第14話 北緑館の新しい住人
北緑館は、ヴァルネの大教会から北へ半刻ほど進んだ先にあった。
低い石塀の向こうに庭があり、その外側を森が囲んでいる。
街から乳や布を運べる距離にありながら、人通りは少ない。
この館は教会が特別な保護を必要とする者を、一時的に受け入れるための館だという。
現在、ほかに滞在している者はいなかった。
玄関前の道は馬車が通れる幅があり、庭の井戸から館までは石が敷かれている。
毎日教会から人が通うにも、乳児を連れて街へ戻るにも困らない距離だった。
門前で馬車が止まると、館の者が教会から運ばれた育児用品の箱を受け取った。
私物はすべて収納空間にあるため、私が持っているのは腕の中のリーネだけだ。
館の者が玄関まで案内すると申し出たが、私はリーネを抱いたまま歩き出した。
『もう、どなたにもお渡しにならないのですか』
隣を歩くルヴェンが尋ねる。
「移動中に抱き手を変える必要がないだけだ」
リーネは私の外套を握り、馬車を降りても目を閉じていた。
わざわざ起こす理由もない。
館へ入って間もなく、教会から三人のシスターが到着した。
一人が乳児の世話を担い、残る二人が乳の用意と布の洗濯、体調の確認を受け持つという。
先頭のシスターが私へ頭を下げた。
「殿下がお育てになる間、お手伝いをするよう言われております。毎日交代で参りますので、お困りのことがあればお申しつけください」
リーネを教会へ渡す話ではない。
これは教会側からの好意であり、乳児を扱える者が通うなら、私一人で世話を続けるより安全だ。
しかも教会で応対した者たちと同じく、王家の庇護を理由にリーネへ触れることを恐れてはいない。
赤子が必要とすることのみを確かめ、日々の世話は日々の仕事として扱っている。
「必要な範囲で任せる」
私が答えると、シスターたちはもう一度礼をした。
リーネが目を覚ましたのは、その直後だった。
口を動かしてから外套へ顔を寄せる。
私が乳を用意しようとすると、シスターの一人が空腹だと判断し、別の者はすでに瓶と湯を用意していた。
もう一人はリーネの頬と呼吸を確かめ、馬車で疲れてはいるが、熱もなく具合を崩した様子もないと告げた。
年長のシスターが私からリーネを受け取る。
リーネは見慣れない法衣をつかんだが、泣きはしなかった。
その間に布が替えられ、乳の温度も一度で合った。
リーネが木匙を追う様子を見たシスターは、眠気より空腹が先だと告げ、そのまま飲ませ始める。
急いで飲もうとすれば木匙を近づける間隔を変え、息を整える時には口元から離す。
リーネがまた口を動かせば、待たせず次の乳が届いた。
私が十日以上かけて覚えたことを、この者たちは迷わず進めていた。
「私より手際がいいな」
『それを生業となさっている方々でございますから』
ルヴェンの言うとおりだ。
これならリーネを任せても、空腹や布の不快さを見過ごすことはない。
私が教えられることより、この者たちから教わることの方が多いだろう。
私は館の中を確認するため、席を立った。
数歩進むと、リーネの目が私の動きを追った。
扉へ向かったところで乳を飲むのをやめ、シスターの腕の中から身体を起こそうとする。
「あぅ……」
こちらへ手が伸びた。
シスターが名を呼んであやしても、リーネは私を見たまま乳へ口を戻さない。
泣きはしないが、私が扉へ近づくほど眉が寄っていく。
「………わかったから、泣くのは無しだ」
そうリーネに言うと、私は元の椅子へ戻った。
「姿が見えなくなると、また置いていかれると思うのか」
リーネの眉が戻り、差し出された乳を再び飲み始めた。
シスターの抱き方も乳の与え方も、先ほどと何も変わってはいない。
私が椅子へ座ったことだけが違っていた。
環境が変わったばかりだからだろうか。
いや、教会で私が去ろうとしたことを覚えている可能性もある。
ならば、ここが置いていかれる場所ではないと分かるまでは、見える所にいればよい。
乳を飲み終えると、シスターはリーネを抱いたまま部屋を歩いた。
首の支え方も揺らし方も安定しており、リーネは声を上げない。
だが、まぶたが閉じかけるたびに目を開き、私が椅子にいることを確かめていた。
私が立ち上がれば、眠りかけていた身体が動く。
シスターは揺らす速さを変え、法衣の胸元へ頬を寄せさせた。
それでもリーネは、眠気に負ける直前まで私のいる方へ顔を向けている。
シスターはそれを何度か見た後、私の前へ戻ってきた。
「私たちでも、この子のお世話はできます」
腕の中では、リーネがまた私を見ている。
「ですが、この子が安心して眠れるのは、殿下がおそばにいる時のようです」
私は答えず、シスターの隣へ座った。
リーネの手が届く場所へ指を出す。
五本の指では上手く握れないらしく、リーネの小さな指数本だけが私の人差し指にたどり着き、そしてぎゅっと握った。
抱いているのも、寝かしつけているのもシスターだ。
私は乳を与えず、身体を揺らしてもいない。
それでもリーネは私の指を握ると目を閉じ、そのまま眠った。
シスターの腕の中で呼吸がゆっくりになり、握る力だけが残る。
『お世話をなさる手は、ほかにもございます』
ルヴェンは眠ったリーネを起こさない大きさで続けた。
『ですが、求めておられる方は一人のようですな』
「………ふん」
反論すれば声で起こす。
私は指を握らせたまま、リーネの呼吸が一定になるまで椅子を動かなかった。
任せられないのではない。
任せたうえで、私が近くにいる必要があるらしい。
◇
部屋選びは、リーネが目を覚ましてから行った。
館の者は二階の主寝室を勧めたが、夜は冷えやすく、炉と水場は階下にある。
リーネが泣くたびに階段を往復することにもなる。
寝台の飾りや部屋の広さは、授乳にも夜の見守りにも役立たない。
「乳児を置くには不便だ」
代わりに見たのは、1階の南向きの部屋だった。
炉と水場が近く、隣にも一室ある。庭の木を通った日の光が、葉の形を壁へ映していた。
リーネは揺れる葉の影へ手を伸ばした。
影が動くたびに指を開き、やがて頬を緩めて「あぅ」と声を上げる。
「ここにする」
「殿下のお部屋でございますね」
「リーネの部屋だ。私は隣を使う」
館の者は一礼し、教会から届いた乳児用の寝床を運び込んだ。
シスターたちとは、その場で役割を決めた。
乳と布、入浴、日中の体調確認、不在時の見守りは任せる。
重要な判断と夜間の見守り、王家の庇護に関わる責任は私が持つ。
「夜も人を残すことはできます」
「夜間は私が見る。判断に迷った時と、熱や乳の飲み方に変化があった時は教会へ知らせる」
「承知いたしました。では朝に体調を確かめ、必要な物もその時に補います」
昼間の世話は任せられる。
残る問題は、しばらく使われていなかった部屋の安全だ。
リーネを抱くシスターにその場で待ってもらい、私は室内へ魔力を広げた。
床と棚の埃を一つに集めて外へ出し、窓の隙間を塞ぐ。角の尖った机と倒れやすい棚は隣室へ移した。
湿り気の残る床を乾かし、炉の火は部屋全体が暖まっても寝床の近くが熱くなりすぎない強さへ整える。
すべて終えてから、リーネの寝床を隣室の戸口からも見える位置へ置いた。
寝床の周囲だけは、もう一度確かめた。
窓から冷気は入らず、炉の火の粉も届かない。
棚を動かした後の床に突起がないことも確認した。
シスターたちは、宙を動いた家具と、一瞬で乾いた床を見て口を開けていた。
『竜の巣を封じるより、慎重でございますね』
「……比較するものではない」
私の机は隣室へ置く予定だった。
ところが机の位置を確かめに戸口を越えると、寝床のリーネが目を開けた。
戻れば、また閉じる。
二度目も同じだったため、机ごとリーネの部屋へ移した。
「ここで記録した方が、様子を確認しやすい」
シスターたちは何も言わなかった。
ルヴェンは先に窓辺へ上がり、庭と室内の両方が見える場所で身体を丸めている。
私の机はリーネの寝床のそばにあり、ルヴェンは同じ部屋の窓辺を選んだ。
隣室へ移らなくても記録ができ、夜中にリーネが目を覚ませばすぐ確かめられる。
この配置なら、シスターたちが帰った後も世話に困ることはない。
◇
夜になると、シスターたちは翌朝また来ると告げて教会へ戻った。
暖かな炉のそばにリーネの寝床があり、その横には私の机がある。
窓辺はルヴェンが占めていた。
私は記録帳を開き、北緑館は教会から半刻の距離にあり、育児支援を受けながら当面の滞在先として使用する、としたためた。
それで筆を置くつもりだったが、最後の行にもう一言だけ書き加える。
――仮住まい。
寝床から手が伸び、私の指をつかんだ。
振りほどく必要はない。
私は左手をリーネへ預け、右手だけで今日の記録を続けた。
『仮住まい、でございますか』
ルヴェンが記録帳を覗き込んでいる。
私は答えず、空いた行へ明日の授乳時刻を書いた。
炉では、薪が乾いた音を立てて燃えている。
リーネは指を握ったまま眠り、窓辺ではルヴェンが目を閉じる。
北緑館の最初の夜は、そうして始まった。
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