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【書籍化進行中】人間嫌いのハイエルフ、父になる  作者: 小狐


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第45話 人間の赤子は、じっとしていない

 リーネが初めて乳以外のものを口にしてから、十日あまりが過ぎた。


 離乳食は、今のところ毎朝少しずつ続けている。

 最初の二口だけで大騒ぎしていたのが馬鹿らしく思えるほど、リーネはすぐに匙を見ると口を動かすようになった。


 もっとも、食べられるからといって量を増やしていいわけではないらしい。

 その辺りはマルタへ任せている。

 私が口を出すと、たいてい「まだ早うございます」と返されるからだ。


 『主も、随分とお任せになれるようになりましたね』


 「人間の赤子のことは、人間に聞く方が早いと分かっただけだ」


 『それを任せられるようになったと申すのですよ』


 「違う」


 ルヴェンは何も言わず、尾だけを揺らした。


 その日の朝食を終えたあと、私はリーネを共用空間の敷物の中央へ座らせた。


 最近は、目を覚ましている間ずっと抱いているわけではない。

 両脚を前へ出した姿勢なら、傾いた身体を自分の手で支え、短い間は座っていられる。

 腹這いにしておけば、手の届くものへ次々と指を伸ばす。


 もちろん、手の届く場所に危険なものは置いていない。


 大樹の家そのものも、最初からリーネが触れることを考えて作ってある。

 それでも何をするか分からない以上、私はすぐ手を伸ばせる場所にいる。


 「リュセル様」


 イレナに呼ばれ、顔を上げた。


 「何だ」


 「根元の受け渡し場所へ、ヴァルネから今日の荷が届いたそうです。マルタ殿から頼まれていた穀物と布、それから辺境伯様より書簡が一通ございます」


 「書簡はあとで見る。荷は?」


 「地のドルムが運ぶとのことです」


 「なら任せればいい」


 「承知しました」


 ほんのそれだけの会話だった。

 私は再び敷物へ向き直った。


 「……リーネ?」


 先ほどまで敷物の中央にいたはずのリーネが、いない。

 いや、消えたわけではない。

 敷物の隅にいる。


 距離にすれば、リーネの身体二つ分ほどだろう。

 胸と腹を敷物につけ、両脚を後ろへ投げ出したまま、ルヴェンの尾を両手で掴んでいた。


 「誰が動かした?」


 私が聞くと、近くで布を畳んでいたマルタが顔を上げた。


 「私は触れておりません」


 「私もです」


 イレナも答える。

 セラとニナは食器を片づけている。二人が近づいた様子もない。

 ならば、残るのはルヴェンだ。


 「お前か?」


 『いいえ』


 「では、なぜそこにいる」


 『リーネ様がいらっしゃったからですが』


 「どうやって」


 『ご自分で』


 リーネは、こちらの話など構わず、ルヴェンの尾の毛を指の間に挟んでいる。


 「……自分で?」


 『はい』


 「歩けないだろう」


 『歩いてはおられません』


 それは見れば分かる。

 私はリーネを抱き上げ、さっきまでいた敷物の中央へ戻し、両脚を前へ出して座らせた。


 「あぅ?」


 「もう一度やってみろ」


 『主、今の言葉を理解されているとは思えませんが』


 「分かっている」


 何か向かう先が必要なのだろう。

 私はリーネがいつも持っている布の鳥を手に取り、少し離れた場所へ置いた。

 手を伸ばしただけでは届かない。

 だが、先ほど移動した距離よりは近い。


 リーネはすぐに布の鳥へ右手を伸ばした。

 もちろん届かない。

 さらに身を乗り出した途端、座った姿勢が崩れた。

 両手をついたものの、腕が曲がり、顔が敷物へ落ちていく。


 「危な――」


 私は咄嗟に手を伸ばした。

 だが、リーネは両手で身体を受け止め、顔を強くぶつけずに腹這いになった。

 

 「……なんと」


 私は伸ばしかけた手を見てから、ゆっくりと引いた。

 腹這いになったリーネは、もう一度布の鳥へ右手を伸ばした。

 まだ届かない。

 伸ばした手で敷物を掴み、肘を曲げる。

 胸と腹をつけたまま、身体が少しだけ前へ滑った。


 「……進んだ」


 『進まれましたね』


 今度は左腕を伸ばし、同じように身体を引く。

 両脚も後ろで動いているが、まだ膝は使えていない。

 リーネは腹をつけたまま、腕だけで身体を引きずって進んでいく。


 「そうやって来たのか」


 『先ほども同じように、私の尾までいらっしゃいました』


 「なぜ教えなかった」


 『主がお気づきになると思いましたので』


 「気づかなければどうした」


 『その時はお伝えしました』


 結局、教えるつもりだったのではないか。

 リーネはそんなやり取りなど気にもせず、布の鳥を目指している。

 あと少しのところまで来たが、伸ばした手はまだ届かない。


 「あぅ!」


 大きな声を上げ、敷物を叩いた。


 「仕方がないな」


 私は布の鳥へ手を伸ばす。


 「リュセル様」


 マルタに呼び止められた。


 「何だ?」


 「もう少しだけ、お待ちになってはいかがでしょう」


 「リーネは欲しがっているぞ」


 「はい。ですから、ご自分で取りに行こうとなさっているのでございます」


 「取ってやれば済む話ではないか」


 「それでは、リーネ様がご自分で取りに行く必要がなくなってしまいます」


 少し前までの私なら、危険がないのだからと、迷わず布の鳥を渡していた。

 だが今のリーネは、ただ待っているのではない。

 自分の腕で取りに行こうとしている。


 十日ほど前に自分で決めた言葉が浮かぶ。

 ――リーネの早さで覚えればいい。


 それなら、ここで先回りして渡すべきではない。

 私は布の鳥を取らず、手を膝へ戻した。


 「……分かった」


 リーネはまた片腕を伸ばした。

 身体が横へ傾きかけたが、反対の手をついて持ち直す。

 もう一度、腕で身体を引く。

 指先が布の鳥へ触れた。


 「あ……」


 セラの声がした。

 リーネは翼に触れた指を曲げ、布を引き寄せる。

 もう片方の手も届き、とうとう布の鳥の翼を両手で掴んだ。


 「あぃ!」


 布の鳥を掴んだまま、弾んだ声を上げる。


 「取れたね、リーネ様!」


 ニナも笑った。

 リーネは布の鳥を両手で持ち上げ、口へ持っていこうとする。


 「それは食べるものではない」


 取り上げようとすると、マルタが笑った。


 「そこは止められるのですね」


 「当然だろう」


 『主なりの線引きがあるのでしょう』


 「何だ、その言い方は……まぁ、しかし…」


 自分で取りに行く。

 そんなことまで、もうできるようになったらしい。

 つい十日ほど前には、匙の使い方すら知らなかったというのに。


 「本当に、じっとしていないな」


 『それは以前からでは?』


 「そういう意味ではない」


 昨日できなかったことを、今日はやる。

 今日できなかったことも、明日にはやるのかもしれない。

 人間の子供を育てるというのは、毎日同じことを繰り返すのではないらしい。


 私はそう考えながら、リーネの身体二つ分ほど離れた場所へ座り直した。

 衣服の裾が膝の前へ広がる。


 その時だった。


 「あぅ」


 声に振り向くと、リーネが腹這いのまま片手に布の鳥を持ち、もう片方の手を私へ伸ばしていた。


 「……ここにいる」


 「あぅ」


 「何だ?」


 当然、答えはない。

 だが、リーネは布の鳥を手放すと、両手を敷物につき直した。


 「…………」


 リーネは片腕ずつ前へ伸ばし、腹をつけたまま身体を引きずってくる。


 『主のところへ行きたいのでは?』


 ルヴェンが言った。


 「私のところへ?」


 『おそらくは』


 それなら私が行けば早い。

 立ち上がりかけて、やめた。


 先ほどと同じだ。

 私はその場へ座り直す。


 「ここまで来られるか」


 意味など分からないだろう。

 それでもリーネは、少しずつこちらへ進んでくる。


 途中で両腕を伸ばしたまま、頬を敷物へつける。

 危険はなく、泣いてもいない。

 私は手を出さずに待った。

 やがてリーネは頬を敷物から離し、私の方へ右腕を伸ばしてくる。


 「そうだ」


 何が「そうだ」なのか、自分でも分からない。

 ただ、声をかけずにはいられなかった。


 あと少しだ。

 私は膝の上へ両手を置いたまま待つ。

 リーネの指が、ようやく敷物へ広がった私の衣服の裾に触れ、布地を掴んだ。

 肘を曲げて裾を引くと、胸と腹が滑り、私の脛へ触れるところまで身体が寄ってきた。


 「来たな」


 「あぃ!」


 私はそこで初めて手を伸ばし、リーネを抱き上げようとした。

 ところが、リーネは私の服を離さない。


 「どうした」


 リーネは裾を両手で引きながら上体を起こした。

 腹の下へ両膝を入れ、私の脛へ寄りかかるように膝立ちになる。

 そこから片足を前へ出し、足の裏を敷物につけた。

 さらに服を引くと、腰が持ち上がり、身体がぐらつく。


 「む?」


 私は反射的に両脇を支えた。

 私が支えると、もう片方の膝も敷物から離れる。両足の裏が一瞬だけ敷物へ触れた。


 もちろん自分だけで立てているわけではない。

 ほとんど私が支えている。

 それでもリーネは私の服を掴んだまま、曲がった膝を伸ばしては、また緩めていた。


 「何をしている?」


 尋ねても、リーネは高い声を上げるだけだ。


 「リーネ様が立っていらっしゃいます!」


 セラが手にしていた皿を卓へ戻し、こちらへ駆け寄ろうとする。

 その袖をニナが掴んだ。


 「まだです。リュセル様が支えていらっしゃいます」


 そう言うニナも、姉の袖を掴んだまま一歩こちらへ出ていた。

 マルタが私たちのそばまで来た。


 「もしかすると、次は立ちたいのかもしれませんね」


 「立つ?」


 「はい。何かにつかまって、身体を起こそうとなさる時期が参ります」


 離乳食を始めたばかりだというのに、自分で移動し、今度は立とうとしているらしい。


 「……もう次なのか?」


 リーネは答える代わりに、私の服を掴んだまま、曲がった両脚をもう一度伸ばした。

 どうやら、人間の赤子は私が追いつくまでじっと待ってはくれないらしい。

読んでいただきありがとうございます。

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