第25話 引っ越しは困ります
口を開きかけたまま固まっていたイレナが、ようやく我に返った。
眠りかけているリーネを見て、声を抑える。
「引っ越すというのは、北緑館の別の部屋へ移る、あるいは別棟を使うという意味でしょうか」
「違う。ヴァルネを出る」
北緑館の外へ人が集まり、リーネの居場所がヴァルネ中に知られるのなら、同じ都市の中で建物だけを変えても意味はない。
「……ヴァルネそのものを、ですか」
「そうだ」
イレナは一度唇を結んだが、すぐに次の確認へ移った。
「私だけでは扱えない事柄です。エレオノーラ殿下、セヴェリン大司教、ギルベルト閣下へ報告してもよろしいでしょうか」
「構わぬ。隠す理由はない。ただし、三人がそれぞれ供を連れて押しかけるのはやめろ」
「三名には、最少人数で来訪の許可を求めるよう伝えます」
イレナは一礼し、音を立てずに退室した。
扉が閉まると、ルヴェンが顔を上げる。
『今の話を聞いた人間たちは、朝の群衆以上に騒ぐかと存じます』
「静かに話せばよいだけだ」
『主は――』
リーネが胸元で身じろぎしたため、ルヴェンは続きを言わなかった。
今は、リーネを寝かせる方が先だ。
人間たちとの話し合いは、リーネが眠り、起きて乳を飲み、少し休んでからでよい。
私は居室の中をゆっくり歩き、外の音が届くたびに背を撫でた。
やがて服を握っていた指が緩み、寝息が一定になる。
人間側がどれほど急いでいても、この眠りを途中で妨げる理由にはならなかった。
◇
昼を過ぎた頃、イレナが再び居室を訪れた。
「エレオノーラ殿下、セヴェリン大司教、ギルベルト閣下が来訪の許可を求めております。三名は時間を合わせ、護衛と記録官を館外へ待機させています」
「応接室へ通せ」
授乳を終えたリーネは、まだ眠っていなかった。
私は布の鳥を持たせたまま片腕に抱き、応接室へ移った。
ルヴェンが隣の椅子へ乗り、イレナは扉のそばに立つ。
三人だけで入室した。
短く礼を取った後、ギルベルトが最初に口を開く。
「イレナより、ヴァルネを離れるおつもりだと聞きました。間違いございませんか」
「リーネが眠れない場所に住み続ける理由はない」
三人とも、すぐには返事をしなかった。
「殿下を無理にお留めする権利が私どもにないことは承知しております。そのうえで、環境を改善する余地だけはご検討いただけないでしょうか」
「リーネを起こさないのなら、聞こう」
ギルベルトがヴァルネの地図を机の上に広げた。
北緑館を示す印の周囲に、色紐で大きな輪を作る。
「立ち入り制限をこの通りまで広げ、祈願者を受け入れる場所は北緑館から離れた場所に設けます。王国と教会への取次は領主館で引き受け、館前の街路も必要に応じて迂回させます」
示された地図をみて、私は少しだけ顔を曇らせた。
「……警備線を広げるため、兵は何人増えるのか」
「……現在より大幅に増えます。交代要員、巡回兵、取次を担う者も必要です」
ギルベルトの答えに、私の顔はさらに曇っていく。
「人が多いから引っ越すと言ったのに、さらに人間を増やすのか」
「……いえ、殿下。その者たちは、リーネ様へ近づく者ではなく、近づけないための人員です」
「リーネから見れば、館の周囲に人間が増えることに変わりはない」
ギルベルトがそれ以上反論しなかったため、エレオノーラは警備を増やすのではなく、最初から人の少ない場所へ移す案を出した。
「王家、または辺境伯家が管理する別邸はいかがでしょう。庭は広く、市民が自由に近づける場所でもありません。乳や薬、衣服、食料も確実にお届けできます」
「そこには何人が常駐する」
「警護と使用人、料理人、庭師、医師、連絡役は必要です。人数は減らせますが、殿下のお立場を考えれば、すべてを外すことは――」
「私を王族として対応する必要はない。リーネが静かに暮らせればよいのだ」
私の腕の中から、小さな手が地図へ伸びた。
地図の端に置かれた書類は、赤い色紐で束ねられ、その結び目には封蝋がついていた。リーネはそれが気になるらしい。
リーネがその色紐をつかみ、口元へ運ぶ前に、私は書類を机の奥へ移した。
リーネを抱き直し、代わりに布の鳥の黄色い翼を握らせる。
『王族としての待遇をすべて外せば、その別邸は本当に静かになるのでございますか』
ルヴェンに問われ、エレオノーラは地図の印を見た。
「警備や物資の運び入れから、皆様の居場所を推測する者が出ないとは申し上げられません」
「ならば、いずれ北緑館と同じになる」
別邸でも居場所を隠し切れないと分かり、セヴェリンが教会側の案を示した。
「教会が管理する静養施設か、修道院の離れであれば、さらに人員を減らせます。一般信徒の立ち入りを禁じ、鐘を鳴らす場所と礼拝の場は別の建物へ移します。乳や布、薬を扱うシスターだけを残すことも可能です」
「……リーネが暮らしていると知られても、信徒が周囲に集まらないと保証できるか」
セヴェリンはすぐには答えなかった。
「……教会がリーネ様を神格化することはございません。場所も可能な限り伏せます」
教会の意思は示せても、信徒一人ひとりの行動まで約束することはできないらしい。
それでも、セヴェリンは言葉を濁さなかった。
「しかし、光の巨樹を見た者たちから広がった『七葉の御子』の噂を、完全に止めることはできません。居場所が知られれば、祈りに来る者が現れる可能性はあります」
「場所を変えて同じことが起きるのなら、意味はない」
セヴェリンは何も言えず、頭を下げた。
三つの案が地図の上に残った。
だが、三人はそこで諦めなかった。
ギルベルトは、建物から兵の姿が見えないよう、林の向こう側へ配置する案を出す。
エレオノーラは、使用人を最少人数に絞り、居住地の名を王国の記録に残さず、取次窓口を居住地とは反対側の市街地へ設ける案を出した。
セヴェリンは、人が居住地まで直接届けず、決めた場所に物資を置く方法を加える。教会の担当者も交代させず、一人に固定する。
ギルベルトが言った。
「街道を封鎖すれば、かえって目立ちます」
エレオノーラが続けた。
「では、こちらの脇道を使わせましょう。荷馬車の印も外します」
セヴェリンが付け加えた。
「物資の置き場所までは、教会の者にも知らせない方がよい。受け取る者だけを決めます」
一国の王女と教会の大司教、国境を預かる辺境伯が一枚の地図を囲み、人間の乳児一人の昼寝を守るため、兵と使用人と荷馬車の配置を真剣に組み替えていく。
彼らがリーネのために本気なのは分かった。誰も声を張らず、互いの立場を争うこともない。
リーネのまぶたが重くなると三人とも言葉を止め、リーネが再び布の鳥を動かし始めるのを待ってから相談を再開した。
しかし、相談が進むほど、必要な人員と役割は増えていった。
「そこまで人間を動かさなければ静かにできないのなら、最初から人の少ない場所へ移る方が早い」
三人とも、否定しなかった。
エレオノーラは、今度は引っ越しそのものを支援すると申し出た。
「引っ越しのお考えは理解いたしました。せめて安全な移住先を用意できるよう、王国にも支援させてください。どちらへ移られるおつもりでしょうか」
「まだ決めていない」
四人とも、返す言葉がなかった。
「……住む場所を決めずに、ヴァルネを出られるのですか」
ギルベルトが聞き返した。
「静かな場所を探すために出るのだ。先に決まっていないのは当然だろう」
「では、どれほどの期間を旅するおつもりですか」
セヴェリンが尋ねると、ルヴェンは耳を後ろへ倒した。
私が旅の終わりも決めていないと知っているからだ。
リーネは大人たちの様子など気にせず、私の胸元で布の鳥をゆっくり動かしている。
「旅をしていれば、いずれ静かな場所が見つかるだろう」
三人だけでなく、扉際のイレナまで何も言わなかった。
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