第36話 俺たちが押した
押したはずの戦場には、見えていない射線が残っていた。
待機所の床には、門外の土が落ちていた。
乾いた泥が靴底で潰れ、金属の継ぎ目に入り込んでいる。冷却ファンが低く唸り、外装を外した新人たちの肩から、熱と汗の匂いが抜けていく。腕部火器の残熱表示はまだ橙色で、壁際の警告灯が、その焼けた金属を鈍く照らしていた。
壁際の記録端末の前で、教官がログを送っていた。戻ってきた新人たちを一度だけ見て、また画面へ視線を落とす。笑い声が待機所に跳ねても、端末の白い光だけがその手元で流れている。
膝装甲を外しきれないまま、誰かが焦げた肩を拳で叩いた。
「見ろよ、ここ。真正面から受けた跡だぞ」
「それ、敵じゃなくて壁にぶつけた跡じゃねぇの」
「うるせぇ。前にいた証拠には変わらないだろ」
笑いが起きる。別の新人が腕部火器を持ち上げると、橙色の残熱表示が待機所の薄い光の中でまだ滲んでいた。
「俺のもまだ冷えてない。あれだけ撃って、よく焼き切れなかったな」
「撃ちすぎだろ」
「撃たなきゃ押されてたんだよ。正面から黒いのがまとめて来てたの、見ただろ」
「左列、途中から戻ったよな」
「あれは戻したっていうか、押し返しただろ」
飲料パックを握っていた新人の指が止まった。泥のついた膝装甲を、別の新人が拳で叩く。カン、と乾いた音が待機所に落ちる。前に出た。撃った。下がらなかった。その感触が、焦げた装甲と橙色の表示に重なっていく。
カイルは外装の肩を開いたまま、腕部火器の残熱表示をわざと見える角度にした。頬についた黒い粉を手袋の甲で拭うと、外殻の欠片が床へ落ちる。
「見ただろ、左列」
待機所の真ん中で、カイルの声が通った。
「あそこ、俺たちが押した。最初は押されてた。そこは認める。正面から小型が流れてきて、後ろの火線も詰まりかけてた。あそこで誰かが前に出なきゃ、そのまま列ごと押し潰されてたんだよ。けど、俺たちは下がらなかった。前に出て、正面を止めた。火線を切らさなかった。だから列が戻った」
新人たちの視線が、カイルの火器へ集まる。橙色の残熱表示。黒く焦げた銃口。外殻の粉が入り込んだ手袋。カイルはそれを隠そうともしない。
「門上の援護があったのは分かってる。そこまで俺たちだけでやったなんて言ってねぇ。でもな、援護ってのは、前が残ってるから援護になるんだ。前列が崩れて、味方と敵が混ざってたら、上から撃てる場所なんか残らない。俺たちが前で受けて、敵を止めて、射線を作った。そこを間違えるなよ。あそこで下がらなかったから、上の弾も通ったんだ」
「正面は止めてたよな」
端にいた新人が言った。
「俺、後ろから見てたけど、左列が一回踏ん張ったのは見えた。あのまま下がってたら、後ろの火線も潰れてた」
「カイルの火器、音が違ったぞ。あの距離で撃ち続けてたの、普通にやばいだろ」
「グレンも横にいたしな。あれで列がばらけなかったんだろ」
名前を出されたグレンは、壁際で飲料パックの封を切った。薄い封が裂ける音が、やけにはっきり聞こえた。冷えた液体が口に入る。味は薄い。けれど喉を通ったあとで、ようやく呼吸が戻ってくる。
横から流れ込むはずだった黒い影が、残骸の手前で止まった瞬間は覚えている。硬い個体が斜めに崩れ、後続が詰まった瞬間も覚えている。だが、あの時の自分たちは前にいた。火線を切らさず、正面の圧を受け、列を下げなかった。
カイルが顎を向ける。
「グレン、お前も見てただろ。俺の言い方が大きいと思うなら、お前の言葉で言ってみろよ。俺たちが前で止めたから、横も後ろも残った。そうだよな?」
グレンは飲料パックを下ろし、口元についた水滴を親指で拭った。
「カイルの言い方は派手だ。けど、今回は大きく外していない。俺たちは前で受けた。正面の圧を止めた。少なくとも、あそこで左列が完全に崩れていたら、門上の援護は意味を持たなかった。上から撃つにしても、味方の背中と敵の外殻が混ざっていたら撃てない。撃てても、列は戻らない」
グレンの口元へ、いくつもの視線が集まった。カイルの声に乗っていた者たちが、今度はその落ち着いた声へ身を寄せる。
「俺たちは逃げなかった。前で止めた。列を残した。門上の射線は早かったし、助かったのも事実だ。ただ、援護が通るだけの形を残したのはこっちだ。今日の左列を、ただ助けられたで終わらせる必要はない。俺たちは、前線として仕事をした」
飲料パックを握る手に力が入る。誰かが低く息を吐き、別の誰かが「だよな」と呟いた。焦げた腕部火器の橙色を、また一人が見下ろす。
「グレンがそこまで言うなら、本当にやったんじゃねぇか」
「いや、やっただろ。少なくとも逃げてない」
「新人列であれなら、評価変わるよな」
「次から左に回されるかもな」
「望むところだろ」
カイルが笑った。
肩を回し、残熱表示の残る腕部火器を軽く叩く。
「次も左なら、俺たちでいい。後ろで固まってる連中よりは、よっぽど使える。今日ので分かっただろ。前で受けられる奴と、後ろで祈るだけの奴は違う。俺たちは前に出た。押した。戻した。そこを薄めるな」
誰かが飲料パックを持ち上げた。
「左列押し返し組、初戦突破ってことで」
「名前だせぇな」
「だせぇけど、今日はそれでいいだろ」
「生きて戻って、押し返した。十分だ」
笑いが跳ねた。
壁際の端末が、短く鳴った。
教官の指が、表示を止める。待機所の笑いが、ひとつ遅れて細くなった。
「盛り上がるのは構わん」
教官は、端末から目を上げた。
「生きて戻った。前で撃った。そこは褒めていい。新人なら、今日くらい多少は声も大きくなる」
カイルの口元が、わずかに上がりかけた。
だが、教官の視線はそこで止まらなかった。
「だが、的外れな武勇伝をそのまま覚えるな。次に同じことをすれば、死ぬ」
カイルの肩が動く。
「……的外れ、ですか」
「ああ」
教官は端末を壁へ向けた。
「お前たちは前で踏ん張った。そこは事実だ。だが、“押し返した”は違う。今のうちに見ておけ」
照明が一段落ちる。
壁に門下の戦場が映る。音はない。青い点、赤い線、黒い反応、白い射線だけが動いている。さっきまで身体で受けていた戦場が、冷たい線の集まりになっていた。
青い点の列が前へ出る。カイルたちの列だ。正面の黒い反応が二つ消える。さらに一歩、青い列が前へ出る。火線は厚い。前だけ見れば、確かに押している。
カイルの口元が、わずかに戻る。
グレンの背も、少しだけ伸びた。
教官の指が、画面の端を弾いた。
青い列の横が薄くなる。壊れた車両の残骸を避けるように、黒い反応が細く曲がった。正面ではない。横だ。そこへ入られれば、前に出た列は戻れない。
「支援射線を消す」
白い線が、壁の上から消えた。
その瞬間、黒い流れは残骸の手前で止まらなかった。横へ滑り込み、前に出ていた青い列の脇へ入る。青い列はまだ正面を撃っている。前は押している。だが、戻る線が細くなり、赤い警告が青い点の周囲に滲んだ。
孤立予測の文字が、カイルたちの列に重なる。
グレンの手の中で、飲料パックが小さく鳴る。少し潰れた角から、冷たい液体が指に滲んだ。
映像の中で、青い点が二つ、後退線から切り離される。その中に、カイルの識別反応があった。グレンの識別反応も、すぐ横にあった。
教官は声を荒げなかった。
「これが、お前たちだけで押した場合の形だ」
カイルは何も言わなかった。
壁の中では、青い列が前へ出たまま横を抜かれている。正面の黒い反応は消えている。前では勝っているように見える。だが、後ろへ戻る線が赤く閉じていく。
グレンの喉が動いた。
「でも、実際には――」
「そうだ。実際には、そうならなかった」
教官が、もう一度端末を操作する。
白い射線が戻る。門上から一本、落ちる。黒い反応が二つ、残骸の手前で重なるように止まった。後続がそこで詰まり、青い列の横に細い隙間が残る。次に短い白線が三つ落ちる。回り込もうとしていた黒い点がずれ、絡まり、門下の火線に飲まれて消える。
硬い黒い反応が前へ出る。
白い線が、その脚へ入る。巨体が斜めに崩れ、後続を塞ぐ。青い列がようやく後退線の内側へ戻った。
教官は、まだ映像を止めなかった。
壁の右端に、射撃記録が開く。数字が一列に並び、待機所の薄い光の中で白く浮いた。
射撃回数、二十三。撃破確定、十九。行動停止、十八。有効停止、三十七。同時複数処理、九。二対象貫通、六。三対象貫通、三。後退線維持、四回。孤立予測解除、二回。味方誤射、なし。
カイルの腕部火器は、まだ橙色の残熱を出している。
「二十三発だ」
教官の声が落ちる。
「二十三発で、三十七の敵を止めている。二枚抜きが六回。三枚抜きが三回。撃った数より、止まった数の方が多い」
カイルの喉が動いた。
教官は、壁に残る青い列を指で示した。
「お前たちは前で撃った。そこは事実だ。だが、この白い射線は敵を倒しただけじゃない。後退線を四回残し、孤立予測を二回消している」
短い沈黙が落ちた。
「撃破数で見るな。戻れた理由を見ろ」
そこで、映像が止まった。
壁の中には、前に出すぎた青い列と、それを横から守るように落ちた白い射線が残っていた。
「前で踏ん張ったのは事実だ」
カイルの肩が、ほんの少し戻りかける。
「だが、戻れる形にしたのは、お前たちじゃない」
戻りかけた肩が止まった。
グレンは、壁から目を離せなかった。
さっき自分は言った。こっちが前を止めたから、横も詰まったのだと。門上の射線は、自分たちが作った形に乗っただけだと。
違った。
順番が逆だった。
白い射線が横を止めたから、前に出た自分たちは戻れた。
カイルが、絞るように言った。
「誰が……撃ったんですか」
教官は端末を操作した。
画面の右下に、射撃担当の欄が開く。
試験運用区画。固定砲台型狙撃スーツ。射撃担当、リゼル。
カイルの目だけが動く。
「……あいつが?」
その声には、怒りより先に、理解できなさが混じっていた。
グレンも言葉が出なかった。リゼル。門上。固定砲台型狙撃スーツ。さっきまで、自分たちの前線の話として扱っていたものが、一気に別の形へ組み替わっていく。
カイルはそれでも、何か言おうとした。
「上から撃ってただけだろ。こっちは前で受けてた。俺たちが正面を止めてなきゃ、あいつだって――」
「その逃げ方はやめておけ」
声は、入口の方から来た。
門上にいた兵士だった。肩装甲には薬莢の擦れ跡があり、首元にはまだ煤が残っていた。手には飲料パックを持っている。彼もまた、教官と同じように、しばらくそこで聞いていたらしい。
カイルが振り返る。
「何だよ」
「ライバルだと思うなら、お門違いだ」
カイルの眉が寄る。
「誰がライバルなんて言った」
「顔に出てる。次は借りを作らないとか、上から撃ってただけだとか、そういう逃げ道を探してる顔だ」
カイルの拳が固まる。
門上兵士は、馬鹿にするようには笑わなかった。
「あいつは、お前らを見て勝った負けたなんて考えてない。下の誰が前に出たとか、誰が手柄を取ったとか、そういう顔じゃなかった。見てたのは、戦場の流れと、味方が戻れる線と、撃ったあとの数字だ」
グレンの喉が動いた。
カイルは黙っている。
兵士は飲料パックの封を切り、少しだけ口をつけた。それから、壁に残った射撃担当の表示を見る。
「戦闘が終わって、門外の圧が抜けて、こっちは全員しばらく黙ってた。あの黒いのを見てな。けど本人は、端末の最後の行を見てた」
「最後の行?」
グレンの声が出た。
「弾薬消費、警告域手前」
兵士は言った。
「それ見て、“高いな”って」
カイルの口が、わずかに開いた。
「……は?」
「あれだけ撃って、横を塞いで、硬い個体を壁にして、奥の起点まで消しておいて、最初に気にしたのが弾代だ。助けてやったって顔でもない。手柄を取った顔でもない。赤字にならないかって顔だった」
カイルの唇が動いた。
だが、声にならなかった。
壁には、まだ射撃担当の名前が残っている。
リゼル。
その近くに、弾薬消費の警告域手前という文字が並んでいた。自分たちが欲しがっていた手柄のすぐ隣に、あいつが見ていた数字が置かれている。
グレンの手の中で、飲料パックがまた小さく鳴った。中身がまだ半分残っているのに、潰れた角から冷たい液が滲んでいる。
誰も笑わなかった。
教官は端末を閉じた。
壁のログは消えた。
それでも、カイルの目はまだ壁に残っている。グレンも同じ場所を見ていた。
白い射線が消えたあとの青い点。
前に出たまま、戻れなくなる自分たちを。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
前で踏ん張った者たちと、上から戻る線を残した者。
同じ戦場にいても、見えていたものは違いました。
次回、戦場の評価は少しずつ変わっていきます。
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