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俺と琴音さんが住む家には、琴音さん専用の仕事部屋がある。
そこに立ち入ることができるのは、琴音さんと俺、そして担当編集の「みどりさん」くらいだ。
漫画家っていうと、仕事部屋に漫画家とアシスタントが箱詰めになって作業していると考える人がほとんどかもしれない。だけど、今は何でもリモートでできる時代で、アシスタントとのやり取りなんかもチャットアプリで簡単に済ませられてしまうらしい。
琴音さんはいつだったか俺に言っていた。
だから俺は琴音さんのアシスタントに会ったことはない。何なら琴音さんすらも顔を合わせたことがないらしい。便利と言えば便利だけど、ちょっと寂しいところもあるよね、こういうのって。
「琴音さん、行ってきますね」
仕事部屋を外からノックする。作業に集中している時、琴音さんは周りの音に気が付かない。今日の場合はどうかな。
少し待ってみる。ギシ、と椅子が軋む音がして、それから素足が床を踏み締める音が近づいてくる。
扉が開く。琴音さんの下瞼には、くっきりとした隈が浮かんでいる。
「琴音さん、また徹夜したんですか?」
「うん。どうしても、納得できん部分があって……」
琴音さんは凝り性だ。時間が許す限り、ギリギリまで原稿のクオリティをあげようとする。彼女の漫画がたくさんの人に褒められるのは嬉しいけど……ああ、不安だな。
「俺が言わなくても、ちゃんと休憩は取るんですよ。それから、ご飯もちゃんと食べること。分かりましたか?」
「……うん」
今日の琴音さん、何だか元気がなさそうだ。
「どうかしましたか?」
琴音さんはニコッと笑い、頭を横に振った。
「ウチは元気よ。でも……ちょっと充電不足かも」
琴音さんが両手を広げる。いつも彼女の方から抱きついてくるけど、手を広げる時は、俺から抱きしめてほしい合図だ。
俺は琴音さんを抱きしめ、ふわふわの髪の毛を撫でる。
琴音さんはいつも変なコスプレをして俺を「誘惑」してくるけど、やっぱり俺はいつもの琴音さんの方が好きだな。
琴音さんも俺の背中に手を回してくる。しばらくの間、黙って抱き合っていた。
そろそろ出なくちゃと思って体を離そうとすると、琴音さんは服を掴んで俺にしがみついてくる。
「充電、まだ足りませんか?」
「……はーくんを外に出したくない。ウチだけのはーくんにしたい」
「どこにいたって、俺はあなたのものじゃないですか」
宥めるように髪を撫でてみても、琴音さんは俺の肩に頭を押し付けてぐずる。
「はーくんが外に出たら、みんながはーくんのこと好きになってまう」
そんなわけあるか。
琴音さんという彼女ができるまで、俺は童貞だったんだぞ。ちょっぴり昔風の言い方をするなら「彼女いない歴=年齢」ってやつだ。
俺を見つけてくれたのは琴音さんだった。琴音さんは美人で、可愛くて、むしろ俺の方が「みんなが琴音さんを好きになったらどうしよう」って悩むところだろうに、何故だか琴音さんは俺のことが大好きらしい。
まったく。俺も琴音さんのことは大好きだけど、琴音さんも大概だなあ。
ところで、ヤキモチ焼きの彼女がいる時、みんなはどうするんだろう。
あまり人付き合いが得意ではないと断言できる俺だけど、数年の付き合いのおかげで、俺は琴音さんがこんなふうになった時の対処法を知っている。
まずひとつ。スキンシップを欠かさないこと。
そしてもうひとつ。未来の約束をすることだ。
「琴音さん、今日のお夕飯は何が食べたいですか?」
琴音さんは俺に抱きついたまま小さく呟く。
「……肉じゃが。はーくんの作った肉じゃが食べたい」
琴音さんってば、本当に肉じゃがが好きだなぁ。
「分かりました。帰ってきたらすぐに作るんで、それまで待てますか?」
琴音さんはようやく顔を上げた。少し不貞腐れた顔をしつつも、コクリと頷く。
俺は琴音さんの頭を撫でる。
「じゃあ、行ってきますね」
「行ってらっしゃい」
琴音さんに玄関まで見送られ、マンションを出る。
今日は店の定休日だった。竜さんからは「休みの日はちゃんと休め」と言われている(竜さんに言われると説得力が全くない)けど、実は休むのはあまり得意じゃない。
単発バイトで食い繋いでいた時は、少しでも貯金を増やそうと休みを作らずに働いていた。結婚してからも、琴音さんが仕事をしているのに俺だけ休む気にもならず、資格の勉強なんかをしていた。
俺は常に体を動かしていないと落ち着かない性分みたいだ。
そんなわけで、今日もばっちり早朝に目覚めてしまった俺は、いつものように朝食を作り、服を着て、外に出てしまった。なんてことだ。行く場所なんてないのに。
……煌竜に行こうかな。竜さんも休みだろうし、どこかに二人で飲みに行ってもいいかもしんない。
いや、飲食店で働いている人を飲食店に連れていくのはマナー的にはどうなんだろう。仕事を意識してしまって休むにも休めないかもしれない。
というか、休日にまで職場の同僚とは顔を合わせたくないかもしれない。竜さんってマイペースそうだし……。
うーん。やっぱり煌竜に行くのはやめるか。
じゃあ家に戻る? 俺が家に戻ったら琴音さんも喜ぶだろうしね。
いや、それもやめておいた方がいいか。うっかり琴音さんを「過度に」喜ばせてしまったら、原稿をほっぽり出してハッスルしかねない。
うーむ……。
時間を見る。当たり前だが、まだ午前中だ。
俺は悩みまくってから、スマホを取り出し、竜さんに電話をかけた。
*
「ただいまー」
家に帰ると、珍しくも琴音さんはお出迎えしなかった。珍しいこともあるもんだな。ここ最近は毎日チアリーダー姿でお出迎えしてくれたのに。
そんなに仕事が忙しいのかな。……まさか、今朝から元気がなかったし、倒れてるとかじゃないだろうな!
「琴音さん! 琴音さん、起きてますか!」
作業部屋をノックする。返事はない。やばい。マジでやばい。
俺は部屋を開けた。
「琴音さん、大丈夫ですか!」
部屋の中は真っ暗で、デスクランプの明かりひとつついていない。床に倒れていやしないかと部屋中隈なく確認したけど、それらしい姿はなかった。
ど、どうしよう……。
「はーくん?」
背後から声がかかる。振り返ると、肩にタオルをかけたパジャマ姿の琴音さんがいた。
髪の毛が湿っていて、いつもの金髪より少し色が濃くなっている。
「琴音さん……」
よかった。シャワーを浴びてただけか。
「はーくん、帰ってきてたんや。今日仕事やあらへんかった?」
「あれ、チャット送りませんでしたか?」
どこに行くか悩んだ俺は結局、菊子さんのお見舞いに行くことにした。
琴音さんには「午後から休みだから、菊子さんのお見舞いに行ってから帰る」と説明していた。今朝、仕事が休みであることをうっかり伝え忘れていて、後から訂正しても変に怪しませるだけだと思ったからだ。
琴音さんはハッとしたようにスマホを見て、驚いていた。
「ほんまや……ごめん、全然気づけへんかったわ」
琴音さんが俺の連絡に気がつかないなんて珍しい。そんなに作業に集中していたんだろうか。
いや、それだけじゃない。
琴音さんが今の時間にシャワーを浴びること自体、ほとんどないことだ。いつもは俺が風呂を入れてから「はーくん、一緒に入ろ♡」なんて言ってくるのに。
おかしい。何かがおかしいぞ。
「はーくん、どうしたん?」
琴音さんが首を傾げる。
「……いえ、何でもありません」
頭の中にとある言葉が浮かんだ。だけど、琴音さんに限ってそれはあり得ないだろう。
「今から肉じゃが作りますから、少し待っていてくださいね」
肉じゃが、のワードを出すと琴音さんは分かりやすく上機嫌になった。
「肉じゃが、肉じゃが、はーくんの肉じゃが!」
ほら、琴音さんもこんなに喜んでるんだ。琴音さんが浮気をするだなんて、そんなことはありえない。
……。
ズキッと頭が痛くなった。咄嗟に浮かんだ不安を誤魔化すように、琴音さんの頭に手を乗せ、軽く撫でる。琴音さんは顔を真っ赤にして狼狽えた。
「は、はーくん、ウチ、まだ髪乾かしてへんよ!」
「俺が乾かしましょうか?」
少し笑いを含ませながら言うと、琴音さんは頬を膨らませて、
「髪乾かすくらいウチもできるし! はーくんは肉じゃが作ってて!」
と言って、シャワールームへと駆け足で戻っていった。
頭痛は気がつけば、止んでいた。
*
「行ってきまーす」
翌朝、仕事部屋をノックする。今日の琴音さんは時間にも余裕があるようで、すぐに部屋から出て、玄関まで見送りにきてくれた。
「琴音さん。ちゃんと昼ごはんは食べるんですよ」
「うん」
「それから、エアコンの温度は下げすぎないこと。外との温度差で風邪を引きやすくなりますからね」
「うん」
「それから_____」
俺の声を、琴音さんは人差し指1本で封じ込める。俺の口元に当てがうことによって。
「一緒に暮らし始めてからのはーくん、何だかお母さんみたい」
お母さんって……。せめて性別は男にしてくださいよ。
「言うとくけど、ウチやって大人なんやからな。お留守番くらいちゃんとできるんやで」
「そう言って、家電を一気に動かしてブレーカーを落として俺に泣きついてきたのは誰でしたっけ?」
「う……」
「揚げ物をする時に蓋を閉めようとした人は?」
「……」
「生卵をレンチンして爆破させた人は?」
琴音さんは涙目になってぷるぷると顔を震わせる。
「……はーくんの意地悪」
まあ、ひとまず忠告はこのくらいにしておこう。朝から喧嘩をしたいわけじゃない。
「琴音さんに限って、気をつけすぎるってことはないんです。できないことを無理にしようとしないでください。分からないことがあったら俺に連絡をして、返事を待つこと。分かりましたね?」
「はーい」
琴音さんは渋々と頷き、両腕を広げた。
「行ってらっしゃいのハグさせて」
俺は言われた通りに琴音さんを抱きしめた。耳元で「ふへへ……」と情けない笑い声が聞こえる。
ああ、うちの奥さんは今日も可愛い。俺にはもったいないくらいだ。
「じゃあ、今度こそ行ってきますね」
「はーい。行ってらっしゃい!」
ぶんぶんと手を振る琴音さんに見送られながら家を出る。
俺はエレベーターを降りてマンションの敷地から出てから、自分の部屋を振り返った。
「……よし!」
頬を叩く。気合いはバッチリ。さっきのハグで充電ができたのは、琴音さんだけじゃないってことだ。
「今日もいっちょやりますか!」
全ては愛する人のために、二人の未来のために。俺は今日もメイド服に袖を通す。




