第24話 七葉の御子、眠れない
私は布の鳥を振っているリーネを胸元へ寄せ、抱き直した。
つい先ほどまで銀緑色の葉を追っていた目が、今は眠そうに細くなっている。
布の鳥を振る手にも力はなく、胸の上でかすかに揺れているだけだ。
予定より時間がかかった。
早く北緑館へ戻した方がよい。
大教会では、エレオノーラとセヴェリンが二人の記録官へ指示を続けていた。
倒れた椅子はようやく起こされたが、黒インクに汚れた記録簿と机はそのままである。
ギルベルトも窓の外と祭壇を確かめながら、護衛へ何度も指示を出していた。
ルヴェンが、その人間たちを振り返る。
『人間側にとっては、洗礼が終わっても騒ぎはこれからでございましょうな』
「洗礼は終わった。あとは王国と教会が自分たちで処理すればよい」
私はリーネを起こさないよう歩き、大教会を出た。
正面階段の先には、すでに市民が集まり始めていた。
護衛と教会の者が通路を空け、その外側で花を抱えた女や、子どもを連れた男がこちらへ頭を下げる。
「七葉の御子だ」
囁きが人の間を移っていく。
近づこうとする者はいない。
エレオノーラは近衛へ、セヴェリンは神殿騎士へ、不用意に市民を通さないよう命じていた。
人々も遠くから頭を下げるだけで、道を塞がなかった。
ならば問題はない。
私は待っていた馬車へ乗り、リーネを抱いたまま北緑館へ戻った。
館の周囲は静かで、聞こえるのは庭木を揺らす風と馬車が去る音だけだった。
これなら翌朝から、元の生活へ戻れるだろう。
◇
翌朝、私はリーネが何度も身じろぎする気配で目を覚ました。
低い寝台の上で眉を寄せ、布の鳥を握ったまま私の方へ身体を向けている。
抱き上げると、すぐに私の胸元へ顔を押しつけてきた。
泣いてはいないが、いつものように落ち着いてもいない。
まず空腹を疑った。
乳を飲む時刻にはまだ少し早く、口元にも乳を探す動きはない。
額と首に触れて体温を確かめる。熱はない。
襟が首に当たっていないか、袖や腹を覆う布が寄れていないかを見る。
どこにも強く当たっている箇所はなかった。
最後に敷布と毛布を調べたが、皺も湿り気もなく、暑すぎる様子もない。
身体と寝具に異常はない。
そこで、窓の外から何人もの祈る声が途切れず聞こえていることに気づいた。
『主。外に人間が集まっております』
窓辺にいたルヴェンが、幕の隙間から外を見ている。
私もリーネを抱いたまま窓へ近づき、隙間から庭の向こうを確かめた。
外周の柵と警備線の先に、数十人の人間が集まっていた。
すでに膝をついて祈る者もいる。
花や手紙を両手に持つ者がいた。
家族の無事を願う声もあれば、ただ頭を下げている者もいた。
武器を持つ者はいない。
柵を越えようとする者もおらず、イレナと警備兵、教会の者たちが通行路を空けさせている。
叫び声はない。
それでも数十人が祈る声と、後から来た者を止める声が重なれば、館の中までざわめきは届く。
リーネが私の服へ額を擦りつけた。
「害意もなく、侵入する様子もない。なぜ集まっている?」
『昨日、ヴァルネのどこからでも見える巨樹を出し、人間の乳児へ王家最上位の大祝福を授けたからにございましょう』
「十分に加減したぞ」
『今は加減の話をしておりません』
扉が二度叩かれた。
「入れ」
イレナが入室し、扉を静かに閉めた。
朝早くから外周の警備に出ていたらしく、外套の裾に朝露がついている。
「夜明け前から人が集まり始め、今も増えております。侵入や暴力はありません。エレオノーラ殿下とセヴェリン大司教は、許可のない者を北緑館へ近づけないよう、それぞれ警備を増やしています」
「本人たちが集めたわけではないのだな」
「はい。お二人とも、むしろ接近を禁じております」
イレナは続けて、王国側と教会側の双方から取次依頼が届いていると報告した。
王都や貴族、軍の関係者からの面会願い。
各地の教会と信徒からは、洗礼記録の確認や、祈りを捧げる機会を求める申し入れが来ているらしい。
「リーネに会わせる理由がない。すべて断れ」
「……承知しました」
「外の者たちも帰らせろ」
イレナはすぐには動かなかった。
「命令があれば移動させます。ただ、多くは遠くから祈っているだけです。警備兵が強く押し返せば、転倒や怪我が起こる可能性があります。また、今日の者を帰しても、噂を聞いた別の者が明日以降に来るかと」
害意のない者を傷つける必要はない。
「ならば、せめて声を抑えさせろ。リーネが休めない」
「ただちに」
イレナは退室し、外周へ戻った。
しばらくすると、窓の外の祈り声が少しずつ小さくなった。
私の腕の中で、リーネは布の鳥へ顔を向けた。ルヴェンは寝台へ上がり、翼の先で布の鳥の黄色い翼をゆっくり揺らす。リーネのまぶたが閉じかけた。
それでも外の声は消えない。
人間に声の大きさを調整させるより、私が直接伝えた方が早い。
私はリーネを抱いたまま窓へ向かった。
『主。今お姿を見せれば、逆効果になる可能性が高いかと』
「静かにしろと伝えるだけだ」
窓を開けると、朝の冷たい空気と祈り声が一緒に入り込んだ。
最前列にいた女が最初にこちらへ気づいた。
女が息を呑み、隣の男が顔を上げる。
その動きが次々に後ろへ伝わり、警備線の外にいる者たちが一斉に窓を仰いだ。
「リーネが眠れない。静かにしろ」
この瞬間、すべての声が消えた。
花を抱えた者が膝をつく。
手紙を持つ者も続き、立っていた数十人が次々と石畳へ膝をついた。
「七葉の御子……!」
最前列から上がった声を、後ろの者が繰り返す。
その呼び名を後ろの者たちも叫び、警備兵の列を越えて、さらに後ろの通りまで広がった。
祈りと感激の声が一つに重なり、先ほどまでより大きな響きとなって北緑館を包む。
リーネはその声に驚いたのか、もう片方の手で私の服をつかむ。
胸元へ顔を埋め、息を詰めたあと激しく泣いた。
私は即座に窓を閉め、厚い幕も引いた。
ルヴェンはリーネの反対側へ回り、窓との間を塞ぐように片方の翼を広げる。
「うぅ……ううううぅ……あぅ……」
もう片方の翼で布の鳥を揺らすと、リーネの泣き声は次第に弱まったものの、私の服を強く握ったままだった。
「静かにしろと言っただけだ。なぜあやつらの声が大きくなる?」
『主とリーネ様がお姿を見せたこと自体、人間たちには新たな神託のように映ったのでございましょう』
「神託などしていない」
『存じております。だから止めたのでございます』
窓の外から、イレナの指示が聞こえた。
祈ること自体は止めない。
ただし声を上げず、通行路を空け、花や手紙を勝手に敷地へ入れないこと。
警備兵たちは言葉を繰り返しながら、人々を北緑館から離れた場所へ下げていく。
やがて祈り声は遠のき、居室には庭木を揺らす風の音だけが残った。
リーネの泣き声も止まっていたが、私の服をつかんだ指は離れない。
再び扉が叩かれ、イレナが戻ってきた。
「騒ぎを大きくしてしまい、申し訳ございません」
「謝罪は不要だ。私が窓を開けた」
イレナは一度だけ頷き、報告を続けた。
「群衆は北緑館から離れた位置まで下げました。エレオノーラ殿下、セヴェリン大司教、ギルベルト閣下は、さらに広い立入制限と取次窓口の設置を協議しています」
「今日それを行えば、明日からは来なくなるのか」
「収まる時期は断言できません。噂がヴァルネの外へ広がれば、訪問者と取次依頼はさらに増える可能性があります」
私はリーネを見た。
北緑館は、安全で静かであり、乳や薬もすぐに得られる場所だった。
今は、そのうち一つが失われている。
「外の者たちに害意がない限り、傷つける必要はない。ただし、リーネへ近づけないよう警備は続けろ」
「承知しました」
『主。これから、いかがなさいますか』
「……ここが以前のような静けさを取り戻す見込みは低い」
『北緑館の別棟へ移るだけでは、同じことが起こりましょう。リーネ様がここにおられることが、ヴァルネ中へ知れ渡るのも時間の問題ですから』
問題は北緑館という建物ではない。
人間の多い都市にいる限り、今日のような者がまた集まる。
リーネが眠るたびに、全員を静かにさせ続けるのも現実的ではない。
イレナが何か察したのか、こちらを窺う素振りを見せる。
「……念のため、何をお考えかお聞きしてもよろしいでしょうか」
外の声が遠のいたことで、リーネはようやく目を閉じかけていた。
私は腕を揺らさないようにし、リーネを起こさないよう声を抑える。
「ここはリーネを育てるには騒がしすぎる。引っ越すことにした」
その言葉に、イレナは口を開きかけたまま、しばらく動かなかった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




