第32話 一夜で生まれた森
敵軍が来た道へ戻っていく様子を、私は上空から見届けた。
武器を捨てた兵士たちは、街道の両側に生まれた巨木の間を歩いている。
足取りは乱れていたが、ヴァルネへ引き返そうとする者はいなかった。
敵軍の最後尾まで撤退を始めたことを確認してから、隣に浮かぶイレナへ尋ねる。
「これでもう、ヴァルネで警鐘を鳴らす必要はないのか」
イレナは街道の先へ目を向け、しばらく敵軍の動きを確かめていた。
「少なくとも、あの軍勢がこのままヴァルネを攻めることはございません。武器も攻城用の物資も置いたまま撤退しております」
「ならば、終わりだな」
「はい。ただ、敵軍の撤退状況と、あの樹林は地上から確認する必要がございます」
私は眼下に広がる木々を見た。
《万樹降界》によって生まれた巨木は、先ほどまで敵軍がいた場所に根を下ろし、夜風に枝葉を揺らしている。
敵軍を追う必要はない。
地上の確認も、人間たちが自分で行えばよいことだ。
「後は任せる。私はリーネのところへ戻る」
「承知いたしました」
《蒼穹渡り》の風を北緑館へ向けると、イレナも隣を離れずについてきた。
◇
北緑館へ戻ると、館内は静まり返っていた。
警鐘は鳴っておらず、廊下を走る者もいない。
リーネが眠る部屋の扉を開くと、寝台の横にいたルヴェンが顔を上げた。
「戻ったぞ」と声を抑えて告げる。
ルヴェンは前足で寝台を示した。
リーネは布の鳥を腕の中に抱え、規則正しい寝息を立てていた。
「私たちがいない間に、泣かなかったか」
『リーネ様は一度だけお目を開けられました。ですが、警鐘も鳴らず、主の魔力も荒れておりませんでしたので、すぐにまたお眠りになりました』
「そうか」
寝台のそばへ腰を下ろし、眠っているリーネの顔を確かめる。
目元に涙の跡はなく、握られた小さな手にも余計な力は入っていない。
敵軍を退かせたことよりも、リーネが泣かずに眠れたことの方が重要だった。
頬にかかった髪を指先で避けると、リーネの手がわずかに動いた。
起こしてしまったかと思ったが、リーネは目を閉じたまま私の指を握り、そのまま寝息を続ける。
私は指を抜かず、しばらく寝台のそばに座っていた。
◇
夜が明ける前、ヴァルネへ戻った斥候から報告を受けたギルベルトは、聞き間違いではないかと問い返した。
「森が現れただと?」
執務室の机を挟んで立つ斥候は、土と汗に汚れたまま頷いた。
「はい。敵軍がいた街道沿いに、突然、巨大な樹木が立ち並びました。敵兵は武器を捨て、現在も後退を続けています」
「敵軍の損害は」
「確認できた範囲では、死者はおりません」
「王国側の斥候は」
「全員戻っております。負傷者もおりません」
報告の内容は理解できた。
だが、それによって何が起きたのかを理解できたとは、ギルベルトには到底思えなかった。
軍勢を止めた。
誰も殺していない。
味方の斥候も巻き込んでいない。
そして、敵軍のいた場所に森が現れた。
口頭で聞くだけでは、あまりにも現実味がなかった。
ギルベルトは椅子から立ち上がる。
「現地へ向かう。案内しろ」
同行を申し出たイレナと数人の兵士を連れ、ギルベルトは夜明けとともにヴァルネの城門を出た。
街道を進み、昨夜まで敵軍の先鋒がいた丘を越える。
そこでギルベルトは手綱を引いた。
朝靄の向こうに、見覚えのない樹冠が連なっていた。
最初は、街道脇にあった森が夜の間に広がったのかと思った。
しかし近づくにつれ、元からあった森とは明らかに違うことが分かる。
街道の両側に並ぶ巨木は、どれも人間が何人も腕を広げなければ囲めないほど太い。
幹はまっすぐ空へ伸び、その上で重なった枝葉が、朝日に照らされている。
それだけの巨木が立ち並んでいるにもかかわらず、街道は塞がれていなかった。
根は石畳を押し割ることなく、その両側へ分かれて大地へ潜っている。
道幅も以前と変わらず、馬に乗ったまま進むことができた。
ギルベルトは馬を歩かせながら、左右の木々を見上げる。
「本当に、昨夜までなかったのだな」
「間違いございません」
答えた斥候は、やがて街道の前方を指さした。
「我々が退いたのは、あの辺りです」
そこには、敵軍の先鋒が陣を進めていた痕跡が残っていた。
踏み荒らされた草地には幾つもの巨木が立ち上がっているが、街道の中央には根一本出ていない。
斥候は馬を降り、自分たちが撤退した場所まで歩いていった。
「敵軍は、すぐ後ろまで迫っていました。我々はこの街道をヴァルネへ向かって走っていたのです」
斥候は巨木の根元へ視線を向ける。
「それでも、我々には一本の根も触れませんでした。背後の敵兵だけが、地面から伸びた根に捕らえられていきました」
ギルベルトは、斥候の足元と、そのすぐ隣に立つ巨木を見比べた。
敵と味方が離れた場所にいたのなら、まだ理解できる。
だが、追う者と追われる者が同じ街道を走っていた。その中から敵兵だけを選び、味方には触れなかったという。
さらに樹林の中へ進むと、敵兵が捨てた武器が現れ始めた。
剣や槍、弓、杖が、街道脇の地面にまとめて残されている。
中には根に巻かれ、土の中へ深く押さえ込まれたものもあった。
それでも、周囲に死体はない。
血の跡さえ見当たらず、武器を置いた敵兵が来た道へ戻っていった足跡だけが、樹林の奥へ続いている。
兵士の一人が、草地で身を寄せ合っている馬を見つけた。
近づくと馬たちは怯えて身を引いたが、脚にも腹にも傷はない。
鞍だけが残され、騎手の姿は消えていた。
ギルベルトは馬の様子を確認した後、イレナを振り返った。
「敵兵を殺すだけなら、これより容易だったのではないか」
「殿下にとっては、おそらく」
イレナは隠すことなく答えた。
「それでも、一人も殺さなかったのか」
「リュセル殿下は、命を取らないとルヴェン様たちへ約束なさいましたので」
「約束したから、か」
ギルベルトは再び樹林を見渡した。
敵軍全体を制圧した規模も異常だった。
だが、それ以上に異常なのは、これほどの力を使いながら、敵兵の命も、味方の斥候も、馬も、街道も、元からあった森も、近くの集落も傷つけていないことだった。
ただ力が大きいだけでは、この結果にはならない。
何を捕らえ、何を避け、どこに木を生やすのか。
そのすべてを、敵軍の端から端まで同時に選び続けなければならない。
ギルベルトは、自分の理解が追いついていなかったことを認めざるを得なかった。
リュセルは敵軍を倒したのではない。
約束を守ったまま、軍勢として戦えない状態に変え、来た道へ追い返したのだ。
同行していた兵士が、確かめるように巨木の幹へ手を触れた。
樹皮には朝露が浮かび、その上を小さな虫が歩いている。
頭上の枝では、どこから来たのか鳥が鳴き始めていた。
昨日まで存在しなかった森が、何十年も前からそこにあったように大地へ根を下ろしている。
「街道の安全を確認し、残された武器を回収しろ。ただし、木は傷つけるな」
ギルベルトが命じると、兵士たちはすぐに動き始めた。
「樹林の範囲も調べますか」
副官に問われ、ギルベルトは木々の奥へ目を向ける。
「外縁だけでいい。今は深入りさせるな。何があるか分からないからではない」
ギルベルトは、朝露に濡れた巨木を見上げた。
「これは、我々が勝手に扱ってよい森ではない」
◇
ギルベルトたちがヴァルネへ戻る頃には、城門の周囲へ人が集まり始めていた。
敵軍が撤退したという知らせは、夜明けとともに市内へ広がっている。
城壁の上や北側の高い建物からは、街道の先に連なる新しい樹冠が見えた。
住民たちは遠くに浮かぶ緑を指さしながら、昨夜のうちに森が生まれたらしいと囁き合っている。
ギルベルトは兵士へ、許可なく樹林へ近づかせないよう命じた。
今はまだ、あの場所が何なのかを、ヴァルネの人々へ説明する言葉はない。
それでも、樹林の向こう側から敵軍が来なかったことだけは、城門に集まった者たちも知っていた。
◇
昼前、北緑館を訪れたギルベルトとイレナから、現地確認の報告を受けた。
リーネはすでに目を覚まし、私の膝の上で布の鳥を握っている。
ギルベルトが、敵軍は完全に撤退したこと、残された武器を回収していること、死者が一人も確認されなかったことを順に説明した。
私は報告を聞き終えてから、必要なことだけを尋ねる。
「では、もう警鐘は鳴らないのだな」
ギルベルトは一度言葉を止めたが、すぐに頷いた。
「少なくとも、今回の敵軍によってヴァルネが脅かされることはございません。再び攻め寄せる戦力も残っていないでしょう」
「そうか」
膝の上のリーネを見る。
リーネは大人たちの話には関心を示さず、布の鳥の翼を握ったまま、もう片方の手を私の指へ伸ばしていた。
差し出された小さな手を握ると、リーネは満足したように笑う。
今回ヴァルネへ迫った敵軍への対応は終わった。
ならば、延期していたことを再開すればよい。
「それなら、静かな場所を探す話に戻ろう」
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