第23話 七葉の御子
樹を模した光は祭壇の前で止まらず、銀緑色の根を記録台の下へ潜り込ませた。
光は床を走って四本の石柱へ達し、石の表面を一気に駆け上がる。
光は石の表面を覆っていくが、何かが割れる音も焼ける匂いなど一切ない。
セヴェリンが祭壇から無意識に後ろへ下がった。
同じくエレオノーラも椅子を後ろへ蹴り、勢いよく立ち上がる。
王国記録官が筆を取り落とし、開いた記録簿の上で黒いしみがみるみる広がっていく。
教会記録官は机から離れようとして膝をぶつけ、木の天板が大きく鳴った。
少し距離を取っていたシスターは胸元の聖印を握り、そのまま石床へ膝をついた。
そのすぐ近くでギルベルトは、何が起きているのか見極めるために勢いよく振り返り、その影響で椅子を床へ倒す。
イレナもこの異常事態にこちらへ一歩出たが、リーネが光の中で布の鳥を振っているのを見て足を止めた。
『やはり、こうなりましたか』
ルヴェンだけは、上へ伸びる光を見てもいつもの調子である。
私は風にあおられたリーネの上掛けを直す。
「リュセル殿下……これは、何なのですか」
エレオノーラの声が震えている。
「洗礼だ」
「こ、これが……洗礼……?」
セヴェリンは光の根を踏まないよう足を引き、また祭壇の方へ身体をずらした。
「人間側の作法は終わった。だから、こちら側を行っている」
倒れた椅子をそのままにしたギルベルトが、天井まで伸びた光の根、そして枝を仰ぐ。
「先ほど……少し派手になさると……」
「うむ。確かにそう言った」
光の枝は天井一面へ絡み合い、壁の聖灯と窓を銀緑色で縁取った。
「これが、少し……?」
私は周囲の石柱と天井を確かめた。
建物自体にはなんら損傷など影響はない。
椅子以外に倒れたものはなく、誰も怪我をしていない。
リーネも泣いていないのだから、十分に加減できている。
「教会は壊していない」
私の言葉にエレオノーラは口を開いたまま、何も返さなかった。
セヴェリンの手は祭壇へ伸びかけた位置で止まり、二人の記録官も黒インクを拭うことさえ忘れている。
まもなく、四本の石柱を駆け上がった光が天井の中央へ集まった。
銀緑色の幹が形を取り、大教会の天井を音もなく通り抜ける。
「外へ……出ています!」
「ここは狭いからな。中だけでは枝を伸ばせないだろう」
「……枝を、どこまで伸ばされるおつもりですか」
「必要なところまでだ」
すべての窓が銀緑色に染まった。
ギルベルトが窓際へ急ぎ、両手を窓枠について外を見る。
光の幹は城壁より高く伸び、幾十もの大枝が家並みの上へ広がり始めていた。
『主。これはヴァルネのどこからでも見えるかと存じます』
「その方が洗礼を行ったと分かりやすい」
「分かりやすいという問題ではありません!」
エレオノーラの声が石の天井へ響いた。
リーネはその声より、窓の向こうへ伸びる光を見ている。
枝へ送った私の魔力が、大教会を取り囲む人間たちの動きを伝えてくる。
正面扉の外では、神殿騎士が襲撃魔法を疑って剣を抜いた。
王室近衛も武器へ手をかけたが、どこにも敵はいない。
屋根と裏路地の暗部も、大教会から光が出ていることしか分からず、手を出す相手を定められなかった。
大通りでは馬が足を止め、荷車引きの手から手綱が滑り落ちる。
城壁の兵は警報の紐へ手を伸ばしたまま、光の巨樹を見上げている。
市民の悲鳴に、神の奇跡だと叫んで跪く信徒の声が重なった。
大人の腕へしがみついた子どもは、怖がるより先に空を指さす。
正面階段の警備責任者が、「中へ入るのか、待つのか!」と叫ぶ。
イレナはすぐに祭壇の部屋を出て、扉の外にいた警備兵へ伝えた。
「エレオノーラ殿下とセヴェリン大司教はご無事ですっ! 攻撃ではありません。リーネ様の洗礼による現象です!!」
警備兵は正面階段の下にいる仲間へ報告を叫び返した。
伝令がすぐに大通りと城壁へ走る。
「赤ん坊一人の洗礼で、あれが出たのか……?」
兵の一人がこぼすと、抜かれていた剣が一本ずつ鞘へ収められていく。
光の枝から朝の森を思わせる冷たい風が降り、土と若葉の匂いがヴァルネを満たす。
路地に残っていた弱い穢れは薄れ、害意のある低位霊が城壁の外へ散っていった。
いなないていた馬は鼻を鳴らし、荷車引きが手綱を拾い上げても暴れなかった。
街中の気配を辿るが、人の流れは押し合いになっておらず、怪我人も出ていない。
リーネのそばで回っていた一枚目の葉が、ゆっくりと高さを上げる。
巨樹の枝から二枚目が離れ、天井を通り抜けてリーネの上へ降る。
リーネは布の鳥を持ったまま、銀緑色の葉を目で追った。
葉が小さな指のそばへ来ると手を伸ばす。
触れる直前に葉が向きを変え、リーネは「あぅ」と追いかけた。
さらに三枚目が降り、三枚の葉がリーネの周囲へ並んだ。
『主。まさか、七葉すべてを?』
「そのつもりだ」
エレオノーラはルヴェンの方へ踏み出した。
「……七枚そろうと、その…何が起きるのですか?」
ルヴェンは答える前に私を見た。
私は話して構わないと頷いた。
『アルヴァリス王家が授ける、最上位の王護となります』
セヴェリンは一度口を閉じ、そして聞き返した。
「最上位……?」
『王家の直系、あるいは王家がその命に代えても守ると定めた者へ授けるものにございます』
誰も口を開かず、窓の外のざわめきと、祭壇の火が燃える音だけが続いた。
王国記録官は布を黒いしみの上へ置いたまま動かず、教会記録官も筆を紙の上へ戻せないでいる。
「人間の子へ……王家の直系と同じものを?」
「リーネに必要だからな」
セヴェリンが祭壇の縁を片手でつかんだ。
「そのような前例は……あるのでしょうか」
「知らぬ」
「……ご存じないまま、行っておられるのですか」
「前例がなければ、これが最初になるだけだ」
ギルベルトは倒れた椅子を起こさず、その場へ立ち尽くしている。
四枚目と五枚目の葉が順に降りても、誰も声を上げない。
セヴェリンは二度、三度と息を整え、背を伸ばした。
「殿下。この祝福の名を、記録へ残すことをお許しいただけますか」
「アルヴァリス王家の大祝福、《七葉の王護》だ」
「これは、聖灯教会の奇跡として扱ってよいものでは……ございませんね」
「当然だ。私がリーネへ与えた」
エレオノーラは床の光を踏んだまま、王国記録官へ顔を向けた。
記録官が筆を持ち直す前に、私は続けた。
「もちろんだが、王国へ与えられたものでもない」
その言葉にハッとしたエレオノーラは、開きかけた口を一度閉じた。
「……おっしゃる通りです。王国も、リーネ個人へ与えられた王護として記録いたします」
「……聖灯教会の奇跡として記録することはいたしません」
記録官たちは、ようやく筆を持ち直した。
六枚目が天井を抜け、それから七枚目がゆっくりと降りてくる。
わずかに形と光り方の違う七枚が、リーネを囲んだ。
私は印章へ流す魔力を整え、リーネの命へ負担がかからない程度まで落とす。
一枚目の葉が白い上掛けへ触れ、布の下へ溶け込む。
リーネは一度瞬き、次の葉に手を伸ばした。
二枚目、三枚目が続く。
そのたびにリーネは葉を目で追い、四枚目が胸元へ入ると、布の鳥を上下に振った。
五枚目から七枚目も一枚ずつ定着したが、リーネは泣かず、身体をこわばらせてもいない。
「……殿下、それほどの祝福であれば、リーネ様ご自身も強大な魔法を扱えるようになるのでしょうか」
ギルベルトの問いに、私はずれかかっていたリーネの頭と背を支え直した。
「これはリーネを戦わせるためのものではない」
七枚の葉を受けても、リーネは今までと変わらずの様子で、強い力を得た様子などない。
「この子を守るためのものだ」
「生命と魔力を安定させ、弱い呪いと穢れを退け、魔力が乱れた時の負担を軽くする。精霊はこの印を持つ者を害しにくくなり、異常があれば私とルヴェンへ伝わる」
七枚目が消えると、リーネの胸元へ銀緑色の光が集まった。
白い上掛けの上に、大樹と七枚の葉をかたどった小さな紋が浮かぶ。
腰の印章と同じ形だが、柔らかな光を発していた。
数秒後、紋は上掛けを通り抜け、リーネの身体へ沈んで外から見えなくなった。
私は腕へ伝わる呼吸と心音を確かめ、額と胸に触れた。
生命力は穏やかで、魔力の流れにも負担はない。
背を撫でると、リーネは布の鳥を私の手の甲へ当てた。
機嫌も良いようだ。
「……殿下。念のためお伺いしますが、ハイエルネリアでは、洗礼のたびにこの光景が?」
「まさか」
そうだよな、と言う表情を浮かべつつ、ギルベルトは口から息を吐き、そして窓枠から手を離した。
ヴァルネの空を覆う巨樹から、銀緑色の余光が花びらのように降り始めた。
光は屋根や人や馬を通り、地面へ触れる前に消える。
手を伸ばした市民の掌にも何も残らない。
イレナが出ていった扉の向こうから、子どもが空の葉を数える声が届いた。
「一つ、二つ……七つある」
「あの赤ちゃんのための樹なのかね」
その子の母親が空と大教会を見比べ、近くで跪いていた信徒が後を継いだ。
「七枚の葉に守られた御子……」
「七葉の御子か」
別の市民が繰り返し、その呼び名が階段の下から大通りへ広がっていく。
エレオノーラは王国記録官のそばへ歩み寄り、リーネの名を記した頁を指した。
「この王護を王国の成果とするような文言は加えないでください。王国がすべきことは、リーネ様の信頼を損なわず、王国民として守ることです」
セヴェリンも教会記録官の机へ戻った。
「教会も同じです。リーネ様を信徒として誠実に支え、今日得た信頼を失わないよう記しなさい」
二人の記録官は、黒インクで汚れた紙と膝をぶつけた机の前で、それぞれ新しい文を書き始めた。
光の巨樹は、樹冠の端から少しずつ薄くなった。
広がった枝、大教会から伸びていた幹の順に消え、土と若葉の匂いが弱まる。
私が魔力を止めると、大樹と七枚の葉を刻んだ印章も元の銀色へ戻った。
『問題なく定着したようでございますな』
「当然だ」
『主は、王家大祝福を人間の乳児へ施した前例をご存じなので?』
「さっきも言ったが知らぬ」
『……前例がない可能性については』
「必要だったから行った。前例は関係ない」
扉の外から、空を覆っていた巨樹について話す人間たちの声が届いた。
外にいたイレナが、まもなく祭壇の部屋へ戻った。
「領都中が光の巨樹を目撃しております。大教会の周辺には、事情を知ろうとする者が集まり始めています」
「警備がいるのだろう。止めさせればよい」
「……承知しました。ただ、外の者たちはリーネ様を『七葉の御子』と呼び始めております」
「なぜだ」
「空に現れた樹と、七枚の葉を見たためかと」
「リーネの名はリーネだ」
「はい。それとは別の呼び名として広がっているようです」
リーネを神そのものと呼ぶ声ではなく、王国や教会の所有を示すものでもない。
目にした巨樹と七枚の葉から生まれた呼び名で、害意もなかった。
「リーネを困らせないなら、好きに呼ばせておけ」
大祝福が終わっても、エレオノーラとセヴェリンは立ったままだった。
イレナは閉じた扉へ耳を向け、外の声と警備兵の指示を聞いていた。
教会は壊れておらず、誰も傷ついていない。
リーネは泣かず、祝福も問題なく定着している。
私はこの結果に満足し、リーネを見る。
「これなら十分に加減した、普通の洗礼だ」
ルヴェンはその言葉に何も言わずただ、主である私を見つめ返すだけだった。
「これで洗礼は終了だ」
ルヴェンが、光の巨樹が通り抜けていた天井へ顔を向けた。
『主』
「何だ」
『ヴァルネ全土から見える王家大祝福を行っておいて、少し派手と申す者は、世界広しといえど主だけにございましょう』
「何を言っている。何も壊していないぞ?」
「壊れなければ控えめ、という話ではございません」
エレオノーラが、ルヴェンの言葉をすぐに引き取った。
「…その点につきましては、教会も王国と同意見でございます」
「さっきまでお互い剣吞としていたのに、人間は奇妙なところで仲がよいのだな」
『……主が原因にございます』
リーネがまるで同意を示すかのように「あぅ」と声を上げた。
人間の灯火と、七枚の葉。
その両方に守られたリーネは、私の腕の中で何事もなかったように布の鳥を振っていた。
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