3-1
あれは、俺と琴音さんがまだ付き合ったばかりの頃のことだ。
俺は琴音さんの住むマンションに向かうために電車に乗っていた。そして、目的の駅に到着し、改札を抜けた時、俺は到底信じられないものを見たんだ。
メイド服を着た琴音さんが、凛とした佇まいで立っていた。彼女は俺を見つけるなり長いスカートの端を摘み、ぺこっとお辞儀をした。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
今思えば、あれが始まりだった。
俺と琴音さんの、普通ではない恋人の関係は、あそこから始まったんだ。
黒い袖に腕を通した時、俺は立ちくらみを起こした。1秒にも満たないわずかな時間。その瞬間に、これまでの人生の記憶が走馬灯のように頭を駆け巡った。
メイド服を着る琴音さん。女教師の姿の琴音さん。バニーガールの琴音さん。童貞を殺すセーターを着る琴音さん。
……あれ、琴音さんのことばっかじゃない? 10代の頃の記憶はどうしたよ。
まあ、それはともかくだ。
琴音さんの可憐な顔立ちに、黒と白のメイド服はとてもよく似合っていた。あれが外での出来事でなければ、俺はもう少し素直に琴音さんを褒めることができたはずだ。
一方の俺はどうだろう。
鏡に映る自分の姿を収めた瞬間、俺はまた目眩を起こした。
いっそのこと、そのまま気絶してしまいたかった。
*
俺の格好をまじまじと観察し、竜さんは呟く。
「うーん。つまらないね」
「……どうせ似合ってなんかいませんよ」
「いや、その逆。思ったよりも似合ってたから、面白くない」
この人は、俺が男だとバレてほしいのか、ほしくないのか、どっちなんだろう……。
「もう少しユニークなスタイルにしてみよう」
と、竜さんが取り出したのは、黒色のヘアピンとヘアゴムだった。
「これをこうして、こうして……これならいいんじゃないかな」
サッと手鏡を渡される。そこに映っていたのは、短い髪を頭の上で無理矢理ふたつ括りにしている俺だった。
ユニークっていうか、これ……女子小学生みたいですね。
俺が顔を顰めると、竜さんは、
「というのは冗談で」
とか何とか言って、キッチンの下からあるものを取り出した。
「これ、ばあちゃんからのプレゼント」
俺の頭に被せたのは、黒いカツラだ。長い髪を二つに分け、三つ編みにまとめている。
「うん、いいじゃない。これなら立派なメイドさんに見えるよ」
竜さんは手鏡を渡してくる。そこに映っていたのは、なるほど、さっきよりは格段に「女の子らしく」なった俺だった。
もちろん、嬉しくはない……。
「ねえ、やっぱり辞めませんか。わざわざ女装する意味なんてありませんよ」
思わず弱音を吐いてしまう。
「メイド服はこの店のポリシーなんだ。普通の格好をしたら、ただの中華料理屋になってしまうよ」
「別にそれでいいじゃないですか。ご飯だって普通に美味しいんだし……」
「ハオ」
竜さんは顔をぐいっと近づけてくる。だから近いって。
「男に二言は?」
「……ありません」
「じゃあ、着てくれるよね?」
それとこれとは話が違う。
そう言いたかったけど、竜さんの威圧に負け、俺は結局この格好で接客をすることになった。
どこかの誰かも言ってたもんね。「女装は男にしかできない最も男らしい行為だ」って。
もう、こうなったらヤケだ。
男のプライドにかけて、「最も男らしい行為」をやり切ってみせようじゃないか。
開業時間まで、俺は竜さんからこの店の様々なことを教わった。レジの使い方や伝票の種類、ゴミ捨て場など。その後メニューを改めて再確認して、店は11時ぴったりに開かれた。
うう、緊張するなあ……。
どうしよう。ちゃんと上手く応対できるだろうか。失敗しないといいけど。
意味もなく、ひたすら机を布巾で磨いてしまう。
飲食店で働くのはこれが初めてじゃない。だというのにこんなに緊張してしまうのは、己の珍妙な格好のせいと「男だとバレてはいけない」というプレッシャーのせいかもしれない。
そしてこの服、当たり前だけどめちゃくちゃ動きづらい。
長袖だし、裾は長いし、何より白い服だし、カツラだし。
飲食店には全く向いてない服装だ。
でも、そんな格好でも菊子さんは悠々と動いていたのだからすごい。
いや、菊子さんだってやってのけたのだから、俺にできないってことはないはずだ。
ここで働くと決めたのは俺なんだ。
この苦行とも言える時間を乗り越えてみせろ。
気合いを入れるべく自分の頬を叩いた時、ベルが鳴った。店のドアに付けられたベルの音だ。
来た、お客さんだ!
「い、いらっしゃいませ〜」
うう、恥ずい、恥ずかしすぎる……。でもこれも全て、琴音さんとの夫婦生活を円満に送るためだ。頑張れ、俺。
菊子さんと同年代と思われる男性二人組が、俺をじぃっと見てくる。
「あ、あの……」
まさか、俺が男だってもうバレたの!?
穴が開くほど見つめられ戦々恐々としていた俺だが、二人はやがてニコッと歯を見せて笑った。
「そうか。あんたが菊子さんの代わりか」
「へえ、結構可愛いじゃないか」
バ、バレてない……!?
「あ、あはは、どうも、ありがとうございまーす……」
けど、複雑な気分……。
似合ってなくても、似合ってても、やっぱり普通に嬉しくない。
「あんた、ハオって名前なのか。変わった名前だねえ」
男の一人が、俺の胸元に付けられたプレートを見遣る。
「よく言われます。あはは、変わってますよね〜」
「菊子さんのお知り合いかい?」
「ま、まあ、そんなところですね」
これ以上詮索されたら色々と危うい。適度にはぐらかす方法を考えておかないとな。
「ところで、俺が菊子さんの代わりってどこで知ったんですか?」
裏声を維持しつつ尋ねる。
「どこって、店の前に貼り紙があるじゃねえか」
貼り紙?
俺は店の入り口を確認した。すると、いつのまにやら、ドアに貼り紙が貼ってある。そこには達筆な字で
『新人メイドちゃん、仕入れました♪
可愛がってあげてね。by菊子』
と書かれていた。
「……仕入れって、俺は食べ物ですか」
通りがかった人が、俺に好奇の視線を向けてくるる。恥ずかしくなった俺は、慌てて店の中に戻った。
無理だ。大衆の前でこんな格好を晒して堂々としてられるなんて俺には無理だ。
俺は琴音さんみたいにはなれない。
うう、へこたれそうだ。
「ところでハオちゃん、そろそろ注文いいかい?」
「あ、はい、ただいま!」
メイド服に無理やりくっつけていた伝票を開くのを常連の二人は待っていてくれた。メニュー表を指差しながら、俺が注文を間違えないように気にかけてくれている。
「ハオちゃん、困ったことがあったらオレらに言いなよ」
「菊子ちゃんを助けたい気持ちはオレ達も一緒だ。できることなら力になるぜ」
「そうそう。オレたちゃもう、何十年もここに来てるからな。何だったら、竜ちゃんよりもこの店に詳しいかもな」
二人は一斉に笑った。俺は少し、気持ちが軽くなった。
この店を潰したくないって気持ちは、みんな同じなんだろう。
菊子さんが安心して治療に専念できるように、俺も頑張らないとな。……メイド服である必要性はさっぱり分からないけど、これが制服だっていうんだから仕方ない。
それから15時まで、俺は次々と訪れる常連客に冷やかされながら、なんとか接客をこなしていった。
「営業中」の看板をびっくり返し「準備中」に替える。俺は店に戻り、カウンターに突っ伏した。
「やっと休憩だ……」
3年分くらい働いた気分だ。ブランクがあるから、より一層そう思うのかもしれない。
常連さん達は、みんな悪い人達じゃないんだけどな。年齢の割に力が溢れかえっているというか、俺をからかうことに全力を注いでいる感じがする。
おかげさまで、料理を運ぶ傍ら、スマートフォンのレンズを向けてくる彼らにポーズを取ってみせたりする羽目になった。
まったく。「お年寄りは機械を使いこなせない」という偏見を撤回しなければいけないみたいだ。
メイド服を脱ぎ、数時間ぶりに晒された二の腕に空気を送る。
「お疲れ、ハオちゃん。初日から大人気だったね」
「からかわないでくださいよ……」
竜さんはやけに楽しそうだ。
「君を女の子だと思ってる人が今の君を見たら、どう思うだろうね」
ちなみに今の俺はトランクスに上半身裸という、シャワー上がりのオッサンスタイルだ。念入りに毛は剃って(そして排水溝を詰まらせないようにネットを即座に交換して)最低限小綺麗にはしているけど、この格好で外を出歩いたら間違いなく通報されるだろう。
でも、どうしても脱ぎたかったんだ。
家で脱ぐと琴音さんがハッスルするから、薄着でいる機会なんて今しかない。
ああ、薄着最高。この開放感が素晴らしい。
「休憩中に脱ぐのは構わないけど、外から見えないようにしてよ」
「はーい……」
全く。誰のせいでこんな格好をする羽目になったと思ってるんだか。
竜さんが入れてくれたお冷を飲んでいると、ふと視線を感じた。
竜さんが、何故だか熱心に俺の体を見ている。正しくは、俺の体の一部を。
それ、と指さしたのは俺の腹部。
「……何かあったの?」
そこには、遠目でも分かるほどにくっきりとした白い傷跡が残されている。
「えっと、これは……」
俺は手で傷跡を隠した。
「その……盲腸を手術した時の跡、なぁんて……思ったり、してくれないでしょうか」
竜さんは小さくため息を吐いた。
「見なかったことにしておくよ。人には人の事情があるだろうからね」
「……ありがとうございます!」
お許しを頂いたとは言え、意味ありげな傷跡なんて見たくもないだろう。俺はいそいそとタンクトップに着替える。




