第31話 リーネの涙と、静かな怒り④
先鋒の足元で土が弾け、根が勢いよく射出された。
敵軍先鋒の歩兵は噴き出した根に驚きつつも、剣を振り下ろした。
刃が根を断ち切ると、その断面から三本、四本と新たな根が伸び、剣を握る手首から両足、胴へ絡みついて、兵を立たせたまま拘束した。
「今、助ける!」
隣にいた敵兵も根へ斬りかかったが、二度、三度と刃を当てるたびに、切断面から枝分かれした根が増えていく。
増えた根は助けに入った敵兵の腕へ絡みつき、そこから周囲で剣を抜いた者たちの手足へ広がって、次々と動きを封じた。
誰も血を流してはいない。
それでも、しばらくすると先鋒から剣を振るう者はいなくなっていた。
◇
先鋒の抵抗が止まる頃、ヴァルネへ迫っていた敵軍の騎兵隊の足元からも、大量の木の根が一斉に噴き出した。
「何だ、この根は!」
敵軍の騎兵隊を率いる指揮官が足元を埋める根を見て叫ぶと、馬が次々といななき、騎手たちは手綱を引いた。
「止まるな! このまま踏み越えろ!」
指揮官が先頭で馬を走らせると、部下たちもその後へ続いた。
根は馬の蹄を避けて腹の下をくぐると、そのまま鞍へ向かって伸び上がり、騎手の胴と腕へ巻きついた。
先頭を走っていた指揮官も鞍から引き離されたが、別の根が落下する身体を背中から受け止める。
指揮官は地面へ落ちることなく、宙に持ち上げられたまま身動きを封じられた。
後続の敵騎兵も同じように騎手だけが鞍から奪われ、乗り手を失った馬は根の間を抜けて街道脇の草地へ逃げていく。
こうして敵軍の騎兵隊による突撃は、根の波を越える前に潰えた。
◇
騎兵隊の突撃が止まると、その後方では敵軍の魔術師隊を率いる指揮官が杖を掲げた。
「根を焼き払え! 一斉に放て!」
並んだ敵魔術師たちが杖先へ炎を集めると、幾つもの術式が赤く輝いた。
だが、火炎が形を成す直前、地面から伸びた根が杖を伝って術者の腕へ絡みつき、身体には傷一つつけず、組み上がった術式から魔力だけを吸い上げる。
赤い光は端からほどけ、炎は放たれないまま消えた。
敵軍の魔術師隊を率いる指揮官は杖を捨て、両手で新たな術式を描いた。
しかし、火の輪が閉じようとした瞬間に根がその中心を貫き、光を消し去ると、そのまま指揮官の両腕と胴へ巻きついて拘束した。
魔術師隊は一度も火炎を放てなかった。
敵軍先鋒で抵抗が潰される一方、敵軍本隊の指揮所でも地面が揺れていた。
天幕の柱が傾き、その揺れを受けて敵将が外へ出ると、敵軍本隊の陣中だけでなく、後方の荷列でも土を割って根が噴き上がっている。
「隊列を立て直せ! 後方部隊は迎撃に――」
命令を受けた敵軍の伝令が走り出した途端、地面を這った根が両足へ巻きつき、倒れる前に身体を支えて捕らえた。
別の敵兵が命令を伝えようと軍旗を掲げると、その腕にも根が絡み、角笛を構えた敵兵からは、吹き鳴らされる前に根が角笛を奪い取る。
伝令も信号も封じられ、敵将の命令は指揮所の外へ届かなかった。
先鋒からの報告を待つまでもなく、敵将が見渡す先では灯火が傾き、その間から根が立ち上がっていた。
敵将はそこでようやく、上空の一人を狙った自分たちが、軍勢すべてを一度に捕らえられる存在へ攻撃を命じたのだと悟った。
「全軍、退け!」
退却命令を発した直後、敵将の足元が割れ、噴き出した根が剣を抜こうとした腕から両脚、胴へと巻きついた。
副官と護衛も同じように捕らえられ、誰一人として退却命令を伝えられない。
敵将を拘束した根の周囲から幹が立ち上がり、伸びた枝葉がその視界を塞いでいく。
閉ざされる直前に彼が見たのは、夜明けに攻めるはずだったヴァルネではなく、先鋒から本隊までを呑み込みながら夜空へ伸びていく樹林だった。
◇
上空から見下ろすと、敵軍の先鋒、敵軍の騎兵隊、敵軍の魔術師隊、本隊の指揮所、後方の荷列まで、その端から端が根に拘束されていた。
もはや攻撃する者も命令を伝える者もおらず、ヴァルネへ向かえる部隊は残っていない。
《万樹降界》は、本来なら根に捕らえた生命から力を奪い、軍勢も土地も死の樹海へ変える戦略級の木樹魔法だ。
だが、今回は殺す必要がない。
ルヴェンたちと交わした約束どおり、敵兵の動きだけを封じている。
それでも《万樹降界》の成長は終わらず、敵兵を縛る根の間から幹が地面を割って立ち上がった。
人の背丈を越えた幹は瞬く間に巨木となり、空へ広げた枝葉で月明かりを隠していく。
幾重もの地鳴りとともに先鋒のいた場所へ巨木が生まれ、そこから本隊までの進軍経路に沿って次々と樹冠が開いた。
数呼吸前まで兵と天幕で埋まっていた場所は、何十年も育ったかのような樹木の群れへ変わり、その群れが敵軍の隊列と野営地をなぞるように連なっていく。
やがて、上空から眺めても一目では端を追えないほど巨大な樹林が、街道の両側に姿を現した。
街道は木々の間に残り、石も崩れていない。
元からある森と新しい樹林の境目も保たれ、近くの集落へ倒れ込む幹は一本もなかった。
生まれた樹林は幻影ではなく、根を下ろした巨木は大地へ定着し、魔法が終わった後も消えずに残る。
やがて地鳴りが止むと、眼下には先ほどまで存在しなかった樹林が広がっていた。
その奥から敵兵の叫びと呻きが聞こえるものの、ヴァルネへ進む軍勢の動きは完全に止まっていた。
イレナは声も出さず樹林を見渡していた。
騎手を失った馬はすでに木々の外へ逃れ、街道と元からある森にも崩れた場所はない。
樹林の中で身じろぎする敵兵はいても、倒れたまま息絶えた者はいなかった。
「……全員、生きているのですか」
「命は取らないと約束した」
イレナは私を見たまま返事をしなかったが、約束どおり敵軍だけを止めたのだから、それ以上に説明することもない。
私は再び《天響》へ声を乗せた。
「武器を置け。抵抗をやめ、来た道へ戻れ。二度とヴァルネへ近づくな」
樹林の中で金属が地面へ落ち始め、一つの音に別の音が続くうちに、剣や槍を捨てる響きが先鋒から本隊まで連なっていった。
攻撃を試みる魔力も消え、敵軍を包んでいた叫び声が弱まっていく。
抵抗をやめた者から拘束を緩めると、敵兵の身体へ巻きついていた根だけがほどけ、敵軍が来た方角へ退路を開いた。
成長した巨木は動かず、街道沿いに樹林として残り続ける。
解放された軍勢は武器を拾わず、ヴァルネへ向いていた流れを崩して、開かれた退路へ進み始めた。
「私が守る大切な子の安寧を、再び妨げることは許さない」
敵兵は足を止めることなく、樹林の外へ続く道を進んでいく。
「今回は、命までは取らない」
地表に残った根が一度だけ大きくうねり、武器の山をさらに深く押さえ込んだ。
「だが、次はない」
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