第五話 闇夜の鴉
アウレリアがねだった花は、金盞花であった。
まるで地面に咲く太陽のような黄金色の花弁をつけるその花は、アウレリアが読める数少ない絵物語に登場していた。
だが、聖女離宮の庭園には存在しない。外に出られない彼女が本物の金盞花を見たいと言うと、ユリウスはすぐに採ってこようとしたのである。
金盞花が多く自生しているのは、セラーナの付近では南の平原。早く帰ってくるため近道しようとしたユリウスは、途中の森の中で消息を絶った。
マクシムが急いで現場に駆けつけた時、まだかろうじて日暮れ前であった。西日に照らされた地面を注意深く調べ、彼はそれが三人の男による足跡であることを確認した。
大きさや深さから見て、恐らく一人は大柄。一人はやや小柄だが太り気味。もう一人は右足に古傷がありそうだと彼は推測した。そして、ユリウスのものと思われる子供の足跡が途切れたところから、大柄な男の足跡が深くなっている。――すなわち、ユリウスがここで担がれて運ばれたことを示している。
足跡をそのまま追い、彼は何とか完全に暗くなる前にそこへたどり着いた。
森の奥に建つ、古びた粗末な小屋。長年放置されていたと思われるそこには明かりが灯り、中から卑しい笑い声が響いていた。
見張りは戸口に一人だけ。辺りには他に人の気配はない。
(――何と粗雑な)
マクシムは内心、彼らを蔑んだ。子供一人の誘拐は成功しても、一目でわかるほどはっきりと痕跡を残し、ねぐらには見張りを一人立たせるだけ。誘拐の目的は不明だが、こんな素人が『鴉』の正体を知る敵対者とはとうてい思えない。小金をもらって引き受けたごろつきあたりだろう。
無論、だからと言って手加減する気は微塵もない。
マクシムは見張りとは逆方向から足音を殺して小屋に近づき、中の様子を探った。
小屋の中には見えるだけで三人。そのうちの二人は彼の推測した通り、大柄な男、小太りの男だった。
残る一人が三人目の足跡の男だろうか。座っているだけでは足に古傷があるかまでは不明だが、頬に深い傷跡が見えた。体にも傷がある可能性は高い。
酒をあおって大声ではしゃぐ男たちの後ろ――粗末な床に一人の子供が転がされていた。
顔まで見えずとも間違いない――我が子、ユリウスの姿である。
ぐったりとして動きがないのは、気絶でもさせられているのだろうか。少なくとも外傷はないように見えるが、決して良い状況とは言えない。
マクシムの配下は数人、森の周囲に待機させてある。しかし、それらを呼び寄せている暇はなさそうだった。
彼は強く歯噛みしながらも、胸の内に沸き起こる炎を完全に抑制していた。
日は沈み、辺りはすっかり暗闇に包まれた。小屋の中でまだ酒盛りは続いている。
大金が急に手に入り、彼らは上機嫌だった。賭けで負けたせいで見張り役などという貧乏くじを引かされた男は、悔しさに顔を歪める。明日には交代の予定ではあるが、できれば報酬をもらった夜にこそ祝い酒で羽目を外したかったものを。
苛立ちに思わず地面を蹴ると、そのつま先にころころと何かが転がってきた。
小屋から漏れる明かりに照らされたそれを、男は反射的に拾い上げる。
「胡桃……?」
それは木陰の方から転がってきたようだった。リスでもいるのかと、男は茂みを覗き込む。一人だけ酒盛りから除け者にされた恨みもある。どうせなら捕まえて腹の足しにでもしてやろうと考えた。
だが、その浅い思慮を後悔する時間は与えられなかった。
茂みを覗こうと突き出した首を、黒い木陰から突き出た刃が貫いた。
声を上げる暇もない。ぐらりと揺れた体がそのまま茂みの中に倒れ込むのと同時に、喉を貫通した細いナイフが引き抜かれる。
黒い闇が一連の動作をすべて覆い隠していた。
黒装束をまとった『鴉』の手は、まず初めに見張りの男を静かに排除した。
小屋の中は、男たちの下品な笑い声と酒の匂いで充満していた。
子供一人を攫ってきただけで、普段では買えないような上等な酒が手に入ったのだ。羽目を外すのも当然と言えた。
「貴族のガキでもねえようだが、こいつはいったい何なんだ?」
不意に大柄な男が、床に転がる少年に視線を落として首を傾げた。
「素性なんかどうでもいいじゃねえか。おかげでこうして酒が飲めるんだしよ」
小太りの男はそうなだめてさらに酒をあおった。しかし、大柄な男はまだ疑念があるのか、少年の腹をつま先で小突いて目を覚まさせようとする。その雑な動きを、向かいに座る頬傷の男が制した。
「おい、殺すなよ。まだ前金しかもらってねえんだからな」
そう言うと、男は懐から薄汚れた麻袋を無造作に卓上へ投げ出した。
投じた際、貨幣のこすれる金属音が鳴る。だが、袋の大きさに比べて中身はだいぶ少なくなっているようだった。
「そんなガキじゃ売っ払ったところで大した金にはならねえだろうしな。報酬をもらわなきゃ割に合わねえよ」
そうぼやくと、傷の男は最も上等そうな酒瓶に直接口をつけて一気にあおった。
冗談ではないと他の男たちが咎めようとした、その時。
酒に気を取られていたせいで、彼らは背後の窓から投げ込まれたものに気づくのが遅れた。
それは、火をつけずとも着弾の衝撃だけで煙幕を起こす煙玉。
不意を突かれた男たちは、一瞬のうちに視界を奪われた。
「お、おい、何だ!?」
「火事か!? 早く外へ――」
慌てて出口の方へ向かおうとした小太りの男は、その先の言葉を永遠に失った。
音もなく現れた黒い闇が、彼の喉を一瞬で切り裂いたのである。
他の男たちも、そこでようやく侵入者に気づいた。しかし襲撃に構える前に、大柄な男は胸に衝撃を受けた。痛みを感じる暇もない。胸に突き立った短剣を引き抜こうと伸ばしかけた手は力を失い、そのまま床に倒れ伏した。
最後に残った頬傷の男は、一瞬で酔いが醒めた。
煙に包まれたこの空間は、すでに黒い闇と恐怖が支配していた。
震える手で、男は壁に立てかけてあった剣に手を伸ばそうとしたが、すでに武器類は奪われていた。何とか懐の短剣の鞘を払い、抵抗を試みようとしたが、構えることすら許されなかった。
「ぐぁっ!」
蛙が潰れるような汚いうめき声を上げ、男は床に叩きつけられていた。
両腕はまとめてねじり上げられ、侵入してきた黒い影が体重をかけて床に押さえつけてくる。抵抗どころか呼吸すらままならなかった。
「――貴様らの主は誰だ」
黒い影は底冷えのするほど凍りついた声でそう尋ねた。
「てめえはいったい――ぎゃあああ!」
体をよじって背後を振り返ろうとした男は、言い終わる前に悲痛な叫び声を上げた。
質問への回答ではないと判断された瞬間、彼の左足首に刃が突き立てられたのである。
「質問に答えろ」
男を床に押さえつける影――マクシムはさらに冷たく問う。
誘拐犯たちの中で、この傷跡の男が一味の頭だろうと彼は予測していた。
会話や座る位置から表れる上下関係、歩行に支障が出るほどの傷があっても荒事を続けていることからも、直接の実行役ではなく指示役であることは見て取れた。
だからこそ、この男だけは最後に残しておいたのである。
「何のために子供を攫った」
「し、知らねえよ! 俺たちは金で雇われただけだ! 聖女の周りをうろちょろしてるガキを攫ってこいって!」
「……聖女の?」
その一語にマクシムは思わずつぶやいたが、彼の声は痛みに泣きわめく男の耳には入っていなかった。
マクシムが男の足首を刺したのは、単なる拷問ではない。足跡から判断して右足に古傷がありそうには見えたが、念のため左足の腱も切っておくことで、逃走や抵抗の手段を封じたのである。
それだけ冷静に処理していても、聖女の名だけは彼の思考を一瞬止めた。
(――狙われたのは『鴉』ではなく、聖女だった……?)
聖女は確かに崇められる存在ではあるが、何の権限も持たぬ無力な子供に過ぎない。
それがなぜ、狙われる?
理由はわからないが、今は推理よりも捜査を進めるべきである。まずはこの男を連行して、最大限の情報を吐かせよう。そう思った矢先、
「……ぐっ、かっ、ぐああああ!」
濁ったうめき声とともに、男は突然血を吐いた。苦痛に胸を搔きむしり、ひとしきりもがくと、そのまま二度と動かなくなった。
「何だと……」
男を制圧していたマクシムも、さすがにこれには呆然とせざるをなかった。
そして、すぐに卓上に転がる酒瓶を見やる。
このみすぼらしい男たちには不似合いなほど高級な酒。仕事が終わり、多額の前金をはたいて買ったか、それとも差し入れか。どちらにせよ、誘拐が成功すれば飲むであろうことを想定した何者かが与えたことは間違いない。――用済みになった瞬間、手軽に処分するために。
彼はただちに王宮に戻りたい焦燥感に駆られたが、今はそれよりも優先すべきことがある。
床に転がされていたユリウスを抱き起こし、彼は手早く荒縄を切り、猿轡を外した。
「あ……ち、父上……」
すでに騒ぎの中で目を覚ましていたユリウスが、恐る恐るそう尋ねてくる。
「無事だったか、ユリウス」
マクシムは手早くユリウスの全身を調べ、傷を負っていないことを確認した。――それだけがせめてもの救いだった。
「父上がこいつらを全部やっつけたんですか!?」
煙の中では、たとえ目が覚めていても見えてはいなかっただろう。だからこそ、幼い少年は悪人たちが全員倒され、父が救いに来てくれたことを無邪気に喜んでいたのである。
「俺、大きくなったら父上みたいに強くなります! 俺がもっと強かったら、こんな奴らになんか負けなかったのに……」
父に助けられた興奮と同時に、ユリウスは自らの無力さも痛感していた。自分が油断して攫われたせいで、こうして父に迷惑をかけてしまったのだ。そのことをまだ幼い彼でも戒めるべき恥と受け止めたのである。
「……焦ることはない。帰るぞ」
マクシムはつぶやくようにそう言うと、息子の頭をゆっくりと撫でた。
――そう、焦る必要はない。
いずれはこの子も、否応なく『鴉』になるのだから。




