第36話 この家に仕える条件①
「ここが、私たちの家だ」
私がそう告げた後も、ギルベルトは窓の外に広がる森を眺めていた。
高層部の最下層にあるこの部屋からでも、周囲の木々の梢を見下ろすことができる。
さらに上には同じほどの広さを持つ階層が二つあり、大樹の外側には根元からここまで長い螺旋階段が続いている。
ギルベルトは室内を一周すると、リーネの部屋へ目を向けた。
木の寝床に横たわったリーネは、布の鳥を胸に抱きながら、隣で丸められたルヴェンの尾先を握っている。
「家そのものは、これで完成なのでしょうか」
「必要な場所は作った。足りないものがあれば、後から増やせばよい」
「建物の補修も、殿下がお一人で?」
「木が生きている限り、自ら傷を塞ぐ。大きく形が崩れた時だけ、私が直せばよい」
ギルベルトは壁に手を触れた。
「しかし……先ほどの空を飛ぶ魔法と言い、このような魔法がこの世の中にあったのですな…」
『ギルベルト殿、このレベルで魔法を行使できるものは、エルフですら少数であると告げておきます』
「………」
ギルベルトは私を見て驚いた表情を少しだけ見せるも、すぐ普通の表情に戻す。
「……ふん。この程度、私にとっては児戯に等しい」
「児戯、でございますか…」
人間の建物とは違い、この家には継ぎ目も柱を打ち込んだ跡もない。
大樹の内部そのものが、壁や床としてつながっている。
しばらく木目を眺めていたギルベルトが、今度は私へ向き直った。
「しかし、この規模の家を、殿下とルヴェン様のお二人だけで維持していくのは難しいのではありませんか」
「私たちは三人だ」
「……失礼いたしました。ですが、リーネ様はまだ乳児でございます」
「……む」
それはそうだ。
そもそもだが、現時点のリーネが家の仕事をするとは考えていない。
木の状態は私が管理できる。
重い物も魔法で運べる。
ルヴェンがいれば、家の周囲へ近づく者にもすぐ気づくだろう。
だが、リーネの衣類や乳、人間が使う生活用品については、私には分からないことが多い。
私は部屋の入口に立っていたイレナを見た。
「あいつがいるだろう」
ギルベルトも私の視線を追い、イレナへ顔を向けた。
当のイレナは一度私を見た後、判断を求めるようにギルベルトへ顔を向けた。
「……私が、この家へ残るのですか」
「他に誰がいる」
「私は、北緑館での護衛と連絡を命じられておりました。こちらの家でも、引き続き同じ任務を行うということでしょうか」
「これまでと変わらない。リーネに必要な人間の物を用意し、人間について私が知らないことを教えればよい」
イレナはすぐには返事をしなかった。
リーネの部屋へ顔を向け、木の寝床の上からこちらへ伸びている小さな手を見る。
リーネはルヴェンの尾を握ったまま、こちらの声を聞いていた。
やがてギルベルトがイレナを見つつ、頷いた。
「それが最善でしょう」
イレナがギルベルトへ顔を向ける。
「閣下」
「リュセル殿下方とヴァルネの間には、今後も連絡役が必要になる。王国や教会から訪問の申し出があった際にも、殿下へ直接話を持ち込ませるわけにはいかない」
ギルベルトは窓の外を見下ろした。
「ここへ辺境伯家直属の者を一人置いておけば、物資の手配も、外部との調整も行いやすい。何より、殿下が人間の常識をご存じないまま何かを始められる前に、お前ならば確認できるだろう」
「最後の理由が最も大きいのではないか」
私が尋ねると、ギルベルトは少しだけ視線を逸らした。
「決して、そのようなことはございません」
随分と否定が早い。
だが、私が人間の子どもに適さない階段を作ったのは事実だ。
イレナがいなければ、リーネが歩き始めるまで問題に気づかなかった可能性もある。
ギルベルトはイレナへ向き直る。
「新たな任務を命じる。今後もリュセル殿下とリーネ様の護衛、連絡および生活支援を担当せよ。任務上必要な時を除き、ヴァルネへ戻る必要はない」
イレナは姿勢を正した。
「承知いたしました」
リーネが小さく声を上げると、イレナは木の寝床へ近づき、リーネが伸ばした手へ指を差し出した。
リーネがその指を握る。
イレナの表情が、ほんのわずかに和らいだ。
「不服ではないのか」
「命令でございますので」
イレナはそう答えた後、指を握るリーネへ目を向けた。
「それに、これまでと変わらないのでしたら、私に異存はございません」
「そうか」
ならば問題ない。
これでリーネの生活について分からないことがあっても、すぐに確認できる。
話は終わったと思ったが、イレナはリーネに握られていた指をそっと抜き、立ち上がった。
「ただし、私一人で、この家の生活すべてを維持することはできません」
「木の管理は必要ないぞ」
「家そのものではなく、人間の生活について申し上げております」
イレナは部屋の中を見回した。
「リーネ様の乳や、いずれ必要となる食事の準備、衣類と寝具の洗濯、使用済みの布の処理、家具や生活用品の補充。それに、ヴァルネから届く物資の受け取りも必要です」
どれも、家を作っただけでは用意されないものだった。
食事については、私やルヴェンなら森にある物で足りる。
だが、人間の乳児へ何を与えてよいかは、成長するたびに変わるらしい。
それにリーネの衣類も、身体が大きくなれば新しく作る必要がある。
「お前一人ではできないのか」
「護衛と連絡役を兼ねながら、食事、洗濯、衣類の管理まで一人で行うのは難しいかと存じます」
ギルベルトが頷いた。
「こちらで、身元と能力の確かな侍女を厳選して派遣いたしましょう」
「何人ほど来るのだ」
私が尋ねると、ギルベルトはリーネの部屋を出て、中央の広間を見渡した。
窓の外には大樹を巡る螺旋階段があり、頭上にはさらに二つの階層が続いている。
「この規模でしたら、最低でも八名ほどは必要かと」
「多すぎる」
人間が八人も常に家の中を歩き回るなら、静かな森へ移った意味が薄れる。
「ですが、調理、洗濯、清掃、物資管理を交代で行うのであれば、その程度は必要です。体調を崩す者や休みを取る者も出ますので」
「二人か三人でよい」
「それでは、日々の水汲みや物資の搬入まで手が回りません」
イレナは窓の外へ目を向け、目を細める。
「特に、この住居へ入るためには、根元から長い螺旋階段を上る必要がございます。乳や食料、洗濯物を抱えて一日に何度も往復するのは、大人でも大きな負担になります」
家を作る時は、森を見渡せる高さが適していると考えた。
敵や魔獣が近づいてもすぐに分かる。空気もよく、日差しを遮る物もない。
だが、人間は翼を持たず、風にも乗れない。
地上から物を運ぶたびに階段を使うのであれば、確かに面倒だろう。
「そのような仕事を、人間にさせる必要はない」
イレナが私を見る。
「別の方法があるのですか」
「ある。だから人間は二人か三人で足りる」
ギルベルトは、まだ納得していないようだった。
侍女を何人派遣するかは、後で決めればよい。
ただし、誰でもこの家へ入れてよいわけではない。
「何にしても、試験を通ればの話だが」
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