第29話 リーネの涙と、静かな怒り②
イレナとシスターの声が重なった。
「殿下、お待ちください!」
イレナが私の前へ踏み出す。
「王国も辺境伯も、殿下の参戦を求めておりません。殿下がこの戦へ介入されれば、もはや人間同士の戦争では済みません」
「この子は殿下を求めています。どうか、そばを離れないでください」
ルヴェンだけが二人の横を抜け、私の足元まで来た。
『主。排除なさるのは、敵兵だけでございますな』
「敵が身を潜められる場所も消す」
ルヴェンの耳がわずかに動いた。
『場所、と申しますと』
「街道も、森も、丘もだ。残せば敵が隠れる」
イレナは私を見たまま動きを止めた。シスターも、泣いているリーネから私へ視線を移す。
『……敵軍だけではなく、その一帯をすべて消すおつもりですか』
「その方が確実だ」
「森も、丘も……?」
シスターが確かめるように繰り返した。
『我が主であれば可能です。敵がどこへ伏せていようと、隠れる場所ごと消してしまえば取り逃がすことはございません』
ルヴェンは私を見上げたまま続けた。
『だからこそ、今ここで止めているのです』
「お待ちください。その一帯には、王国側の斥候が残っている可能性があります。街道沿いには集落もあり、避難が間に合っていない住民もいるかもしれません」
「すべて消せば、敵を取り逃がすこともない。敵軍の脅威がなくなれば、リーネは静かに休める。先ほど、そう答えたはずだ」
「申し上げました。ですが、街道や森、味方の斥候や住民まで消してほしいとは申し上げておりません!」
「結果は同じだ。敵軍は来なくなり、鐘も鳴らない」
「同じではございません。ヴァルネを守るために残った者まで消してしまいます」
イレナは私の前を退かず、両腕を広げた。
力ずくで私を止められるはずもない。
それでも、道を空けるつもりはないらしい。
イレナの言葉に、シスターが重ねる。
「リーネ様のためとはいえ、ほかの子を泣かせることになります。住む場所を失う人も出ます」
『主。どうか、リーネ様のお顔をご覧ください』
「見ている」
何度も名を呼び、身体を揺らさないよう背を撫でている。
リーネは私の胸へ顔を押しつけたまま、息を継いではまた泣いた。
「殿下、今ここを出れば、この子は誰に抱かれても殿下を探します」
『お離れにならずとも、遠方へ術を放つおつもりなのでしょう。ですが、今の主に加減をお任せするわけにはまいりません』
「加減する必要がない」
『そのお答えをなさる主を止めているのです』
ルヴェンが頭を上げ、扉の方へ耳を向ける。
『……鐘が止んでおります』
イレナとシスターが同時に窓を見た。
毛布を重ねた窓板の向こうから、次の鐘は聞こえてこない。
床を伝っていた響きも消えている。
廊下を走る足音が近づいた。扉が開き、兵がその前で膝をついた。
「ご報告いたします。ヴァルク殿の陳情がグレイフェル辺境伯閣下へ届きました。最初の警報は全市へ伝達済みです。辺境伯閣下の命により、以後の打鐘は緊急的に停止されました」
伝令は息を整えながら続ける。
「以後の警戒と避難指示は、兵と伝令が引き継ぎます」
「承知しました。閣下へ感謝を」
イレナが伝令を下がらせ、すぐにリーネを見た。
シスターも私のそばへ寄り、リーネの泣き声が収まるのを待っている。
だが、リーネは泣きやまなかった。
鐘のない部屋で私の服を握り、涙を流し続けている。
「なぜ泣きやまない」
ルヴェンが私を見上げた。
『主。鐘だけが原因ではないのではございませんか。先ほどから、主の魔力が漏れ続けております』
「殿下の魔力は、私たちでも身体が震えるほどです」
イレナは握っていた拳を開いた。その指はまだ震えている。
「リーネ様は、その魔力を殿下の腕の中で受け続けています」
シスターはリーネの背へ触れようとしたが、私から漏れる魔力を感じ、伸ばした指を引いた。
「赤子は、自分を抱いている人の身体に力が入っていることも、気持ちが荒れていることも感じ取ります。殿下が落ち着かなければ、名前を呼ばれても安心できません」
誰も言葉を続けなかった。
リーネの頬は涙で濡れ、息を吸うたびに私の服を握り直している。
外へ漏れ出していた魔力は、リーネを抱く腕の内側にも満ちていた。
怖がらせるつもりなどなくても、リーネは誰より近くで私の魔力を受けていた。
私は漏れ出していた魔力を身体の内へ収めた。
リーネを支える腕の力も抜き、普段と同じように抱き直す。
「リーネ。ここにいる」
名前を呼んで背を撫でると、リーネは一度だけ大きく息を吸った。
次の泣き声までの間が伸び、服を握り直す回数も減っていく。
もう一度名を呼ぶ。
リーネは泣いたまま私の胸へ顔を預けた。
イレナの指はもう震えていない。
シスターはリーネの呼吸を見守り、ルヴェンは何も言わず私の足元に座った。
私が背を撫でるたび、泣き声の合間に呼吸だけが聞こえる時間が増えた。
「わかった」
イレナの肩から力が抜け、シスターも安堵の息を吐いた。
ルヴェンも張り詰めていた姿勢を解いた。
「ただ――」
三人の顔が一斉にこちらへ向いた。
「鐘が止まっても、敵軍は消えていない。このまま近づけば、また鐘と避難が始まる」
リーネの頭を支え直し、三人へ告げる。
「要するに、この周囲を更地にせず、敵だけを穏便に排除すればよいのだろう」
先ほどまで私を止める言葉を重ねていたイレナとシスターが、そろって言葉を失った。
「……本当に、この周囲を更地にするおつもりだったのですか」
シスターの問いへ答える前に、イレナが額を押さえる。
「殿下。敵軍だけを排除することを、人間は穏便とは申しません」
「周囲を壊さず、必要な相手だけを消すのだ。十分に穏便だろう」
イレナが何か言おうとして口を開き、言葉を出さないまま閉じる。
シスターはルヴェンへ顔を向けた。
『我が主であれば、敵だけを選んで消すことなど、造作もございません』
ルヴェンが平然と補うと、イレナは額から手を離し、シスターとともにルヴェンを見た。
『もっとも、主をこのまま送り出すわけにはまいりません。王国の兵と斥候、住民と集落を巻き込まぬこと。街道、森、丘を残し、敵以外へ術を広げぬこと。そして怒りのまま規模を拡大なさらぬこと。すべてお約束ください』
「分かった。敵だけにする」
『必ずですぞ』
頷いたが、すぐに居室を出ることはしなかった。
泣き声が途切れても、リーネの身体には時折力が入る。
そのたびに背を撫で、私の胸へ顔を預けるリーネを動かさずに待った。
廊下の向こうでは兵が行き交い、遠くから馬の蹄の音も聞こえてくる。
鐘は鳴らず、誰も居室へ入ってこなかった。
やがて呼吸が整い、リーネは泣き疲れたまま眠り始める。
私の服を握っていた指がゆっくり開き、その手は私の胸元に残った。
その指がもう一度服を探さないことを確かめてから、リーネを寝台へ寝かせる。
シスターが毛布を掛けても目を覚まさず、ルヴェンが寝台へ上がると、リーネの手はルヴェンの翼へ触れた。
『私はリーネ様のおそばに残ります。離れていても主の魔力が荒れれば分かりますし、ここにいれば《七葉の王護》の異変にもすぐ気づけます。シスター方は、引き続きリーネ様のお世話をお願いいたします』
「はい。お戻りになるまで、ここを離れません」
イレナは私と扉の間に立っていた。
『イレナ殿には、主のご案内をお願いいたします。敵軍と味方の位置を主へお伝えし、先ほどの条件をお忘れにならぬよう、必要な都度ご確認ください』
「私が殿下に、地形を消してはならないと申し上げ続けるのですか」
『ほかに適任がおりますかな』
「……私に務まるでしょうか。殿下をお止めできるとは思えません」
『お止めする必要はございません。先ほどのお約束を、必要な時に確かめていただければ結構です』
イレナはルヴェンを見たまま黙り、やがて私へ向き直った。
「……承知しました。ご案内いたします」
私とイレナだけが北緑館を出た。
館の前には二頭の馬が用意されていた。イレナが一頭の手綱を取る。
「こちらです。敵軍を確認できる高所までご案内します」
「徒歩も馬も遅い」
「え?」
足元へ風を集める。
「飛翔術《蒼穹渡り》」
風が私とイレナを包み、二人の身体を地面から持ち上げた。
「で、殿下!?」
イレナは足場を探すように靴を動かした。
彼女を支える風を保ったまま、暗い空へ運ぶ。
「殿下、せめて先に――」
「敵軍はどちらだ」
イレナは私を見たまま口を閉じた。やがて一度息を吐き、驚きを押し込めるように表情を引き締めた。
「……そうでした。殿下は、周囲の都合など待たずに進まれる方でしたね。北東です。城壁を越え、街道に沿って進めば見えます」
高度を上げ、イレナごと北東へ飛ぶ。
ヴァルネの屋根と城壁が眼下を流れていく。
「王国側の斥候は敵軍の前方から戻る途中です。防衛部隊はヴァルネ寄りに残っています。どちらも巻き込まないでください」
「承知している」
「敵軍は先鋒と本隊が離れています。先鋒だけを見て、周囲一帯へ術を広げないでください。本隊は後方です。地形も残してください」
「分かっている」
城壁を越えて北東へ進むと、街道に沿って連なる灯火が見えた。
私は速度を落とし、隊列を見渡せる上空で止まる。
眼下の街道には、夜を進む灯火が列を成していた。
その間には鎧と槍が並び、隊列のさらに後方にも新たな灯りが続いていた。
イレナが風に支えられたまま、眼下を見て告げる。
「見えているのは先鋒です。本隊は、さらに後方から続いています」
私は眼下を進む者たちを見た。
「あれが、リーネを泣かせた者たちか」
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