第43話 人間の赤子は、食べることも覚える(前編)
ロアナで見つけた時、リーネは生後三か月ほどと見られていた。
あれから、およそ三か月が過ぎた。正確に生まれた日は分からないが、今は生後半年ほどということになる。
その間に、リーネは腕の中で抱かれているだけの子ではなくなった。
今朝も、食卓のそばに敷いた厚い敷物の上で、両脚を前へ投げ出し、小さな両手を床についている。
背はまだ頼りなく揺れていたが、傾くたびに自分の手で身体を支え直していた。
私も、倒れればすぐ受け止められるよう後ろに片膝をついている。
リーネが右手を床から離した。
途端に身体が傾き、私の手の中へ背中が収まる。
「まだ早い」
「あぅ」
抗議するように声を返したリーネを座らせ直すと、今度は両手をついたまま、しばらく自分で身体を支えていた。
一人で座っていられるのは、まだほんのわずかな間だけである。
それでも、私が首を支えなければ抱くこともできなかった頃とは違う。
朝食の支度が整う頃には、リーネの背が再び私の腕へ傾いていた。
私はその身体を抱き上げ、膝へ座らせて席につく。
大樹の家で皆が同じ食卓を囲むようになってから、朝は以前よりも少し騒がしくなった。
もっとも、騒がしいと感じているのは私だけかもしれない。
マルタが食事を運び、セラがそれを並べ、ニナが姉の置いた皿の位置を直す。
イレナはその日の予定を確認しながら席につき、ルヴェンは食卓の傍で尾を揺らしている。
精霊たちは食事を必要としないため、姿を見せたり消したりと自由なものだ。
そしてリーネは、私の膝の上にいる。
最初は、この人数で食事をする意味が分からなかった。
だがリーネは人の声がする方が機嫌がいい。
ならば続ける理由としては十分だった。
「…………」
ただ、今朝のリーネは少し様子が違う。
泣いてもおらず、機嫌が悪いわけでもないのに、膝の上で妙に忙しない。
マルタが匙を持ち上げると顔を向け、セラがパンをちぎれば、そちらへ身を乗り出す。
ニナが深皿のスープを匙ですくった時には、私の膝へ両手をついて身体を前へ傾けた。
「リーネ」
呼べば一度は顔を上げるものの、すぐに食卓の動きへ気を取られる。
『ずいぶん熱心にご覧になっておりますね』
ルヴェンが言う。
「何を見ている?」
『皆様のお食事ではないでしょうか』
「食事?」
言われてみれば、リーネが追っているのは人ではなく、その手から口へ運ばれていくものだった。
試しに自分の皿から一口分を手に取ろうとしたところで、
「リュセル様」
マルタに止められた。
「それを差し上げるおつもりですか?」
「欲しがっているように見える」
「見えますが、それはまだお早うございます」
そうなのか。
手を戻すと、リーネはその動きを追い、皿へ向かって身体を傾けた。
「では、何なら食べられる?」
マルタが答える前に、リーネの手が再び皿へ伸びかけた。
「ちょうど、そろそろかもしれません」
「何がだ」
「乳以外のお食事でございます」
腕の中のリーネは、まだ食卓へ手を伸ばそうとしている。
「もうか?」
「はい」
思わず聞き返したが、マルタは迷わず頷いた。
乳だけを口にしていた子が、いずれ食物を取るようになることくらいは知っている。
ハイエルフとて、生まれた時から成体と同じものを食べるわけではない。
問題はそこではない。
ロアナで見つけた頃は、首を支えることすら必要だった。
それが今では、わずかな間とはいえ自分で座り、もう乳以外のものへ興味を示している。
人間の赤子は、あまりに早く変わる。
以前にも同じことを思ったばかりだ。
「人間は、この頃から食べ始めるのか?」
「時期には個人差がございます。ですがリーネ様は、こうして皆の食事へ興味を持っておられますので。少しずつ慣れていただくにはよろしいかと」
「腹を満たさなくてもいいのか?」
「はい。最初からお腹を満たしていただくわけではございません」
そこが分からない。
「食事なのにか?」
「最初は食べるためのお稽古のようなものでございます」
「食べることに、稽古が必要なのか」
マルタが笑った。
「人間の赤子には、何もかも初めてでございますから」
そう言われてしまえば、その通りなのだろう。
私は生まれた時から現在までの自分を覚えているわけではない。
エルフの子供が成長していく姿を見たこともあるが、それを人間のリーネへそのまま当てはめることはできない。
ましてや、人間は変化が早い。
「何を食べさせる?」
「まずは柔らかく煮たものを、ほんの少しからでよろしいかと」
「それだけか?」
「それだけでございます」
随分と頼りない。
「栄養のあるものを用意した方がいいのではないか」
「まだ必要ございません」
「森の奥に、魔力を多く含んだ実がある」
「今は、普通の穀物で十分でございます」
「ならば――」
『主』
ルヴェンが割り込んだ。
『森で最も希少な食材を探し始める前に、マルタ殿へお任せした方がよろしいかと』
「希少であることに意味はない。リーネに良いかどうかだ」
『なおのことです』
ニナは笑いをこらえているが、セラは堂々と笑っている。
「何がおかしい」
「い、いえ」
セラは慌てて笑いを収めた。
正直に言うと、信用はまだそこまでできてはいない。
だがマルタが人間の子供の世話に慣れていることは、すでに分かっている。
「……分かった。任せる」
「かしこまりました」
「ただし、私も見るぞ」
「もちろんでございます」
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