第四話 鴉の子
それから三年の月日が経った。
アウレリアは自分の名への違和感とともに、「レーナ」だった頃の記憶も失っていた。
「ねえ、マクシム。今日はユリウスが花を摘んできてくれるんだって」
初めて王宮に連れられてきた時の困惑と不安の表情は消え、彼女はよく笑うようになった。――マクシムとユリウスの前だけでは。
本当の両親の記憶すらなく、養親である王家は対面すら拒否して放置している。
せめてそばにいる自分が支えねばと、ついつい娘のように愛しんでしまった結果、聖女は護衛騎士マクシムをまるで父のように慕っていた。
「ねえ、マクシム」
嬉しげにそう呼びかけられるたび、彼は愛しさと同時に古傷のような痛みが呼び起こされる。
――彼女をこの鳥籠へ連れてきたのは自分なのだ。
王命であり、たとえ自分が拒否したところで別の者が実行したに違いない。それでも、自身が罪に加担した事実が消えるわけでもないのだ。
アウレリアはお気に入りの甘い果実水を飲みながら、ユリウスが戻るのを今か今かと待っていた。
小さな首をもたげ、彼女は何度も離宮の白い城壁の向こうへと視線を向ける。
聖女離宮。
今はそう呼ばれているが、元は寂れた王宮西外れの一角である。城壁で全方位を囲まれ、外の土を踏めるのは中央の中庭だけ。
聖女はこの鳥籠に囚われている。
マクシムが連れてきたあの日から、アウレリアは聖女離宮から一歩も外へ出ることを許されなかった。
もともと生家でも閉じ込められて育っていたため、彼女は特に不満を言わなかった。それは護衛であり監視役でもあるマクシムにとっては幸いだったが、だからこそいっそう彼の胸のうちを抉る。
(――本来なら遊び盛りのはずなのに)
鳥籠の番人のくせに、憐れみを抱くなど矛盾している。そう自覚していても、日々成長する雛鳥を見ていると彼はつい手を差し伸べたくなるのだった。――それが贖罪から来る衝動だとしても。
そうしてこの日も、いつものように表面上は和やかな護衛任務を終えるはずだった。
しかし、急遽もたらされた一報に、マクシムは顔をこわばらせた。
「……それは本当か?」
家から駆けつけた使用人に、マクシムは声をひそめて尋ねた。中庭でくつろいでいる聖女に聞かせるわけにはいかない。彼は慎重に状況を確認しようとしていた。
「はい……森へ行ったきり、ユリウス様が戻ってこないと……」
その凶報に、マクシムは思わず歯噛みした。
ユリウスは、外に出られないアウレリアが見たがっていた花を摘みに行き、消息を絶ったのだという。いつもであれば先代『鴉』である祖父マグヌスがついているはずだが、この日に限って所用で留守にしていたのである。
家の使用人たちも『鴉』に雇われている以上、手練れを集めてはいるが、それでも幼子を見失ってしまったらしい。
(――本当にそうか?)
不意にマクシムの脳裏に疑念がよぎった。
確かに子供の行動は読みづらく、視界の悪い森林内でははぐれやすいのは事実である。
だが、ユリウスは普通の子供とは違う。
物心ついた時からマグヌスが密かに鍛え、将来の『鴉』にふさわしい挙動がすでに身についている。その息子が、ただの花摘み程度で遭難するとはとても思えなかった。
「……わかった。ひとまず先に戻って捜索範囲を広げておけ」
短く命じて使用人を帰し、マクシム自身はアウレリアの元へ戻った。
あまり長い時間そばを離れていては、聖女に不審がられてしまう。まだ幼い少女を不安にさせるようなことはできるだけ避けたかった。
「どうも、お待たせいたしました」
いつものように穏やかな声でそう告げた――そのつもりだったが、アウレリアは眉をひそめた。
「……何かあったの?」
「いえ、アウレリア様のご心配いただくようなことは何も」
不安げに尋ねる聖女に、彼は表情を消して答える。だが、
「嘘つき」
黄金の瞳がまっすぐマクシムを射貫く。
――神の瞳。
黄金の聖女に備わり、すべてを見抜くと言い伝えられるそれは、マクシムの隠した事実を暴き出した。
「どうして嘘をつくの? ねえ、ユリウスは? どうして帰ってこないの? ユリウスに何かあったんじゃないの?」
「アウレリア様……」
マクシムはそれ以上、何も言えなかった。
嘘をつけばたちまち露見する。かと言って、気休めの言葉は何の意味も持たない。
「……今日はもう遅くなります。ユリウスには明日また来させますので――」
そう言いかけた彼の言葉を、聖女は鋭い声で遮った。
「何で隠すの!? ユリウスはどこに行ったの!?」
それほどまでにユリウスに懐いていたのかと、マクシムは胸がしめつけられた。だが、実際にはそれだけではなかった。
「私の……私のせいなのに……!」
アウレリアは小さな手を握りしめ、その拳でマクシムの胸の下を叩いた。
華奢な少女の拳でいくら叩こうと、鍛え上げられたマクシムの体は小ゆるぎもしない。
だが、その小さな攻撃は、彼の胸の奥に鈍く重い痛みを与えた。
「私がユリウスに言ったの……おひさまの花が見たいって……! だからユリウスが摘みに行ったのに……それでユリウスに何かあったら、全部私のせいなの……!」
黄金の髪が激情に揺れる。震える小さな背中を見下ろしながら、マクシムは低い声を絞り出した。
「……アウレリア様のせいではございません」
「嘘! 全部嘘! 嘘つかないでよ!」
滅多に涙を見せない聖女は、ついに泣き崩れた。
握りしめた拳を小刻みに震わせ、マクシムの広い胸にすがりついたまましゃくり上げる。うなだれ、黄金の髪に隠れた瞳から落ちた大粒の雫が、いくつも地面に染みを作っていた。
「……ねえ、マクシム、お願い……ユリウスを助けて。マクシムがユリウスを助けてあげて……」
震える声で、アウレリアはそう懇願した。
濡れた黄金の瞳がまっすぐ見上げてくる。その視線に、彼はもはや抗うすべを持たなかった。
「――承知いたしました。すぐに捜してまいります」
そう頷くと、アウレリアはようやく表情をほころばせた。
「お願いね、マクシム」
無邪気にすがりつく小さな背を思わず抱きしめようとして、彼は何とか踏みとどまった。
(――何を錯覚している)
彼は自身に言い聞かせる。
この少女は己の娘ではない。聖女を娘扱いするなど不敬である。
――それだけではない。
この汚れた手に、聖女を抱きしめる資格などありはしないのだ。
改めて自身の立場を自覚し直し、マクシムは一礼すると聖女の御前から足早に退出した。




