第33話 静かなだけでは、足りない
ギルベルトから敵軍の撤退状況を聞き終えた後、私はイレナへ地図を持ってくるよう頼んだ。
北緑館の居間に広げられた地図は、以前に住む場所を探していた時と同じものだった。
だが、国境に近い地域には新しい印が書き加えられ、前方防衛線があった場所にも別の線が引かれている。
私の膝の上では、リーネが布の鳥の翼を握りながら、地図へ手を伸ばしていた。
紙の端をつかもうとした小さな手をそっと戻し、代わりに私の指を握らせる。
「続きを始めよう」
私が言うと、ギルベルトは地図の北側を見た。
「戦況が変わったため、以前に挙げた候補地をそのままお勧めすることはできません。敵軍は撤退しましたが、戦争そのものが終わったわけではありませんので、国境や主要街道に近い場所は避けるべきでしょう」
「ヴァルネの周囲にも、静かな場所はあるのだろう」
「ございます。ただ、昨夜、殿下がお作りになった樹林も候補から外した方がよろしいでしょう」
ギルベルトは街道沿いの区画へ木片を置いた。
「広さは十分にあり、魔獣が住み着いている心配もございません。しかし、街道の両側にあり、すでに市民の関心も集めています。住まいには向きません」
私は、敵軍がいた場所へ残した木々を思い浮かべる。
樹林そのものに問題はない。
だが、あの場所はヴァルネへ続く街道の両側にあり、軍や商人も通る。
「人が集まると分かっている場所へ、リーネを移す理由がない」
「……候補から外します」
ギルベルトは木片を地図の外へ戻した。
イレナが北西の古い森へ別の木片を置く。
「でしたら、こちらはいかがでしょう。人の集落から離れた古い森です。主要街道も通っておらず、ヴァルネの警鐘も届きません。森の奥には一年を通して枯れない清流があると記録されています」
地図を見る限り、周囲に人間の町や村はない。
人の声も鐘も届かず、静けさだけなら条件を満たしている。
「候補にはなる」
私が答えると、椅子の背に伏せていたルヴェンが頭を上げた。
『主。その森から最も近い人間の集落まで、どの程度かかるのですか』
イレナが地図上の距離を確認する。
「徒歩であれば二日ほどです。馬車を利用しても、森の外縁まで一日以上は必要になるかと」
『離れすぎておりますね』
「人間が行き来できる距離ではないな」
ルヴェンはすぐには答えず、私の膝に座るリーネへ目を向けた。
イレナも同じようにリーネを見てから、静かに口を開く。
「はい。以前に殿下がお決めになった条件からも外れます。それに、リーネ様はいずれ歩き、言葉を覚え、ご自身と同じ人間にも関心を持たれるようになります」
私は地図に置かれた木片を見る。
以前にも、リーネを人間社会から切り離さないため、人間が行き来できる距離を条件に入れていた。
その時に考えていたのは、乳や薬を運び、何かあれば北緑館へ戻れる距離だった。
だが、必要なのは今の暮らしだけではない。
洗礼の場で、私はアルヴァリス王家の名において宣誓した。
リーネの命と、リーネ自身が選ぶ未来を守ると。
安全な森の奥だけで育てれば、危険から守ることはできる。
だが、人間と関わる道そのものを最初から閉ざしてしまえば、それはリーネが選べる未来を、私が先に減らすことになる。
リーネが何を選ぶかは、まだ分からない。
分からないからこそ、選べる道を残しておく必要があった。
人間と関わる道を残すことも、あの宣誓を守ることに含まれる。
「その日のうちに往復できる場所はあるか」
イレナは地図上の道と集落を確かめた。
「必要な際、その日のうちに往復できる距離がよろしいかと存じます。リーネ様が成長なさった後のことまで考えるのであれば、徒歩や馬車でも行き来できる道がある方がよろしいでしょう」
ギルベルトが地図を自分の方へ引き寄せ、ヴァルネから西へ伸びる細い道をたどった。
「こちらの森でしたら、ヴァルネから半日ほどです。主要街道からは外れているため、普段は人も通りません。森の手前までは古い作業道が残っておりますので、物資を運ぶこともできます」
「警鐘は」
「届かないでしょう」
「水はあるのか」
「森の中に泉があると聞いております。近くに開けた土地もありますが、実際に住めるかどうかは現地を見なければ判断できません」
なるほど…この場所はありだなと私は思いつつ、頷いた。
そして、それほどの立地ならば直接見て確認する必要があるだろう。
「今から行く」
私が立ち上がろうとすると、膝の上にいたリーネが服を握った。
「リーネは北緑館に残す」
候補地がどのような場所か分からない以上、人間の乳児を連れていくべきではない。
私はリーネの身体を支え、ルヴェンへ渡そうとした。
だが、リーネは服を握った手へ力を込め、私の胸へ身体を寄せる。
「すぐに戻る」
そう伝えても、リーネの手は私の服から離れなかった。
その小さな手を見ていると、ルヴェンが椅子から飛び降りた。
『主、そのままで結構です』
ルヴェンが身体へ沿わせていた長い尾をほどくと、私の膝まで届いた。
尾の下へ柔らかな風が集まる。
柔らかな毛に覆われた尾は、リーネの背中から腰へゆっくりと回り込み、その風ごと身体を支えた。
リーネは自分に巻きついたものへ気づき、私の服を握っていた片手を離す。
尾の毛へ指を埋め、何度か握り直した後、今度はもう片方の手も服から離して尾を抱えた。
ルヴェンが尾を自分の方へ引くと、リーネの身体も私の膝からゆっくりと離れていく。
急に持ち上げられたわけではないため、リーネは泣かなかった。
むしろ、自分を包んでいる尾へ頬を押しつけ、毛の感触を確かめるように顔を動かしている。
ルヴェンはリーネを長椅子の上へ運ぶと、尾を幾重にも巻き始めた。
外側から内側へ向かって渦を描くように丸まり、中心へ近づくほど低くなる。人間が煙を立てて使う、渦巻き型の虫除けを思わせる形だった。
その中央にできた柔らかな窪みへ、リーネの身体が収まる。
周囲を尾に囲まれたリーネは、布の鳥を胸へ抱き直すと、もう片方の手で尾の毛をつかんだ。
『この様子でしたら、主がお戻りになるまで問題ございません』
「動けるのか」
『この状態では尾を動かせませんので、しばらくはここにおります』
ルヴェンはそう答えたが、嫌そうではなかった。
リーネも、尾の中心へ身体を預けたまま、布の鳥を胸へ寄せている。
私が立ち上がっても泣かず、尾の毛から手を離そうともしない。
「任せる」
『承知いたしました』
《蒼穹渡り》なら、次に乳を飲ませる時刻までには戻れる。
リーネの機嫌が変わらないことをもう一度確かめてから、私はイレナと北緑館を出た。
◇
《蒼穹渡り》で西へ向かうと、ヴァルネの城壁はすぐに見えなくなった。
主要街道を外れた先には、なだらかな丘と森が広がっている。
地図に記されていた古い作業道は草に覆われていたが、馬車一台なら通れるだけの幅は残っていた。
上空から森を一周した後、泉があるという場所の近くへ降りる。
木々の間に人の姿はなく、耳を澄ませても聞こえるのは風に揺れる葉と鳥の声だけだった。
遠くで鳴る鐘もない。
私は周囲へ魔力を広げ、森にいる生き物の気配を探る。
小さな獣や鳥はいるが、人間の集落を襲うような魔獣の縄張りではない。
森の奥に幾つか強い気配があるものの、こちらへ近づこうとはしていなかった。
「危険なものはいない」
「殿下にとって危険ではない、という意味ではございませんか」
「リーネに近づかせるつもりはない」
「……でしたら問題ございません」
イレナはそれ以上尋ねず、作業道から泉へ続く地面を確かめながら歩き始めた。
森の中を進むと、木々の根元から水音が聞こえてくる。
やがて岩の間から湧き出した水が細い流れとなり、森の奥へ続いている場所へ出た。
私は水へ手を入れ、濁りや魔力の乱れがないことを確かめる。
「水は使える」
「泉のすぐそばへ家を置くのは避けた方がよろしいでしょう」
「なぜだ」
「雪解けや長雨で水量が増えた時、地面がぬかるむ可能性がございます。少し離れた高い場所を探しましょう」
イレナは水辺に残る古い流木と、周囲の地面に刻まれた水の跡を示した。
今は穏やかでも、季節によって水が広がることがあるらしい。
泉から離れ、緩やかな斜面を上る。
途中で木々が途切れ、空が大きく見える場所へ出た。
日当たりはよく、地面も平らで、家を置く広さは十分にある。
「こちらでしたら、地面を均す手間も少なく、建物を置く広さもございます」
私は中央まで歩き、地面へ手を触れた。
魔力を下へ通すと、土はさほど深くなく、その先ですぐに固い岩へ当たった。
雲の切れ間から差し込む光は十分だが、周囲に木陰もほとんどない。
「ここではない」
「日陰でしたら、建物で作ることもできますが」
「木々の近くを探す」
イレナは平らな土地を一度見回し、私の後へ続いた。
私たちは開けた場所を横切り、反対側の森へ戻った。
そこからさらに高い方へ進むと、泉を見下ろせる小さな高台があった。
中央には日が差し込む広さがあり、その周囲を大きな木々が囲んでいる。
北側には森が厚く残り、冷たい風を遮っていた。
泉からは十分に離れているが、水を運ぶのに困るほど遠くはない。
古い作業道からも、森の中を少し整えれば馬車を通せるだろう。
私は高台の中央へ立ち、周囲を見渡した。
地面へ魔力を通すと、先ほどの平地よりも深くまで土が続き、周囲の木々の根も中央までは入り込んでいない。
頭上には枝の重ならない空間があり、朝には東から光が入る。
イレナは高台の端まで歩き、地面の傾きと作業道までの距離を確かめていた。
「ここでしたら、基礎を築く場所を平らにするだけで済みそうです。資材も作業道から運べます」
私はその言葉を聞きながら、中央の土から頭上の空までをもう一度確かめる。
ここなら、リーネが眠る部屋へ朝の光を入れられる。
木々の下には、日差しを避けて過ごせる場所を作れる。
ルヴェンが翼を広げても困らないだけの庭も取れる。
人間が物資を運んできた場合も、作業道の近くに受け渡し場所を作れば、私たちが暮らす場所まで勝手に入らせずに済む。
そして、必要になれば、その日のうちにヴァルネへ行ける。
私が当初望んでいたのは、人間の町や村からもっと離れた森だった。
だが、リーネが人間と関わる未来まで考えるなら、この距離がよいのだろう。
静かであるだけでは足りない。
リーネが眠り、安全に遊び、必要な物を受け取れる。
成長した後には、自分の意思で人間のいる場所へ行ける。
今の暮らしと将来の道、その両方を残せる場所でなければならない。
「ここにする」
イレナは高台と周囲の森を見回した。
「承知いたしました。土地の所有と森の利用につきましては、ギルベルト様との調整が必要になります」
「必要な話はギルベルトと済ませる。だが、住む場所はここにする」
「では、ヴァルネで建築を任せられる職人を探します。必要な人数と資材を確認し、作業道も先に――」
「人間の職人を待つ必要はない」
私は、まだ何もない高台を見渡す。
リーネが泣かずに眠れ、私とルヴェンの気配が届く部屋を作る。
三人で暮らすための、仮住まいではない家だ。
作るべきものは、すでに決まっていた。
「では、リーネが暮らす家を作ろう」
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