第22話 リーネ、人の灯火へ迎えられる
王女と大司教が北緑館を訪れてから二日後。
授乳を終えて昼寝から起きたリーネは、仕立て屋で選んだ柔らかな服の上に、教会から届いた白い上掛けを着ていた。
胸元には、小さな聖灯の刺繍が一つだけある。
私は襟の内側を指でなぞり、首に当たらないことを確かめた。
袖にも余裕があり、腕を動かしても布が擦れる様子はない。
リーネ自身も嫌がらず、青い胴と黄色い翼の布の鳥を握っている。
出発の支度が整ったところで、イレナが報告を始めた。
「教会周辺の通りはヴァルネ兵が封鎖しております。外周と主要な出入口は王室近衛、内部は神殿騎士が担当します」
窓際にいたルヴェンが、耳をイレナへ向ける。
「屋根と裏路地には辺境伯家の者を配置しました。大教会へ入る者は全員、身元確認を終えております」
「…なぜ、そこまで必要なのだ」
「戦時下に王女殿下と大司教猊下が同席されます。それに、リーネ様の洗礼ですので」
私の腕にはリーネがいる。
敵が何人紛れ込もうと、この子に指一本触れられるはずがない。
「私が抱いている。何ら問題はない」
布の鳥を振ったリーネが、黄色い翼を私の胸へ当てた。
私はその手を包み、当たり前の事実を付け加える。
「今、この子がいる場所が、この世で最も安全な場所なのだからな」
イレナは口を閉ざした。
ちょうど確認中のシスターも、この言葉に反応したのか私を見る。
迎えに来た教会の者は、返す言葉を見つけられずにいるようだった。
『その点につきましては、異論ございませんな』
同意したのはルヴェンだけである。
「……警備は、予定どおり実施いたします」
「好きにしろ。リーネを騒がせなければ構わない」
これ以上話すこともない。
私はリーネを抱いたまま、玄関へ向かった。
玄関前には、一台の馬車が待っていた。
イレナが先に乗り込み、車内に異常がないことを確かめる。
彼女が差し出した手は借りず、私はリーネを抱いたまま乗り込んだ。
向かいにイレナが腰を下ろし、扉が閉められる。
それからまもなく、馬車はゆっくりと動き出した。
◇
北緑館から教会までの通りでは、ヴァルネ兵が荷車を脇道へ案内し、交差点ごとに人の流れを止めていた。
王室近衛は教会を囲む道を見回り、神殿騎士は正面扉の左右を守っている。
屋根の上には、朝から動かない人影も見えた。
外套の色を瓦へ合わせているが、イレナと同じ辺境伯家の者だろう。
人間たちは、人間の方法でリーネを守ろうとしている。
私には不要な備えでも、彼らがそれぞれの役目を果たしていることまで否定する理由はない。
馬具の金具が鳴るたび、リーネは扉の小窓へ顔を向けた。
鎧の触れ合う音が続くと、布の鳥を握ったまま私の胸へ頬を寄せる。
泣いてはいない。
私はその背を撫で続けた。
やがて馬車が速度を落とし、大教会の前で止まった。
正面扉まで続く石段には、参列者の姿がない。
通りとの境には王室近衛が立ち、石段の上では神殿騎士が扉を守っている。
イレナは先に馬車を降り、扉の内側にいた辺境伯家の者から報告を受ける。
祭壇の部屋と控室に予定外の者がいないことを聞いてから、こちらへ戻って扉を開いた。
私はリーネの上掛けがずれていないことを確かめ、腕の中へ風が入らないよう胸元を覆って石段を上る。
◇
教会の控室では、エレオノーラの隣にセヴェリンが座り、ギルベルトは二人から少し離れて待っていた。
王国と教会の記録官が一人ずつ壁際の机に座り、白い布と聖水を用意したシスターが祭壇の部屋へ続く扉の前に控えている。
近衛も神殿騎士も、この部屋には入っていない。
セヴェリンが進み出た。
「触れる前には許可をいただき、リーネ様がお嫌がりになれば中断いたします。大きな音は避け、儀式も長引かせません」
「その条件は二日前に北緑館で決めた。もう一度確認する必要はない」
「…承知いたしました」
セヴェリンは一礼し、祭壇の部屋へ続く扉を開けさせた。
室内には一般の信徒も、護衛の兵もいない。
祭壇の大きな灯火と、白布を掛けた記録台、その上に置かれた浅い聖水の器が目に入る。
王国と教会の記録簿は別々に開かれ、二人の記録官がそれぞれの席についた。
私は祭壇の前まで進み、リーネを抱き直す。
右手に布の鳥を持たせたまま、左腕で頭と背を支えた。
セヴェリンが私たちの前に立つ。
「この子の名を、お聞かせください」
「リーネだ」
呼ばれたリーネが顔を上げた。
私の口元を見てから、布の鳥の翼を握り直す。
エレオノーラはリーネにも届くよう、声を張らずにはっきりと告げた。
「リーネ。ロアナに生まれたローディネル王国民として、王国はあなたの命と権利を守ることを確認します」
王国記録官の筆が紙の上を進む。
王女はその音が止むのを待って、言葉を続けた。
「同時に、アルヴァリス王家の庇護下にあることを認め、その庇護を尊重します」
二冊の記録簿へ、同じ名が記された。
王国の記録には出生地と国籍、アルヴァリス王家の庇護下にあり、私が庇護の責任を負うことが加わる。
教会の記録には、セヴェリンが洗礼を主宰し、リーネを信徒として迎えることが記されていた。
何を書かれているかなど知らないリーネは、記録官の筆が動くたびに布の鳥を持ち上げた。
黄色い翼の先が私の手首へ当たり、また離れる。
私は両方を確かめた。
所有も親権も、アルヴァリス王家に代わる庇護権も書かれていない。
「これでよい」
二人の記録官が署名を添え、記録簿を閉じずに祭壇の脇へ置いた。
◇
セヴェリンは聖水の器へ指先を近づける前に、私へ尋ねた。
「リーネ様の額へ聖水をつけてもよろしいでしょうか」
「少量なら構わない」
聖水が額へ触れると、リーネは眉を寄せて顔をしかめた。
白い上掛けではなく、その下にある私の服を指で強くつかむ。
私はリーネの額から聖水を拭おうと、用意していた柔らかな布を手に取った。
だが、セヴェリンは片手を上げ、私を制した。
「殿下。祈りを終えるまで、聖水はそのままにしていただけますか」
「冷たいのだろう」
「申し訳ございません。あと少しで終わります」
リーネは泣かなかったが、濡れた額を私の胸へ押しつけようとした。
私は不満を覚えながらも、その背を撫でて祈りが終わるのを待った。
セヴェリンがうなずくと、私はすぐに聖水を拭った。
すると、リーネの眉間からしわが消えた。
リーネは布の鳥を持ち直し、今度は私の服と一緒に握り込んだ。
次に、セヴェリンは祭壇の灯火から小さな燭台へ火を分けた。
「この灯は、人の世へ迎えられるリーネ様の命を表します」
揺れる火を見つけたリーネが手を伸ばす。
届かない距離ではあるが、床に座ったルヴェンが翼を広げ、燭台と小さな手の間を遮った。
「熱い物を近づける必要があるのか」
「触れさせるものではございません。命の象徴としてお見せするだけです」
「ならば近づけすぎるな」
セヴェリンは燭台を半歩遠ざけた。
リーネは炎を追わず、灯りを映した私の目をのぞき込み、「あぅ」と声を上げる。
ルヴェンは翼を畳んだものの、燭台の前からは動かなかった。
◇
祭壇の灯火を背に、セヴェリンが私の名を呼んだ。
「リュセル・アルヴァリス殿下。この子の命を守り、その成長を支え、自ら道を選ぶ日まで導くことを誓われますか」
人間の神へ誓うことはない。
それでも、リーネを守るという問いに答える相手を間違えるはずもなかった。
私は腕の中のリーネを見る。
「アルヴァリス王家の名において、リーネの命と、リーネ自身が選ぶ未来を守る」
セヴェリンは一礼し、王国と教会の記録官が宣誓をそれぞれの記録へ書き加える。
エレオノーラとギルベルトは宣誓を聞き届け、一度だけ頷いた。
ルヴェンだけは、最初からそうなると知っていた顔で私たちを見ている。
リーネは自分の名に反応し、私を見上げた。
服を握る指へ力を込め、「あー」と声を返す。
私が背へ手を添えると、そのまま胸元へ頬を寄せた。
灯火は揺れている。
それ以外には何も起きない。
人間側の洗礼は、最後まで人間の言葉と記録によって進んだ。
セヴェリンがリーネへ向き直る。
「リーネ。あなたを一つの灯火として、人の世と聖灯教会へ迎えます」
続いて、エレオノーラが王家の名代として告げた。
「ローディネル王国は、王国民リーネの命と権利を守ります」
離れた鐘楼から、小さな鐘が一度だけ聞こえた。
リーネは少し顔を上げたものの、泣き出すほどの音ではない。
二人の記録官が洗礼の完了を書き入れ、署名を終えた。
エレオノーラとセヴェリンは互いに礼を交わす。
「無事に終えられましたことを、王国を代表して感謝いたします」
「リーネ様を迎える機会を得られたことを、教会も喜ばしく存じます」
王国は王国民としてリーネを守る立場を記録し、教会はハイエルネリア王族の庇護下にある最初の信徒として彼女を迎えた。
両者が望んだものは、二冊の記録簿へそれぞれ残っている。
ギルベルトは閉じられた二冊の記録簿を見て、「無事に終わった」と呟いた。
セヴェリンが私へ洗礼の終了を告げる。
「これにて、リーネ様の洗礼は滞りなく終了いたしました」
「これで終わりか」
「はい」
私はリーネの額へ触れた。
呼吸は普段と変わらず、生命力にも乱れはない。
魔力も機嫌も、儀式前と同じである。
何も悪くなってはいない。
だが、リーネの命を直接守るものは、やはり何も加わっていなかった。
二冊の記録と約束は、リーネが王国や教会へ助けを求める根拠になる。
人の世で暮らすこの子を、私だけでは届かない場所から支えるだろう。
それでも、これはリーネの洗礼なのだ。
「人間側の作法は済んだ」
『では次は、アルヴァリス王家の作法でございますか』
「そうだ」
エレオノーラとセヴェリンはこの不穏な雰囲気を察知したのか、祭壇から離れず、何が始まるのかを待っている。
ギルベルトの眉間には深い皺が寄り、イレナは入口から祭壇までの間に誰もいないことを確かめた。
ルヴェンが私へもう一度問いかける。
『主。念のためお伺いいたしますが、どの程度になさるおつもりで?』
私はリーネを見た。
布の鳥を握ったまま、何も知らずに私の胸へ収まっている。
「リーネの洗礼なのだ。少し派手な方がよいだろう」
王家の銀の印章へ魔力を通すと、刻まれた大樹が銀緑色に輝き始めた。
石造りの室内へ、湿った土と若葉の匂いが満ちていく。
祭壇の火は消えていないのに、早朝の森へ踏み入れた時のような冷気が頬を撫でた。
印章からこぼれた銀緑色の光が石床を伝い、細い根のように祭壇の周囲へ伸びる。
リーネの白い上掛けのそばに、一枚の銀緑色の葉が現れた。
大教会の石床に、存在するはずのない巨大な樹の影が広がり始めていった。
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