第90話:戦場に落ちた漆黒
中央戦線の空が、久々に澄み切っていた。
煙の層が薄れ、焦げ臭さも少し遠のく。
それだけで――
兵士たちの足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。
「……今日も前に出てるな」
若い騎士が盾の縁で汗を拭う。
隣の古参兵が小さく頷いた。
「もう城壁圏まであと少しだってさ」
淡々とした声。
でも、周りの空気が明らかに上向いていた。
前線は安定。
連携は崩れず。
負傷者も減っている。
勝勢――もう、形になりつつあった。
誰も口には出さない。
でも、みんな胸の奥で同じ確信を抱いていた。
遠くで号令が響く。
「前列、半歩前進! 間合いを詰めろ!」
盾がズンッと前に出る。
槍の穂先が揃って伸びる。
魔族の隊列が、じりじりと後退した。
――想定内。
ここ数日と同じ流れ。
若い騎士は小さく息を吐いた。
今日の地面は、
妙にしっかり踏みしめられた気がした。
空を見上げる。
雲の切れ間から差し込む白い光が、
戦場には似合わないほど静かで――
どこか、終わりを予感させた。
(……帰れるかもしれないな)
ふと浮かぶ、故郷の石畳。
朝の匂い。
名前も思い出せない、昔の約束。
胸の奥が、わずかに緩んだ――その瞬間。
風が、止まった。
誰の合図でもない。
魔法の気配もない。
ただ唐突に、
戦場から“流れ”が消えた。
旗がピタリと静止。
砂埃が落ち、喧騒が遠のく。
「……?」
若い騎士が眉をひそめる。
静かすぎる。
音が消えたわけじゃない。
音に意味がなくなったような――不気味な沈黙。
古参兵も同じ一点を凝視していた。
「……あそこだ」
視線の先。
戦場のど真ん中、
まだ誰も支配していない空白地帯。
そこだけ、色が沈んでいる。
光は届いているのに、
なぜか深さが違う。
空間が、キィ……と軋んだ。
次の瞬間。
空に――線が走った。
音なし。
閃光なし。
ただ、黒い裂け目だけが現れる。
傷跡みたいに細く、
瞬きの間にゆっくり広がっていく。
誰も声を出せなかった。
本能が拒否していた。
魔法じゃない。
転移でもない。
今まで見たどの現象とも違う。
裂け目の奥に、光はなかった。
底なしの闇が、じっと覗いている。
見てはいけない――
そう思うより早く。
それが、落ちてきた。
速くはない。
むしろ、ゆったりと。
重力に従ってるのかすら怪しい軌道。
黒い、細長い影。
やがて形がはっきりする。
――剣だ。
ただの一振りの、剣。
誰も動けない。
迎撃も、回避も、叫びすら起きない。
全員が、ただ見つめていた。
時間が、引き延ばされる。
剣は回転せず、
抵抗もせず、
まっすぐ落ちてくる。
そして――
刃が、地面に触れた。
衝撃は、なかった。
音も。土の跳ね返りも。何も。
ただ、抵抗なくスッと沈み、
柄の途中でピタリと止まる。
――それだけ。
なのに。
胸の奥が、ズシンと重い。
理由もなく、膝が笑う。
「……っ!」
若い騎士が歯を食いしばった。
触れてもいない。
距離もある。
それなのに、立っているのが苦しい。
周りでも同じ異変が広がっていた。
何人かが、無言で地面に手をつく。
恐怖じゃない。
痛みでもない。
もっと深いところ――
存在そのものを、撫でられている感覚。
「……何だ、あれ……」
古参兵の声が途切れた。
名前を知らないはずなのに、
心のどこかが――呼び方を知っている気がした。
黒い刃は、ただそこにあるだけ。
揺れも輝きも、威圧すらない。
なのに。
戦場の中心は、完全に奪われていた。
⸻
その時。
魔族側の隊列が、静かに割れた。
誰かが歩み出る。
重さも威圧もない、
ただ“当然”のような足取り。
片方の角が折れ、
欠けた先から黒い魔気が滲み出る四肢を、
鱗のような漆黒の鎧で覆った魔将。
――バルザーク。
彼は剣の前に立った。
周囲の魔族すら、無意識に距離を取る。
本能がわかっている。
触れていいのは、資格を持つ者だけだと。
静寂。
ゆっくりと、指が柄に伸びる。
そして――触れた。
瞬間。
世界が、軋んだ。
溢れ出したのは魔力じゃない。
侵食。
目に見えない闇が、水面の波紋のように広がる。
触れてもいない魔族兵の皮膚が、
静かに黒く染まり――溶けていく。
悲鳴は上がらない。
痛みより先に、
存在の輪郭そのものが削られていく。
バルザークは、
溶けゆく配下に一瞥もくれず、
ただ剣の感触を確かめるように指を滑らせた。
それでも、彼は手を離さない。
「……これか」
ただそれだけ。
彼は剣を、ゆっくり持ち上げた。
軽い。
羽みたいに。
なのに同時に――
世界そのものを握っているような、重さ。
王国兵の前線が、一歩後ずさる。
理由はわからない。
でも、理解だけはある。
――あれは、武器なんかじゃない。
バルザークが、何気なく。
本当に何気なく――剣を振った。
斬撃は、見えなかった。
音も衝撃も、何も届かない。
ただ。
数十メートル先の空間が、
遅れて――崩れた。
兵士も。
盾も。
地面も。
まとめて。
最初から、そこになかったかのように――消滅した。
――静寂。
誰も声を出せない。
わかってしまったから。
これは戦いじゃない。
ただの、終わりだ。
バルザークが、興味を失ったように呟く。
「……魔王様の器としては、十分だな」
復活はまだ先。
だが――準備だけは、整った。
彼が一歩、前へ踏み出す。
それだけで。
均衡していた戦線が、
音もなく、崩れ始めた。
⸻
遠く後方。
まだ何も知らない悠真の元へ――
最初の“大敗走”の報せが、疾走していた。
⸻
常闇の剣。
それは誕生なんかじゃない。
ただ、世界が負けた証が、
形を得ただけだった。
――そして今、
その“負け”が動き出した。
第90話、最後まで、ご覧いただき本当にありがとうございます。(^^)
リアクションd(^^) もたくさんいただいて嬉しいです! ありがとうございます!
次回は、
第91話『崩れゆく前線』
そこへ――
何かが、通り過ぎた。
兵士が一人、消えた。
血も、悲鳴も残らない。
最初から存在しなかったかのように。
「……え……?」
隣に立っていた若い騎士が、
理解できずに目を見開く。
次の瞬間。
その騎士も――
消えた。
───────────────
ブックマーク・評価していただけると、
更新の励みになります!
(ブックマークすると次回更新のお知らせが来て便利ですよ〜m(_ _)m)
感想やご意見もいつでもお待ちしています!
みなさんの声が本当に力になります。
よろしくお願いします。
次回もぜひお楽しみに!




