第30話 リーネの涙と、静かな怒り③
「はい。あれが敵軍です」
イレナは眼下の灯火を見据えたまま続ける。
《蒼穹渡り》の風に支えられた彼女の指が、街道の先頭から夜の奥へ動いた。
列の前方はヴァルネを望める丘を越え、最後尾はまだ森の陰に隠れている。
一つの軍勢でありながら、その端と端を同時に見渡すには空へ上がるしかない距離だった。
「先頭にいるのが先鋒、本隊は街道の後方です。ただし、敵軍の前方では王国側の斥候が離脱中です。防衛部隊もヴァルネ側に残っています。見えている者すべてが敵ではございません」
私は地上へ魔力を広げた。
ヴァルネへ向かう軍勢の流れが、先鋒から本隊まで一つにつながる。
そこから離れて城塞都市へ戻る者たちと、前方を守る部隊は別の動きをしていた。
区別はついた。
「殿下。味方を巻き込まず、周囲も壊さないでください」
「分かっている」
すぐに魔法を放つ必要はない。
警告をして退くなら、それでリーネの安寧は戻る。
「拡声術《天響》」
風が私の声を拾い、先鋒の頭上から街道の奥へ運んでいく。
灯火の列を越え、後方に続く本隊と野営地まで届かせた。
「聞け。私はリュセル・アルヴァリス」
先鋒で兜が上を向き、さらに後方でも兵が夜空を見上げる。
「お前たちは、私が守る大切な子の眠りを妨げ、泣かせた」
「私が守る大切な子」と敵軍へ言い切ると、イレナは目を見開いて私を振り向いた。
だが何も言わず、眼下の敵軍へ向き直る。
「武器を捨て、来た道を戻れ。そうすれば命は取らない」
◇
街道の後方では、物資を積んだ荷馬車が列をなし、本隊の野営地へ入り続けていた。
先鋒はすでにヴァルネの外縁を望める場所へ達している。
暗闇の向こうには城壁の影が横たわり、その上を警戒の明かりが動いていた。
敵将の前へ伝令が駆け込む。
「先鋒は予定地点へ到達。王国側の斥候は後退し、防衛部隊もヴァルネ側へ下がりました」
敵将は机上の地図から城壁の方角へ目を移す。
前方の防衛線は破った。追いすがる王国兵もなく、先鋒の後ろには本隊と攻城に必要な物資が揃いつつある。ここまで来れば、次に相手取るのはヴァルネそのものだ。
天幕の外では、兵が杭を抜き、荷をまとめていた。
攻城梯子に使う材木も運ばれ、夜明けを待たずに前へ出る準備が進んでいる。
長く続いた進軍の終わりを前に、疲れていた兵たちの声にも勢いが戻っていた。
「夜のうちに陣を進める。夜明けと同時に城壁を攻められるよう準備させろ」
「先鋒には城門へ通じる道を押さえさせます」
副官の返答に敵将は頷いた。
敵に立て直す時間を与えなければ、明日のうちに城壁へ取りつける。
王国側の援軍が来るより先にヴァルネを落とす。
その見込みを疑う報告は、今のところ一つもなかった。
将校たちが命令を受け、天幕の外へ散ろうとする。
その時、空から男の声が降り注いだ。
名乗りに続き、大切な子を泣かせたことへの非難と、武器を捨てて退けば命を取らないという警告が、野営地の隅々まで響き渡る。
荷を運んでいた兵が空を仰ぎ、馬がいななく。
進軍を始めようとしていた列も乱れた。
ざわめきは先鋒の方角から本隊の奥まで走った。
命令を待つ兵たちの間で、撤退という言葉が交わされる。
だが、どこから声を届けているのかさえ分からず、当然のことだが武器を捨てた者はいなかった。
敵将は天幕を出た。
夜空には二つの人影が浮かんでいる。
一人は見覚えのない男、もう一人は王国側の装いをした女だった。
「……あれは何だ」
敵将に問われ、副官が夜空へ目を凝らした。
「分かりません。男は魔術師と思われます。女は王国側の装いです」
「リュセル・アルヴァリスという名に心当たりはあるか」
副官は首を横に振る。
「ございません。兵たちも同様かと」
「ほかに空へ上がっている者は」
「確認できるのは、あの二人だけです」
正体の分からない二人の警告だけで、攻城戦を目前にした軍勢を退かせることはできない。
王国側の威嚇であれば、従った瞬間にここまでの進軍が無駄になる。
「ならば、ここで退く理由にはならん。弓兵、魔術師! あの二人を撃ち落とせ!」
伝令が命令を繰り返しながら走り、先鋒と本隊で弓が掲げられる。
魔術師たちの杖に火と光が集まり始めた。
敵将は退却を命じなかった。
空からの声へ返したのは、軍を挙げて放つ矢と魔法だった。
◇
本隊からも矢が空に浮かぶ二人に向けて放たれた。
敵将の命令が先鋒まで届き、弦を引く音が重なる。
杖の先で膨らんだ魔力も、私とイレナへ狙いを定めていた。
矢が一斉に放たれる。
その間を縫うように火球と光の槍が昇ってきた。
「これが、お前たちの返答か」
私たちの周囲へ風の障壁を広げる。
最初の矢が風に触れた途端、向きを変えた。
後続の矢も同じ流れへ巻き込まれ、空中で勢いを失う。
火球は障壁の外で崩れ、光の槍はイレナへ届く前に砕けた。
崩れた炎が夜空へ赤い粒を散らす。
その向こうから第二射が迫ったが、結果は変わらない。
矢は見えない壁を滑り落ち、魔法は光だけを残して消えた。
風に支えられたイレナの髪さえ乱れていない。
矢の雨が途切れても、地上では次の弦が引かれている。
魔術師たちも杖を下ろさない。
警告は届いていた。
そのうえで、敵軍は撤退ではなく攻撃を選んだ。
退く機会は与えた。
「戦略級木樹魔法《万樹降界》」
大地がうねり、そして地が裂けていった。




