鉄金具には赤茶の錆が浮いていた。
彩加は立ち止まり、息を整える。
「……本当に、ここなのね」
写真と同じ角度。石段の欠け方も、灯台の脚元の丸い排水溝も一致している。
凌太はまず周囲を一周して足跡と扉の傷を確認した。癖のような動作だった。見落としなく視線を走らせたあと、彼は扉の脇へしゃがみ込む。
「最近こじ開けられた跡はない。少なくとも表は」
「表、ってことは裏があるの?」
「古い倉庫は海側の搬入口を持ってることがある」
その言葉の最中、トトが彩加の腕の中でぴくりと耳を立てた。
白い耳の先が、じわりと青く染まる。
「……出た」
彩加の声が低くなる。
トトは灯台の扉ではなく、石段の脇に積もった藻と砂のあたりをじっと見ていた。彩加はそちらへ近づき、腰を落として目を凝らす。
石段の影に隠れるように、半分崩れた石板が埋まっていた。その表面に、見覚えのある細い線が走っている。
「刻印板の擦り跡……?」
彩加は手袋を外し、指先で砂を払った。
浮かび上がったのは、旧灯台の紋章と、もうひとつ、それに重なる細い弧線。朝凪刻印房で使う重ね刻印の下書きによく似ている。だが少し違う。最後の結び目が、いまの家の教本にはない形だった。
「母の癖だわ」
彩加は呟いた。
母は線を閉じる直前、ごく小さく右へ払う癖があった。表向きの刻印ではまず見えない、でも家族ならすぐ分かる程度の癖。子どものころ、真似しようとして何度も叱られた。
――印は飾りじゃないの。誰かがあとで読めるように、責任を置いていくものよ。
その言葉まで一緒に蘇る。
「読めるように、か」
凌太が石板の継ぎ目へナイフの先を差し入れた。
力をかけると、古い石ががり、と低く鳴り、半寸ほど浮いた。下から冷たい空気が吹き上がってくる。
彩加は思わず息を呑む。
石板の下には、手を差し込めるくらいの隙間があり、その奥に鉄輪が隠されていた。
「地下ね」
「らしい」
凌太は石板を完全に持ち上げないまま、まず提灯へ火を入れた。淡い橙の光が錆びた鉄輪を照らす。
鉄輪を引くと、石板の横の一部がさらに沈み込み、石段の内側に細い階段が現れた。人ひとりがやっと通れる幅しかない。潮の匂いと、長く閉ざされていた石の湿気が鼻へ入る。
「後ろにいる」
彩加が言うより早く、凌太は当然のように前へ出た。
「嫌だと言っても前に立つわよね」
「言うまでもない」
「知ってる」
彩加は外套の留め具を締め直し、トトを胸元へ抱え込んだ。
階段は急で、三十段ほど下ると小さな踊り場へ出た。そこから先は、灯台の基礎部分へ沿うように低い通路が伸びている。壁面には古い誘導灯印の残りがあり、とうに効力は切れているはずなのに、提灯の光を受けて薄く青白く浮いた。
「ここ、ただの物置じゃないわ」
彩加の声が反響して戻ってくる。
壁の一部には刻印板を立てかけていたらしい溝があり、床には墨壺の輪染みが残っていた。小規模だが、誰かがここで作業していた形跡だ。しかも一度や二度ではない。
通路の先の部屋へ入った瞬間、トトの耳がいっそう濃く青く光った。
「気をつけて」
彩加が囁く。
部屋は四畳ほど。壁際に崩れた棚、中央に石の机。机の上には木板が三枚重ねて置かれ、そのうち二枚には見かけだけ整った紋様が刻まれていた。
彩加は近づき、一目で顔色を変える。
「模倣刻印……」
線は美しい。だが祝福が通る流れではない。見映えだけを真似て、責任の要になる結びが省かれている。力が遅れて崩れる類の粗悪な印だ。
「しかも、原本を写そうとした跡がある」
木板の下へ薄紙を敷き、その上から擦り写した痕跡。強く押しすぎて紙が破れた跡まで残っている。
彩加は喉の奥が熱くなるのを感じた。
誰かがここで、正規刻印を盗み見て、かたちだけ奪おうとしていた。
それはただの盗用ではない。暮らしを守るための技術を、町から金を吸い上げる道具へ変える行いだ。
凌太は机の端に積まれた帳面を取り上げ、湿気で波打った頁を慎重に開いた。
「こっちを見ろ」
提灯の光を寄せる。
そこにあったのは、整った公文書の筆跡ではなかった。線の細い、速い字。急ぎながらも読み手を想定した文字。
彩加の胸が強く鳴った。
母の字だ。
「……お母さん」
頁の端に乾いた塩の粒が張りついている。墨は少し滲んでいたが、文章ははっきり読めた。
『正規刻印の保全記録 リュストル旧灯台保管分』
『港湾行政長官付の手で、模倣板の試作が進められている。帳場へ出る前に差し替えられる荷札あり。正規の刻印師が責を負わされるおそれ大』
彩加は頁を押さえる指先に力を込めた。
さらに次の行。
『長官側は、粗悪な模倣刻印を安値で流し、事故後に正規工房へ責を転じる算段。港の商いを恐怖で縛り、認可を握る者だけが利を得る形へ寄せている』
喉の奥で、何かがひび割れるような音がした気がした。
予感はあった。祥章の家が黒に近いことも、父の長い手が港のあちこちへ伸びていることも。
それでも、母の手で書かれた告発として読むのは、別の重さがあった。
凌太が低く言う。
「これだけでも十分強い。行政長官の名までは書いていなくても、港湾行政長官付の手と明記されてる。母君は実際に見ていた」
「……ええ」
彩加は次の頁をめくる。
そこにはさらに短い覚え書きが挟まっていた。
『原本の一部は朝凪で持つべからず。家を焼かれれば終わる』
『影の形は灯台の下に置く』
『もし私が戻らなければ、彩加に読ませたい』
最後の一文だけ、文字がわずかに乱れていた。
彩加はその行から目を離せなかった。
もし私が戻らなければ。
母は知っていたのだ。
自分が追われていることを。事故では済まない何かが近づいていることを。だから、家でも帳場でもなく、この誰も来ない旧灯台へ、記録を分けて隠した。
「最初から……海難事故なんかじゃなかったの……?」
声が、自分のものとは思えないくらい細くなった。
凌太はすぐには答えなかった。
否定できないからだと分かる。根拠が揃うまでは軽々しく断定しないのが彼だ。だが、沈黙そのものが十分な答えでもあった。
彩加の視界が少し揺れる。
怒りが先か、悲しみが先か、自分でも分からない。ただ胸の真ん中へ氷を押し込まれたみたいに冷たいのに、手足の先だけ熱い。
「奪ったのね」
彩加は唇を震わせた。
「工房の信用だけじゃなくて、お母さんの……」
言い切れなかった。
母の命、と口にした瞬間、本当にそうなってしまう気がした。
石の部屋は静かだった。上では風が灯台の外壁を叩いているのに、ここまでは鈍い唸りとしか届かない。提灯の火が小さく揺れ、トトが不安そうに鼻を鳴らした。
彩加は机へ手をついた。
今すぐ地上へ戻って、祥章の家へ乗り込みたい。帳場の前でこの帳面を叩きつけて、町中に聞こえる声で叫びたい。お前たちがやったのか、と。
けれど、その衝動が危ういことも分かっていた。
この場所がまだ知られていないのなら、それは母が最後まで守った利点だ。感情のまま動けば、証拠ごと潰される。
それでも、怒りは簡単に収まらない。
「許せない」
ぽろりと零れた声は、怒鳴り声にならなかった。怒りが深すぎると、むしろ小さくなるのだと初めて知る。
そのとき、彩加の手の甲へ別の温度が重なった。
凌太だった。
彼は帳面から手を離し、彩加の右手をしっかり握っていた。慰めるように撫でるのではない。逃がさないように、しかし痛くはない力で包む握り方。
彩加は顔を上げる。
提灯の光を受けた凌太の目は、いつも以上に暗く澄んでいた。
「今は持ち帰る」
低い声が、石壁に吸われる。
「証拠を封じて、李々香と照合する。写しを作る。弥織にも回す。港の外へも通せる形にする」
彩加の息が荒いままだと気づいたのか、彼は握る手にわずかに力を加えた。
「君を失うやり方では勝たない」
その一言が、真っ直ぐ胸へ入った。
怒りで真っ赤だった視界に、水が差されるみたいに輪郭が戻る。
君を失うやり方では勝たない。
それは捜査の判断であるはずなのに、彩加にはそれ以上のものに聞こえた。
大事にされている、と、言葉より先に身体が理解してしまう。
泣きそうになるのを堪えようとして、かえって喉が痛くなった。
「……ずるいわ」
かすれた声でそう言うと、凌太の眉がわずかに動く。
「何が」
「そういう言い方。今の私、そんなこと言われたら、ちゃんと頷くしかないじゃない」
ほんの少しだけ、彼の口元がやわらいだ。
笑うつもりのない人の、ほとんど笑いに近い顔だった。
「頷いてくれ」
彩加は唇を噛み、涙が落ちる前に一度しっかり瞬きをした。
泣いている場合ではない。ここで泣くのが悪いわけではない。ただ、母が残したものを一枚でも多く地上へ持ち帰ることのほうが先だ。
「……ええ」
ようやくそれだけ答える。
それから二人は手分けして部屋を調べた。
母の帳面は三冊。保全記録、模倣板の流通先の仮一覧、そして短い覚え書きの束。ほかに、原本の一部を薄紙へ転写した跡のある板が二枚、港湾行政長官付の印章が押された空袋が一枚、倉庫搬入日を示す荷札が六枚。いずれも湿気で傷んではいたが、字は読める。凌太は封緘袋へ順番に収め、表に採取場所と時刻を書きつけていく。
彩加はそのあいだ、机の裏側にまで視線を走らせた。
すると、板の裏へ貼りつけるようにして、小さな紙片が挟まっているのが見えた。爪先でそっと引き抜く。
それはほんの一行だった。
『線をつなぐのは、一人の手では足りない』
母の字。
先ほどの記録より少し古い墨色だ。
彩加はその紙片を胸へ押し当てた。
子どものころの母は、忙しい人だった。抱きしめられた記憶より、背中を見ていた記憶のほうが多い。けれど冷たかったわけではない。いつも町のあちこちへ手を伸ばしながら、最後には家へ戻ってきて、夕餉の席で今日見た海の色を話してくれた。
その人が最後に残した言葉が、誰かとつなげと告げている。
ひとりで抱えて燃え尽きるな、と言われている気がした。
部屋を出る前、彩加はもう一度だけ石の机を振り返った。
怒りは消えていない。母の死に誰かの意図が絡んでいたと知った以上、昨日までと同じ心ではいられない。
それでも、ここで感情に飲まれないでいられたのは、隣に凌太がいたからだ。
階段を上るとき、足元の石は下りより滑りやすく感じた。彩加が一度だけ足を取られかけると、すぐ前を歩いていた凌太が振り返り、何も言わずに手を差し出す。
さっき握られたばかりの手だ。
彩加は一瞬だけ迷い、結局そのまま重ねた。
石段を抜けると、外の光は思ったより白かった。
海風が頬を打ち、潮の匂いが一気に戻ってくる。閉ざされた地下にいたせいか、曇った空まで妙に広く見えた。
石板を元に戻し、足跡をできるだけ崩しておく。凌太は周辺の砂へわざと海鳥の足跡に似た乱れをつけ、誰かが掘り返した痕跡を紛らわせた。
「李々香には、今夜のうちに見せる?」
彩加が訊ねる。
「まず工房へ戻って乾かす。湿気で紙が崩れる。見せるのはそのあとだ」
「弥織さんには」
「明朝。窓口が開く前」
淡々とした段取りに、彩加は少し救われた。
怒りと悲しみが入り混じってぐらぐらしているとき、目の前にやることが並ぶだけで人は踏みとどまれる。
帰り道、彩加は何度か口を開いては閉じた。
言いたいことはたくさんある。母のこと。怖かったこと。悔しいこと。いま手を放したくないと思ってしまっていることまで。
だが、そのどれも、海風の吹く石畳の上ではうまく形にならない。
結局、工房が見える角まで戻ったところで、ようやく小さく言えたのは一つだけだった。
「……一緒に来てくれて、ありがとう」
凌太は歩幅を緩め、彩加を見た。
「当然だ」
「当然って顔しないで。私はちゃんと礼を言ってるの」
「なら、受け取る」
その返しがあまりにも彼らしくて、彩加は涙の代わりに笑ってしまった。
工房の屋根が見える。夕方にはまだ早い薄い光の下で、朝凪刻印房の看板は静かに揺れていた。あの扉の向こうで、乾燥棚も暖炉も、いつも通り待っている。
戻る場所がある。
その事実が、今日はひどくありがたかった。
彩加は胸元の紙片をそっと押さえ、外套の内側で温めるようにした。
母の残した線は、まだ全部は読めていない。
けれど少なくとも、ここで終わりではない。
旧灯台の地下で見つけたものは、過去を暴くだけの鍵ではなく、これから誰とどう立つかを問う印でもあった。
そしてその問いの隣にはもう、ひとりぶんではない足音がある。
朝凪刻印房の扉の前で、彩加は一度だけ深く息を吸った。
泣くのはあとでもできる。
怒るのも、戦うのも、これからでいい。
いまはまず、母が残した言葉を乾いた机の上へ広げて、消えない形にしなければならない。
そのために、帰ってきたのだと分かっていた。




