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【書籍化進行中】人間嫌いのハイエルフ、父になる  作者: 小狐


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第32話 一夜で生まれた森

 敵軍が来た道へ戻っていく様子を、私は上空から見届けた。


 武器を捨てた兵士たちは、街道の両側に生まれた巨木の間を歩いている。

 足取りは乱れていたが、ヴァルネへ引き返そうとする者はいなかった。


 敵軍の最後尾まで撤退を始めたことを確認してから、隣に浮かぶイレナへ尋ねる。


 「これでもう、ヴァルネで警鐘を鳴らす必要はないのか」


 イレナは街道の先へ目を向け、しばらく敵軍の動きを確かめていた。


 「少なくとも、あの軍勢がこのままヴァルネを攻めることはございません。武器も攻城用の物資も置いたまま撤退しております」


 「ならば、終わりだな」


 「はい。ただ、敵軍の撤退状況と、あの樹林は地上から確認する必要がございます」


 私は眼下に広がる木々を見た。


 《万樹降界》によって生まれた巨木は、先ほどまで敵軍がいた場所に根を下ろし、夜風に枝葉を揺らしている。


 敵軍を追う必要はない。


 地上の確認も、人間たちが自分で行えばよいことだ。


 「後は任せる。私はリーネのところへ戻る」


 「承知いたしました」


 《蒼穹渡り》の風を北緑館へ向けると、イレナも隣を離れずについてきた。





 北緑館へ戻ると、館内は静まり返っていた。


 警鐘は鳴っておらず、廊下を走る者もいない。

 リーネが眠る部屋の扉を開くと、寝台の横にいたルヴェンが顔を上げた。


 「戻ったぞ」と声を抑えて告げる。


 ルヴェンは前足で寝台を示した。

 リーネは布の鳥を腕の中に抱え、規則正しい寝息を立てていた。


 「私たちがいない間に、泣かなかったか」


 『リーネ様は一度だけお目を開けられました。ですが、警鐘も鳴らず、主の魔力も荒れておりませんでしたので、すぐにまたお眠りになりました』


 「そうか」


 寝台のそばへ腰を下ろし、眠っているリーネの顔を確かめる。

 目元に涙の跡はなく、握られた小さな手にも余計な力は入っていない。

 敵軍を退かせたことよりも、リーネが泣かずに眠れたことの方が重要だった。

 頬にかかった髪を指先で避けると、リーネの手がわずかに動いた。


 起こしてしまったかと思ったが、リーネは目を閉じたまま私の指を握り、そのまま寝息を続ける。


 私は指を抜かず、しばらく寝台のそばに座っていた。





 夜が明ける前、ヴァルネへ戻った斥候から報告を受けたギルベルトは、聞き間違いではないかと問い返した。


 「森が現れただと?」


 執務室の机を挟んで立つ斥候は、土と汗に汚れたまま頷いた。


 「はい。敵軍がいた街道沿いに、突然、巨大な樹木が立ち並びました。敵兵は武器を捨て、現在も後退を続けています」


 「敵軍の損害は」


 「確認できた範囲では、死者はおりません」


 「王国側の斥候は」


 「全員戻っております。負傷者もおりません」


 報告の内容は理解できた。

 だが、それによって何が起きたのかを理解できたとは、ギルベルトには到底思えなかった。


 軍勢を止めた。

 誰も殺していない。

 味方の斥候も巻き込んでいない。


 そして、敵軍のいた場所に森が現れた。


 口頭で聞くだけでは、あまりにも現実味がなかった。

 ギルベルトは椅子から立ち上がる。


 「現地へ向かう。案内しろ」


 同行を申し出たイレナと数人の兵士を連れ、ギルベルトは夜明けとともにヴァルネの城門を出た。


 街道を進み、昨夜まで敵軍の先鋒がいた丘を越える。

 そこでギルベルトは手綱を引いた。


 朝靄の向こうに、見覚えのない樹冠が連なっていた。

 最初は、街道脇にあった森が夜の間に広がったのかと思った。

 しかし近づくにつれ、元からあった森とは明らかに違うことが分かる。


 街道の両側に並ぶ巨木は、どれも人間が何人も腕を広げなければ囲めないほど太い。

 幹はまっすぐ空へ伸び、その上で重なった枝葉が、朝日に照らされている。


 それだけの巨木が立ち並んでいるにもかかわらず、街道は塞がれていなかった。


 根は石畳を押し割ることなく、その両側へ分かれて大地へ潜っている。

 道幅も以前と変わらず、馬に乗ったまま進むことができた。


 ギルベルトは馬を歩かせながら、左右の木々を見上げる。


 「本当に、昨夜までなかったのだな」


 「間違いございません」


 答えた斥候は、やがて街道の前方を指さした。


 「我々が退いたのは、あの辺りです」


 そこには、敵軍の先鋒が陣を進めていた痕跡が残っていた。

 踏み荒らされた草地には幾つもの巨木が立ち上がっているが、街道の中央には根一本出ていない。


 斥候は馬を降り、自分たちが撤退した場所まで歩いていった。


 「敵軍は、すぐ後ろまで迫っていました。我々はこの街道をヴァルネへ向かって走っていたのです」


 斥候は巨木の根元へ視線を向ける。


 「それでも、我々には一本の根も触れませんでした。背後の敵兵だけが、地面から伸びた根に捕らえられていきました」


 ギルベルトは、斥候の足元と、そのすぐ隣に立つ巨木を見比べた。

 敵と味方が離れた場所にいたのなら、まだ理解できる。

 だが、追う者と追われる者が同じ街道を走っていた。その中から敵兵だけを選び、味方には触れなかったという。


 さらに樹林の中へ進むと、敵兵が捨てた武器が現れ始めた。

 剣や槍、弓、杖が、街道脇の地面にまとめて残されている。

 中には根に巻かれ、土の中へ深く押さえ込まれたものもあった。


 それでも、周囲に死体はない。

 血の跡さえ見当たらず、武器を置いた敵兵が来た道へ戻っていった足跡だけが、樹林の奥へ続いている。


 兵士の一人が、草地で身を寄せ合っている馬を見つけた。

 近づくと馬たちは怯えて身を引いたが、脚にも腹にも傷はない。

 鞍だけが残され、騎手の姿は消えていた。


 ギルベルトは馬の様子を確認した後、イレナを振り返った。


 「敵兵を殺すだけなら、これより容易だったのではないか」


 「殿下にとっては、おそらく」


 イレナは隠すことなく答えた。


 「それでも、一人も殺さなかったのか」


 「リュセル殿下は、命を取らないとルヴェン様たちへ約束なさいましたので」


 「約束したから、か」


 ギルベルトは再び樹林を見渡した。

 敵軍全体を制圧した規模も異常だった。


 だが、それ以上に異常なのは、これほどの力を使いながら、敵兵の命も、味方の斥候も、馬も、街道も、元からあった森も、近くの集落も傷つけていないことだった。


 ただ力が大きいだけでは、この結果にはならない。


 何を捕らえ、何を避け、どこに木を生やすのか。

 そのすべてを、敵軍の端から端まで同時に選び続けなければならない。


 ギルベルトは、自分の理解が追いついていなかったことを認めざるを得なかった。

 リュセルは敵軍を倒したのではない。

 約束を守ったまま、軍勢として戦えない状態に変え、来た道へ追い返したのだ。


 同行していた兵士が、確かめるように巨木の幹へ手を触れた。

 樹皮には朝露が浮かび、その上を小さな虫が歩いている。

 頭上の枝では、どこから来たのか鳥が鳴き始めていた。


 昨日まで存在しなかった森が、何十年も前からそこにあったように大地へ根を下ろしている。


 「街道の安全を確認し、残された武器を回収しろ。ただし、木は傷つけるな」


 ギルベルトが命じると、兵士たちはすぐに動き始めた。


 「樹林の範囲も調べますか」


 副官に問われ、ギルベルトは木々の奥へ目を向ける。


 「外縁だけでいい。今は深入りさせるな。何があるか分からないからではない」


 ギルベルトは、朝露に濡れた巨木を見上げた。


 「これは、我々が勝手に扱ってよい森ではない」



 ◇



 ギルベルトたちがヴァルネへ戻る頃には、城門の周囲へ人が集まり始めていた。


 敵軍が撤退したという知らせは、夜明けとともに市内へ広がっている。

 城壁の上や北側の高い建物からは、街道の先に連なる新しい樹冠が見えた。

 住民たちは遠くに浮かぶ緑を指さしながら、昨夜のうちに森が生まれたらしいと囁き合っている。


 ギルベルトは兵士へ、許可なく樹林へ近づかせないよう命じた。

 今はまだ、あの場所が何なのかを、ヴァルネの人々へ説明する言葉はない。

 それでも、樹林の向こう側から敵軍が来なかったことだけは、城門に集まった者たちも知っていた。



 ◇



 昼前、北緑館を訪れたギルベルトとイレナから、現地確認の報告を受けた。


 リーネはすでに目を覚まし、私の膝の上で布の鳥を握っている。

 ギルベルトが、敵軍は完全に撤退したこと、残された武器を回収していること、死者が一人も確認されなかったことを順に説明した。


 私は報告を聞き終えてから、必要なことだけを尋ねる。


 「では、もう警鐘は鳴らないのだな」


 ギルベルトは一度言葉を止めたが、すぐに頷いた。


 「少なくとも、今回の敵軍によってヴァルネが脅かされることはございません。再び攻め寄せる戦力も残っていないでしょう」


 「そうか」


 膝の上のリーネを見る。

 リーネは大人たちの話には関心を示さず、布の鳥の翼を握ったまま、もう片方の手を私の指へ伸ばしていた。


 差し出された小さな手を握ると、リーネは満足したように笑う。

 今回ヴァルネへ迫った敵軍への対応は終わった。


 ならば、延期していたことを再開すればよい。


 「それなら、静かな場所を探す話に戻ろう」

読んでいただきありがとうございます。

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