第32話 足跡のない足
走れることと、帰れることは違う。
頭部保護具は、思ったより重かった。
顎の下で固定具が鳴る。胸には衝撃を散らす保護材。腰には姿勢保持用のベルト。アリアは医療パッチのケースを開いたまま、ジンは端末の前でホバーバイクの仮想機体を起動していた。
「本当に転ぶ前提なんだな」
「まずはシミュレーターです」
アリアが端末をこちらへ向けた。
「ホバーと固定砲台型狙撃スーツの基礎操作データを、ナノマシン側に共有します。実機に乗る前の最低条件です」
「実機じゃないのか」
ジンが鼻で息を抜く。
「いきなり外で乗せたら、俺が怒られる。お前が潰れるか、予算が潰れるか、どっちかだからな」
「俺より予算か」
「どっちも大事だ。順番は日による」
否定しきれないところが腹立つ。
仮想機体のシートに身体を固定されると、視界が白い床へ切り替わった。端には青い走行ライン。足元には推力表示、姿勢角、荷重位置、停止距離が並んでいる。
平地走行は三本目で合格になった。
凹凸地形コースでは、接触判定が五回。転倒判定が二回。最後の一本だけ、規定速度を落としすぎずに戻ってこられた。
固定砲台型狙撃スーツの基礎訓練も、その後に入る。
構え、固定脚の展開、安全解除、照準保持。実弾ではない。肩と背中に返る反動も仮想のものだ。それでも、固定した瞬間に視界が狭まり、照準の揺れが呼吸に合わせて動く感覚だけは、妙に生々しかった。
結果は、どちらも初回搭乗者として高評価。
ホバーは姿勢復帰と推力差への反応が基準値を超え、狙撃スーツも照準保持と反動予測は基準内。ジンは端末の数値を見て、片眉を上げた。
「……初回でこれかよ」
「悪いのか?」
「悪くねぇから腹が立つんだよ。凹凸コースまでこの点で通す新人は少ない。狙撃スーツの基礎も、数字だけ見りゃかなり良い」
アリアも端末を閉じなかった。
「特に、警告表示が出る前の補正入力が多いです」
「警告より前?」
「はい。機体側が異常として出す前に、入力が入っています」
自分では、そこまで綺麗にやったつもりはない。
ただ、画面の中なら情報が揃っていた。地面の高さ、機体の傾き、推力の遅れ、速度、停止距離。数字と視界の流れが合えば、危ない角度は読める。
けれど、それは整えられた場所の話だ。
「これなら、ホバーはいけるよな」
俺が言うと、アリアが壁の表示を切り替えた。
映ったのは、門外外周の記録だった。
防衛砲の着弾跡。装甲車両の残骸。引きずられた外殻片。エイリアンが掘ったらしい穴。踏み潰され、乾いて固まった黒い体液。
どれも、仮想コースのように整った障害物ではない。
「シミュレーターでの評価は高いです。ですが、門外は管理された地形ではありません」
アリアの指が、門外の記録をなぞる。
「戦闘のたびに地面は変わります。残骸、死骸、着弾跡、穴。昨日通れた場所が、今日も同じ形で残っている保証はありません」
「それを全部、シミュレーターで再現できないのか」
「できます。ただし、時間と費用がかかります。そこまでしても、次の戦闘でまた変わります」
ジンが横から口を挟んだ。
「分かっただろ。ホバーが流行らなかった理由だ。性能は悪くねぇ。むしろ高い。だが、命がかかる場所で毎回違う地面を拾い続けるのは難しいんだよ」
アリアはホバーの推力図を重ねた。
「価値は、道ではない場所を抜けられることです。その代わり、搭乗者が地形の乱れ、推力の遅れ、姿勢の崩れを即座に拾う必要があります」
端末上で、俺のログだけが拡大される。警告表示より前に入った補正入力。推力差が赤に変わる前の腰部反応。減速指示が出る前に戻された機体角度。
「あなたは、仮想環境ではその反応が出ています。だから、門外で試す価値があります」
「試す価値、か」
「はい。ただし、走れる保証ではありません」
ジンの小型ドローンが起動した。
「成績表は悪くねぇ。だから次は現場だ」
「今の説明を聞いたあとで、それを言うか」
「聞いたから言ってんだよ。価値を見せろ。仮想環境だけ上手いです、じゃ予算は続かねぇ」
アリアはその会話には入らなかった。
端末の別回線に指を滑らせ、門の管制へ短い認証を送っている。俺の視界には共有されない。何かの確認欄が二つ、彼女の端末の上で潰れた。
守ってもらっている、という感じはしない。
外に出すための管理手順。
そのくらいの温度だった。
門が開いた。
内側の床が切れ、外の土の色が見える。空気が変わる。乾いた鉄と、焼けた樹脂と、土の匂いが混ざっていた。
門外に、まともな道は残っていなかった。
舗装の名残はある。だが、白線も端も削れている。防衛砲の着弾跡が浅い穴になり、踏み潰された外殻片が黒く地面にめり込んでいた。盛り上がった土の横に、何かが這ったような溝が走っている。
ここは通路ではない。
何度も押し返し、何度も撃ち、何度も踏み荒らされた、門の外側だった。
俺はホバーバイクに跨った。
腰部固定具が締まり、足元の固定板が靴を挟む。フレーム下の推進板が震え、機体が数センチ浮いた。
足の裏から、地面の重さが消える。
その感覚だけは、仮想環境よりずっと気持ち悪かった。
『平地用の基礎データは入れた。ナノマシンの姿勢補助も動いてる。だが、外の地面までは入ってねぇ』
ジンの声がドローンから落ちてくる。
『ここから先は、お前が拾え』
「簡単に言うな」
『簡単なら予算はいらねぇよ』
俺はハンドルを前へ倒した。
ホバーバイクが滑り出す。
最初の数メートルは、思ったより素直だった。地面の小さな割れ目を拾わない。車輪なら跳ねるはずの外殻片の横を、機体は薄く浮いたまま抜ける。
靴底が地面を叩く音も、車輪が石を噛む音もない。推進板の下で空気が鳴るだけだ。だが、腹の奥には振動が来る。仮想環境にはなかった地面の汚さが、空気の厚みに変わって戻ってくる。
左前方に、浅い穴があった。
右には盛り上がった土が残っている。まっすぐ進めば、推進板の下の空気が抜ける。右へ逃げれば、土の斜面で片側だけ浮きが変わる。
俺は右へ逃げた。
機体が少し遅れる。腰の固定具が肋骨の下を引いた。警告はまだ出ない。けれど、右の推進音だけがわずかに高くなる。
遅い。
このまま戻すと、戻しすぎる。
ハンドルを切りすぎる前に、腰を先に戻した。機体が斜めに流れ、外殻片の黒い塊をかすめる。
表示に黄色が灯ったのは、その後だった。
右推力偏差。姿勢補正。
『今の、仮想環境の動きじゃねぇな』
ジンの声が低くなる。
「何が」
『表示より先に戻した』
「嫌な感じがしただけだ」
『その嫌な感じに金が出るかもしれねぇんだよ』
返事をする余裕はなかった。
次の区画は、もっと悪い。
斜めに沈んだ金属板が、地面から半分だけ出ている。その隣には、乾いた土の小さな丘。丘の裏側は見えない。仮想環境なら、裏の形までデータで分かる。ここでは、見えた瞬間に判断するしかない。
速度を落としすぎれば、足としての価値がない。
速度を上げすぎれば、止まれない。
俺は息を詰め、金属板の右端を抜けた。機体が浮きすぎる。腹が持ち上がり、ハンドルが軽くなった。支えが薄くなる感覚が、腰の奥へ遅れて来る。
まずい。
身体を前へ入れ、押さえ込むように重心を落とした。ホバーバイクの鼻先がわずかに沈み、推進板の音が低く戻る。
左膝の横を、折れた金属の角が流れていった。
当たれば転ぶ。
だが、当たらない。
まだいける。
そう思った瞬間、視界の端で土が動いた。
穴の縁だった。黒い外殻が、乾いた土の下からずれた。石か、壊れた装甲片だと思っていたものが、内側から開いていく。薄い脚が何本も地面を掻き、砂を散らした。丸まっていた胴がほどけるたび、節の隙間から濡れた色がのぞく。
端末の端に、赤い反応が灯る。
小型外殻種。
文字は読めた。読めたのに、意味が遅れてきた。
生き物だった。
画面の中の敵ではない。訓練用の標的でも、ゲームのポリゴンでもない。土の匂いがする場所で、脚を動かし、殻を開き、こちらへ向きを変えている。
喉の奥が塞がった。手袋の中で、指がハンドルに張りつく。
これと戦うのか。
俺は、こんなものと。
足が地面についていたら、たぶん動けなかった。腰に銃があったとしても、まともに構えられる気がしない。ゲームなら照準を合わせて撃つだけだ。だが、現実のこれは違う。外殻のどこを撃てば止まるのか分からない。撃つ前に詰められるかもしれない。弾かれるかもしれない。外して、あの脚が届いたら終わりだ。
死ぬ。その前に、痛い。
そんな当たり前のことが、遅れて腹の底へ落ちてきた。
『外殻虫だ』
ジンの声がドローンから落ちた。さっきまでの軽さは消えている。
『止まるな、リゼル。返事はいらねぇ。左へ抜けろ。門に連れて戻すな。そこで固まったら食われるぞ』
返事は出なかった。
ホバーの振動が腰に来る。機体はまだ浮いている。地面には足をつけていない。ホバーだけが、今の俺とあれの間に挟まっていた。
端末の端に進路候補が表示される。左の溝沿い。門前の直線ではない。防壁側へ連れて戻るな、という意味だ。
『音を跳ねさせるな。追わせるなら、門じゃなく外周へ流せ。お前が戻る場所と、あいつが向かう場所を分けろ』
ジンの声が硬い。
頷く余裕もなく、ハンドルを左へ押し込んだ。
逃げるしかなかった。
溝の縁は不規則だった。片側は崩れ、片側は固まっている。車輪なら落ちる。脚なら足を取られる。ホバーなら、踏まずに抜けられる。
分かっているのに、視界の端が狭い。
背後で乾いた土が跳ねる。外殻虫が動く。追ってくる。足音は軽い。だが、速い。地面を叩くたび、背中の皮膚が内側から縮んだ。
速度を上げすぎるな。跳ねるな。止まるな。
頭の中で言葉だけが転がる。俺はハンドルを押し込み、溝の上を斜めに抜けた。右推力が抜ける。腹の奥が落ちる。機体が沈んだわけではない。だが、足元の支えが一枚薄くなったような感覚があった。
警告はまだ出ない。
先に腰を戻す。
機体が遅れてついてくる。穴の縁が左へ崩れ、右には盛り上がった土が残っていた。見た目より中央が細い。だが、推進板の下に空気が残るのはそこしかない。
ハンドルを切るより先に腰を戻し、機体を中央へ滑り込ませた。
白い表示が視界の端で震える。
推力差、許容限界接近。姿勢補正、遅延。速度、維持。
まだ赤くない。
背後の足音が一つ乱れた。溝を踏んだのか、外殻虫の動きが少し遅れる。そこで初めて、肺に少しだけ空気が入った。
俺はその音を聞いて、進路を変える。門へ一直線には戻らない。割れた外壁片の列を斜めに抜け、地面の硬い場所を避けた。
ホバーは、足跡を残さない。その代わり、少しでも乱せば音が跳ねる。
難しい。
怖い。
それでも、使える。
門の影が近づいた。端末の端で、追跡反応が薄くなる。防壁側の射線には入っていない。赤い点が、遅れて外周側へ流れた。
『抜けた。最後まで落とすな。門前で転けたら、今の全部が台なしだ』
返事はしなかった。
最後の段差。
門の前は、防衛車両の出入りで地面が硬く押し潰されていた。平らではない。硬い波のような跡が残っている。
機体が跳ねる。
腹の奥で、また嫌な軽さが来た。
俺は速度を落とし、身体を起こす。推進板の音が低くなる。門の内側の床材が見えた。
人工の白。
まっすぐで、硬くて、退屈な床。
そこへ滑り込んだ瞬間、腰の固定具が緩んだ。
機体が止まる。
汗が、手袋の中に溜まっていた。ハンドルを握ったまま、息を吐いた。吐いたつもりだった。だが、喉の奥で引っかかり、肩が一度だけ跳ねる。遅れて、指の力が抜けた。
転ばなかった。追いつかれなかった。ただ戻ってきただけだ。
それなのに、口の中が乾いている。さっき見た脚の動きが、まだ目の端に残っていた。ゲームじゃない。数字でもない。あれに触られたら痛い。死んだら、終わりだ。
ジンのドローンが、俺の前へ回り込んだ。
『生きてるな』
「……勝手に殺すな」
声が少し掠れた。
ジンはすぐには笑わなかった。
『接敵した瞬間、入力が一瞬死んだ。そこから左へ逃がした。だから記録になる』
「嫌な記録だな」
『命が残ってる記録は、だいたい嫌なもんだ』
アリアが近づいてきた。端末には、門外の走行ログが並んでいる。
転倒なし。接触なし。門前射線誘導なし。
その下に、赤い注記があった。
警告表示前補正入力、複数回。
初回接敵時、入力遅延。
追跡反応後、進路修正。
アリアは門外の地形ログと、俺の入力線を重ねた。外殻虫が動いた瞬間だけ、入力線が細く途切れている。
「合格とは言えません。停止距離、連続旋回時の推力差、追跡反応後の進路選択。どれもまだ不安定です」
「駄目ってことか」
「違います。初回接敵時、入力は遅れました。ですが、その後に防壁側へ逃げ込まず、外周へ流しています。恐怖反応は当然です。問題は、恐怖が出た後に戻れるかどうかです」
端末上の線が、赤い点を避けて斜めに流れていた。
「あなたは、戻しています」
褒めている声ではなかった。記録を読んでいる。生き残った理由を、冷静に拾っている。
「平地用の搭乗者ではありません。外周で拾える反応があります。足になる可能性はあります。ただし、まだ仕事には出せません」
否定ではない。
許可でもない。
その距離が、今はありがたかった。
『初めて実物を見て何も感じない奴の方が危ねぇ。怖がって、それでも戻したなら、検証対象としては悪くない』
ジンの声に、いつもの軽さが戻りかけていた。
「人間扱いは?」
『そこも一応してる』
「一応かよ」
『お前が消えたら検証が止まるからな』
少しだけ息が楽になった。
俺はホバーバイクから降りた。足が床についた瞬間、地面の重さが戻ってくる。さっきまで数センチ浮いていただけなのに、床を踏めることがやけに重かった。
アリアは端末を閉じかけて、指を止める。
「リゼルさん」
「何だ」
「ホバーの基礎運用。それと、固定砲台型狙撃スーツの実地評価。この二つが合格点を超えた場合、回せる可能性のある仕事があります」
俺は顔を上げた。
「仕事?」
「現時点では、候補です。今のあなたには、まだ回せません」
それ以上は言わなかった。
仕事の中身も、報酬も、危険度も出さない。ただ、端末を完全には閉じない。
ジンが言う。
『上手くいけば仕事だな』
「まだ中身も聞いてない」
『聞けるところまで行け。今のお前には、まだ回せねぇって言われただろ』
「分かってる」
『なら、次も転けるなよ。チップを消した分くらいは走れ』
「やっぱり根に持ってるだろ」
『持ってねぇ。予算を覚えてるだけだ』
俺は門の外を振り返った。
割れた舗装。盛り上がった土。砲撃跡。外殻虫が動いた穴の縁。
画面の中では、敵は敵だった。近づかれたら距離を取り、硬ければ武器を変え、足が速ければルートを切る。そういうものとして見ていた。
でも、現実の敵は違った。
届く距離に入れば、あちらも届く。撃つ前に詰められるかもしれない。弾が外殻に弾かれるかもしれない。痛みも死も、画面の向こうには置いていけない。
人間の身体ひとつで近づく世界じゃない。
だから、距離がいる。装甲がいる。撃つ場所を、自分で選ぶ必要がある。
ホバーは、ただ速い乗り物じゃない。足跡を残さず、壊れた地面を踏まず、襲われる前に戻るための足だ。
まだ仕事には出せない。
けれど、足は動いた。
なら、次は撃つ方だ。
俺はアリアの端末に残った、もう一つの機体図へ目を移した。
固定砲台型狙撃スーツ。
長い銃身。膝を固定する脚部フレーム。腰から背中へ伸びる反動吸収機構。
近づかずに撃つ。
倒して終わりじゃない。撃って、拾って、逃げて、黒字で帰る。
あれと同じ地面に立たないために。
次は、こっちを試す番だった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
足跡を残さない足は、外の怖さを知って、少しだけ形になりました。
次回、固定砲台型狙撃スーツの実地評価です。
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次の話へ進む力になり、とても励みになります。




