第六話 黒い影
ユリウスを自宅に送り届けると、マクシムはまっすぐ聖女離宮へ向かった。
護衛騎士はもともとマクシム一人だけではない。夜間は交代制で非番の日もあり、今夜は無理を言って交代要員の別の騎士に急遽担当を任せていた。
だが、それだけでは不安がある。代理の騎士の腕を侮っているわけではないが、マクシムのような『鴉』とは違い、正面からの敵しか想定していないだろう。そう予測し、彼は家の配下を護衛補助として、王家にも告げず密かに聖女を警護させていた。
その結果――
「聖女離宮に侵入しようとした賊は、すべて排除済みです」
「……やはりか」
配下の報告に、マクシムの表情はいっそう陰った。
これまで彼が離宮に詰めていた時は一度もなかった侵入者。それが今夜を狙って現れた。
偶然などではない。すべて仕組まれていたのだ。
護衛騎士の息子が聖女と親しいということは、少し調べればわかるだろう。ならばその息子を攫えば父親は捜しに行く。警備が手薄になったところを狙うのは、敵ならば当然のことである。だが。
(――いったい、何者が)
聖女は王家の血を一滴も引かず、両親もなく、政治的には無価値な子供に過ぎない。いずれ王子の子を産む運命とはいえ、わざわざ王宮を襲うほどの理由は考えられなかった。
――しかも、相当に手が込んでいる。
「……申し訳ございません」
配下の男は『鴉』に深々と頭を下げた。生かして捕らえたはずの賊は、すべて絶命していたのである。
恐らくは襲撃実行前に与えられた、遅効性の毒による――ユリウス誘拐犯の口封じと同じ手口であった。
これほど鮮やかに『鴉』を出し抜ける者が王宮内に存在したことに、マクシムは驚愕せざるを得なかった。
何しろ国王を初めとして、この王宮に深慮遠謀を抱く者が潜んでいるとはとうてい思えなかったのである。
だが、今は認識を改めるしかない。マクシムは『鴉』の眼を張り巡らせ、あらゆる情報を集めさせた。そして、それらの情報を精査した結果に彼は思わずうめいた。
「まさか……王弟殿下が……?」
現国王の実弟、ホノリウス・ユストゥス・セルディウス。
「麗しき王弟殿下」と称賛され、この国で最も人望厚い王族が、このホノリウスであった。
先王崩御の際には、兄王よりもこの王弟を推す声も多かったが、とうに立太子していた長兄がそのまま王位を継いだ。そして即位の際にも、王弟ホノリウスは不満を漏らすどころか、麗しい笑顔で祝福していたのである。
兄弟仲は決して悪くはない。これまでに一度も叛意の気配どころか、口喧嘩一つなかった。
そのホノリウスが黒幕だとは、人を疑うことを常としてきたマクシムでさえも、にわかには信じがたかったのである。
だが、その認識はすぐにも改めねばならなかった。
ユリウス誘拐事件の直後、本宮に所用があって出向いたマクシムのところに、わざわざ声がかけられたのである。
「マクシムと言ったか。素晴らしい剣の腕前だそうだな」
年の頃は三十手前のはずだが、少年とも見間違うほどの若々しい顔に、甘く柔らかな声音を乗せてそう呼び止めたのは、王弟ホノリウスだった。
これまでほとんど顔を合わせたことのないマクシムは、その彫像のような姿を真正面から見て、思わず一瞬息を止めた。
「……滅相もございません」
何とかその台詞だけを押し出すと、ホノリウスは薄い唇に静かな笑みを浮かべた。
「寂れた離宮での護衛騎士とは実にもったいないことだ。私の護衛に移る気はないか?」
「ま、まさか、そのような……身に余るお言葉でございます」
彫像に圧倒されている場合ではない。その申し出にマクシムは内心、大いに動揺した。
マクシムの家系が代々受け継ぐ『鴉』は王家の影の手ではあるが、王位を継がぬ王弟とは今まで直接関わったことがない。
実際、過去の歴史では身内同士での争いに利用されてきたのが『鴉』なのである。ならば、たとえ実弟であろうと国王がその存在を教えるはずがなかった。それなのに。
——まるで、この機を見計らったかのような。
ホノリウスの台詞は、明らかに『鴉』の存在を知っていることをほのめかしていた。その上で、あえて引き抜こうとするのはなぜなのか。
――聖女を狙った、鮮やかな手口。
すぐに想起されるのは、ユリウス誘拐から始まった一連の事件。あれが腑抜けた貴族連中にできるとは、いまだにマクシムも思っていない。――ただ、この王弟ホノリウスを除いては。
「そうか。もし気が変われば、いつでも申し出るが良い」
ホノリウスはやや残念そうに眉を下げて笑うと、軽く手を振ってその場を去った。
「麗しき王弟殿下」――国内随一の美貌を誇る彼の淡い茶の髪は、陽を浴びて金色のごとく輝く。
王族として久々に神の色たる金の髪を持って生まれた王子の父である。
この年、四歳になるその息子の名は、ヘリオス・ユスティヌス・セルディウスと言った。




