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【書籍化進行中】人間嫌いのハイエルフ、父になる  作者: 小狐


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第28話 リーネの涙と、静かな怒り

 伝令が扉の向こうへ消えると、イレナは北緑館もただちに防衛体制へ移すと告げた。


 「城壁へ向かう兵と荷馬車が増えます。避難する者も動き始めますので、日暮れから街は騒がしくなるでしょう」


 それだけ告げると、イレナは館内の各持ち場へ知らせに向かった。

 

 候補地探しはすでに延期した。

 今夜はリーネのそばを離れない。


 このような状況の中で、当のリーネは敷物に腹をつけ、布の鳥の翼を握っていた。

 鳥を持ち上げては敷物へ落とし、柔らかな腹を両手で押している。


 やがて鳥が敷物を越え、私の足元まで来た。


 「遠くに飛ばすものではないぞ、リーネ」


 鳥をリーネの手元へ戻す。

 リーネは声を上げて笑い、受け取った鳥をすぐ私へ押し返した。


 「なんだ? またこちらへ寄越すのか」


 もう一度、鳥をリーネの手の届く場所へ置く。


 「殿下、きっとリーネ様は、殿下と――」


 シスターが言い終える前に、リーネの両手が鳥を押した。


 「……ふむ」


 今度は拾い上げず、敷物の上を少し滑らせて返してみる。

 リーネは先ほどより大きな声で笑った。


 「これでよいのか」


 笑い声を上げたまま、リーネがまた鳥をこちらへ押す。


 「ならば、もう一度だ」


 同じように滑らせると、リーネは両手を伸ばして受け取った。

 鳥を胸元へ抱き込み、足を浮かせている。


 「そういう遊びか」


 日暮れの警鐘を待つ部屋で、リーネの笑い声だけが普段どおり続いた。



 ◇



 外から蹄と荷馬車の車輪が響き、避難する者を導く声も届き始めた。

 静かだった夕刻の街へいくつもの音が重なり、ヴァルネ全体が防衛のため一斉に動き出したのだと分かった。


 これまでは一台の荷馬車が過ぎれば、次が来るまで道は静まっていた。

 今は車輪が途切れず、城壁へ向かう馬の群れと、住民を安全な場所へ導く声が同じ時刻に行き交っている。

 窓を閉めた館の中にいても、街の日常が戦支度へ置き換わっていく音は隠せなかった。


 戻ってきたイレナが、私へ告げた。


 「ヴァルネは防衛体制に入りました」


 館の前を荷馬車が通ると、リーネは布の鳥を抱えたまま窓へ顔を向けた。

 私は名を呼んで抱き上げる。リーネは私の胸へ頬を寄せ、鳥の翼を指で触り始めた。

 外を気にしているだけで、まだ泣いてはいない。


 窓の向こうで次の車輪が響いても、リーネは私の服をつかまず、鳥を胸元で動かしている。

 外を気にしていた顔も、私が呼ぶとこちらへ戻った。


 ルヴェンが窓板を閉ざし、シスターがカーテンを引いた。

 外の声と車輪の音は遠のいたが、街が動く響きまでは消えない。


 シスターはリーネを抱き取ろうとせず、私がそのまま飲ませられるよう木匙を用意した。

 ルヴェンも窓枠のそばに留まり、外の音が入り込む隙間を翼で確かめている。


 「警鐘が鳴る前に、乳を飲ませて眠らせましょう」


 シスターから温めた乳の瓶と木匙を受け取る。

 片腕でリーネを抱き、木匙で乳を与えた。

 外から避難を促す声が届くと、リーネは口を動かすのをやめ、扉の方へ顔を向けた。


 「リーネ」


 私が呼ぶと、リーネは私を見て、再び木匙へ口を開いた。

 乳を飲み終える頃には布の鳥を抱いたまま私の胸へ身体を預け、やがてまぶたを閉じる。

 館の外が戦支度に追われていても、私の腕の中ではいつものように眠り始めた。


 シスターが空になった瓶と木匙を受け取り、足音を立てずに寝台から離れる。

 リーネの呼吸が私の胸元で揃い、布の鳥の翼が息に合わせて上下した。


 日が沈み、中央の大鐘が鳴った。


 鐘の響きが窓板と扉を震わせ、床を伝って腕の中まで届く。

 眠りに落ちたばかりのリーネの身体が跳ねた。


 リーネが目を覚まし、私の服をつかむ。

 まだ泣いてはいない。


 「ここにいる」


 抱いたまま名前を呼ぶと、リーネは胸元へ顔を寄せた。

 服をつかんでいた指が開きかける。


 大鐘が二度目、三度目と続いた。

 その響きが消える前に、各地区の鐘が別の方角から鳴り始める。

 一つの鐘を避けるように顔を動かしても、次の音が反対側から届いた。


 中央の大鐘より近く聞こえるものもあれば、城壁の向こうから返ってくるものもある。一つが鳴り終わる前に、部屋の別の方角から次の響きが押し寄せた。


 リーネが泣き始めた。

 名前を呼ぶと息を継いだが、泣きやまない。

 どちらを向いても鐘の響きから逃れられず、私の胸へ顔を押しつけた。


 耳を覆っても、壁と床から伝わる鐘までは遮れない。リーネは布の鳥を抱いた腕を胸元へ寄せ、さらに泣き声を上げた。


 そこへ館の近くを走る荷馬車の車輪、兵の呼び声、次の警鐘が重なった。

 リーネの手から布の鳥が落ちる。両腕で私へしがみつき、私が何度名を呼んでも泣き続けた。


 先ほどまで笑いながら追っていた鳥にも顔を向けず、私の服へしがみつくことだけを求めていた。


 ルヴェンは床へ降り、落ちた鳥をくちばしで挟み上げた。

 シスターはリーネを抱き取らず、背へ毛布を掛ける。


 イレナが居室へ戻ると、ルヴェンが私より先に声をかけた。


 『イレナ殿。館の前を通る兵と荷馬車を、別の道へ移してください。避難する方々への案内も庭門から離していただきたい』


 「可能です。すぐに移します」


 イレナは廊下へ向かいかけたが、リーネの背を撫で続けているリュセルを見て、そして一度足を止めた。

 そして怪訝な表情を見せた。

 

 『主が何も命じておられぬうちに、できることをすべて済ませてください。長くお側にいる者からのお願いです』


 イレナは目を見開いた。

 私がリーネにしか声をかけていないのを見て、口元を引き結んだ。ルヴェンが私に代わって指示を出した理由を、もう問い返さなかった。


 「承知しました。殿下がお言葉にされる前に、すべて移します」


 イレナは廊下へ出るなり、待機していた兵へ告げた。


 「理由は後です。館の前から兵と荷馬車を外し、避難誘導も庭門から離してください」


 ルヴェンは続けてシスターを呼ぶ。


 『シスター殿。窓板と扉の隙間を、畳んだ毛布で塞げますかな』


 「殿下は、まだ何も……」


 シスターは私の腕の中で泣くリーネを見た。


 『ええ。何も仰らないから、急ぐのです』


 シスターは棚から毛布を取り出し、廊下にいた仲間へも声をかけた。


 「窓と扉を塞ぎます。クッションも全部こちらへ。急いでください」


 私はリーネを胸元へ抱き、名前を呼びながら背を撫でた。泣き声が途切れるたびに顔をのぞき込むが、次の鐘が届くとまた服を握り込む。


 やがて車輪、蹄、兵の声が北緑館から遠ざかった。

 窓板と扉には毛布が重ねられ、近くに残ったのはリーネの泣き声と、壁を越えて届く警鐘だけになった。


 『主。布の鳥を』


 ルヴェンから受け取り、片腕でリーネを支えたまま、空いた手で鳥をリーネの胸元へ近づける。


 「リーネ。返すぞ」


 リーネは鳥へ手を伸ばさなかった。

 私の服から指を離さず、泣きながら胸へ顔を押しつけている。


 「殿下、別の部屋なら、外の音がもう少し――」


 「移さない」


 シスターは理由を尋ねず、寝台の周囲へクッションを並べた。


 「分かりました。では、ここをできるだけ静かにします」


 別の警鐘が鳴った。


 リーネはまた声を上げた。鳥を持つ私の手を避け、両腕で首元へしがみつく。


 「ここにいる。リーネ、ここにいる」


 抱き方を変え、胸と腕で身体を包む。

 泣き声は止まらない。閉ざした窓へ鐘が響くたび、リーネの足が毛布を蹴った。


 イレナが居室へ戻った。


 「館の前から兵と荷馬車を移し、避難誘導も別の道へ移しました。外周の交代要員も、鐘が終わるまで館へ近づけません」


 イレナは私の返事を待った。


 「大丈夫だ」


 返ったのがリーネへ向けた言葉だけだと分かると、イレナはルヴェンへ向き直った。


 「次にできることは」


 『次に鳴る鐘は分かりますかな』


 「地区ごとの応答です。順番までは分かりません」


 『館に近い鐘楼へ、音を抑えられないか確認を』


 「警報として届かなくなる変更はできません。それでも、館に近い鐘楼だけ打鐘の間隔を空けられないか、確認させます」


 『鐘が警報として必要なことは理解しております。ですが、鐘を鳴らし続けて我が主の機嫌を損ねることが、この街にいる者へどれほど大きな影響を与えるのか、もう一度領主へお伝えください』


 イレナは絶句し、頷いただけだった。

 そしてまた廊下へ出た。

 シスターも別の毛布を抱え、窓板へ重ねる。ルヴェンは扉と窓の間を往復し、音が入り込む場所を探した。


 「さっきまで、鳥を返すだけで笑っていたのに……」


 シスターがリーネの顔を見ながら言った。

 私は布の鳥をもう一度、リーネの胸元へ近づけた。


 「リーネ。もう一度だ」


 また鐘が鳴った。


 リーネの身体が腕の中で反り、泣き声が部屋へ響き渡った。

 私が名を呼んでも、背を撫でても、胸元へ顔を戻せない。

 口を開けたまま息を継ぎ、涙を流し続けた。


 ルヴェンの足が止まった。

 イレナも廊下から戻り、シスターは抱えていた毛布を寝台へ置いた。


 「申し訳ございません。鐘楼の者たちも、上から受けた命令をすぐには変えられません。こちらでできることは、すべて行いました」


 イレナの言葉を聞いた瞬間、私の身体から自然と魔力が漏れ出していた。


 『我が主……』


 「この鐘は、なぜ止まらない」


 イレナは一度口を閉じた。漏れ出した魔力にさらされ、身体と唇を震わせながらも、私の問いに答えた。


 「……鐘を鳴らす兵に責任はありません。敵軍が近づいている間は、市民へ危険を知らせなければなりません」


 「敵軍が来なくなれば、リーネは眠れるのか」


 「……その通りでございます。敵軍の脅威がなくなれば、警鐘も避難も終わります。リーネ様も静かに休めます」


 「そうか」


 ルヴェンが私の前へ回った。


 『主。その「そうか」が何を意味するか、私は存じております。すでに何をなさるかお決めになった時の言葉です。ですが、今はリーネ様のおそばにおられるべきです』


 「殿下、ど、どうかこの子から離れないでください。この子は殿下の服を離そうとしません」


 シスターが寝台の脇から訴える。

 イレナはルヴェンの言葉へ重ねるように告げた。


 「殿下! 王国も辺境伯も、殿下に戦いを求めておりません!」


 「リーネから離れるとは言っていない。ただ――」


 泣き続けるリーネを抱き直した。


 「リーネの安寧を妨げるものは、すべて排除する」


読んでいただきありがとうございます。

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