第31話 地面に残る足
飛べることと、帰れることは違う。
壁の高速軽空戦機は、まだ青い線で回っていた。
速度欄の数字だけが、目の奥に残っている。軽く、速く、地上の敵より先に位置を変えられる機体だった。それでも、俺の指は費用欄の前で止まっていた。
機体を動かす前に、空そのものが金を食う。高性能AIを積めば一人運用に近づけるかもしれない。だが、そのAIは機体より高く、重空中砲撃艦や指揮機へ回されるような代物だった。
ジンは端末を指で叩いた。
「それに、お前は一人だ。お前、ぼっちじゃん」
「いや、ぼっちじゃないだろ」
言葉が先に出た。
俺はジンを見て、それからアリアを見た。
「今なら、二人いる」
ジンの口元が、返しかけた形のまま止まった。アリアの指も、端末の上で動かない。
送風音だけが、壁際で細く鳴っていた。
「……お前な」
「何だよ」
「俺は開発側。こいつは管理側。戦場でお前の隣に座る人員じゃねぇ」
アリアが視線を端末へ戻し、条件欄の“管制補助”を拡大した。
「支援は可能です。ただし、搭乗員、管制補助、整備班、帰投誘導、空域管理の代替にはなりません」
「じゃあ、人数には数えられないのか」
「少なくとも、空ユニットの運用人数には入りません」
なるほど、と言いかけて、机の端にある黒い決済タグが目に入った。
人が足りないなら、増やせばいい。金で試験機を動かせるなら、人も雇えるのではないか。整備、管制、横に座るやつ。そういうものも、全部金でどうにかなるのではないか。
そう考えた瞬間、言葉が先に出ていた。
「このチップで、人は雇えないのか。整備とか、管制とか、横に乗るやつとか」
ジンの目つきが変わった。
「雇える」
返事が早かった。
「雇えるし、契約もできる。場所を選べば、奴隷だっている。だが、お前が欲しいのは空ユニットの横に座らせられる人間だろ。管制ができて、戦場で黙らず、裏切らず、五枠のことを見ても変な欲を出さない奴だ」
ジンは指で条件欄を叩いた。
「そんな奴が、安く転がってると思うか?」
言葉が止まった。
アリアが端末を見たまま補足する。
「高い適性を持つ人材は、基本的に前線、整備局、企業部隊、研究機関のいずれかに登録されています。未所属で残っている場合、能力、信用、経歴のどれかに問題がある可能性が高いです」
「奴隷なら?」
「教育に時間がかかります。信頼関係もありません。空中戦力の管制補助に使うには危険です」
ジンが頷いた。
「信頼できない仲間ほど怖いもんはねぇぞ。敵なら前から来る。味方面した奴は背中側に立つ」
黒い決済タグの角に、天井の光が細く乗っていた。
金で人は集められる。だが、金で信頼までは買えない。能力を見せれば、能力を欲しがる奴も来る。金持ち、権力持ち、企業の連中、戦区スポンサー。俺の五枠を便利な道具として見た奴らが、味方の顔で近づいてくる。
ジンがそこまで言わなかったとしても、意味は分かった。
「お前のその能力を大っぴらにするのは危険だ」
ジンの声が、投影機の音の下に落ちた。
「お前を嫌う奴も出る。お前を使い潰したい奴も出る。能力そのものを手に入れようとする奴も出る。金と権力を持った面倒な連中は、便利なものを放っておかねぇ」
アリアが条件欄を閉じずに言う。
「契約上の味方が、実質的な味方であるとは限りません」
「味方のふりした敵か」
「契約内容によっては、敵より対応が難しくなります」
その言い方で、喉に残っていた反論が止まった。
敵なら撃てばいい。逃げればいい。距離を取ればいい。だが、契約上の味方は同じ機体の横に座る。帰投ルートを知る。五枠の使い方を見る。俺が何を拾い、何を隠し、どこで迷うのかまで見える。
それを金で買う。
口に出した瞬間、黒い決済タグがひどく軽いものに見えた。
ジンが、今度はアリアを顎で示した。
「本気でサポートが欲しいなら、そこにいる奴をおすすめする」
アリアの指が止まった。
「私は管理担当です」
「だからだよ。管制、費用、安全基準、装備ログ、報告書。こいつはお前が一番見たくないところを全部見る」
「最悪の紹介だな」
「最高の適性紹介だろ」
アリアは端末に視線を戻した。
「正式な同行契約は未承認です」
俺はその言い方に引っかかった。
「未承認ってことは、申請すれば通る可能性はあるのか」
アリアは答えるまで、少しだけ時間を置いた。
「現時点では、検討事項です」
ジンが口元だけで笑った。
「ほらな。完全に無しなら、こいつは無しと言う」
「今のは希望として受け取っていいのか」
「管理上の留保です」
「言い方が便利すぎる」
空気が少しだけ戻った。
だが、壁の条件欄は消えていない。
空域許可。
識別信号。
通信応答。
帰投ルート申請。
離着陸誘導。
燃料管理。
格納庫。
整備班。
墜落時回収。
保険区分。
出撃命令対象。
項目の多さに、目が止まる。
機体の値段ではない。速度でもない。火力でもない。空に上がるための周辺条件が、壁の半分を埋めていた。
「通信が切れたら?」
「正体不明機として扱われる可能性があります」
「味方に撃たれるのか」
「正体不明機は危険です」
短い返答だった。
それだけで十分だった。
俺は黒い決済タグに視線を落とした。さっきまで試験機を動かせる鍵のように見えていた板だ。だが、壁に並んだ空域許可、識別信号、整備班、出撃命令の文字の前では、ただの認証片でしかない。
「五枠は強い」
ジンが言った。
軽い調子ではなかった。
「弾薬をしまえるかもしれない。回収物も、緊急物資も、予備部品も、機体側の積載を無視して扱えるかもしれない。場合によっちゃ、所有物で無人なら機体そのものをしまえる可能性もある。そこは異常だ。俺も認める」
ジンの指が、壁の赤い項目を順に示す。
「だがな。空域許可はしまえない。識別信号もしまえない。管制も、整備班も、格納庫も、帰投ルートも、信用も、人員も、五枠には入らない」
言葉が、機体図より重かった。
アリアが低空攻撃機の欄を開く。
胴体中央に大型の昇力ファンを持ち、後部左右に可動式の推進器を張り出した機体だった。細い戦闘機というより、腹で空気を掴む形をしている。
俺はその図を見て、前世の記憶を引っ張った。
「戦闘機というより、ヘリに近いな。アパッチを戦闘機寄りにした感じか」
「低空攻撃機です」
アリアが補足する。
「中央の昇力ファンで低速時の姿勢を保ち、後部左右の可動推進器で移動します。対地攻撃が主目的ですが、操縦と火器管制の技量次第で空中型にも対応できます」
「強そうだけど」
「人気は高くありません。操作が難しく、役割が分かりにくい機体です。高速軽空戦機ほど速くなく、汎用空戦機ほど万能でもなく、対地掃討機ほど火力特化でもありません」
ジンが画面を横から覗き込む。
「扱える奴が使えば化ける。扱えない奴が乗ると、中途半端な音のうるさい的だ」
「言い方が悪い」
「だが事実だ」
低空攻撃機の図を見ていると、確かに癖の強さは分かった。中央ファンで浮き、後部推進器の角度で滑る。低空で粘れるが、音も熱も出る。操作を間違えれば、速いわけでも硬いわけでもない。扱える者には武器になるが、扱えない者には高い失敗になる。
俺はその欄から視線を外した。
「俺が欲しいのは、これでもないな」
ジンが片眉を上げる。
「回収ユニットもあるぞ。低空で拾うための支援艇だ。お前が欲しいのはそっちか?」
「違う」
答えはすぐ出た。
「回収は五枠と回収ボックスでどうにかなる可能性がある。問題は、拾ったあとだ。帰る足がないと意味がない」
ジンはそこで口元を少し動かした。
「そうだ。それが分かってるなら、空は今のお前には重い」
壁の一覧がゆっくり閉じていく。高速軽空戦機、汎用空戦機、低空攻撃機、対地掃討機、重空中砲撃艦、空中輸送艇。どれも強い。どれも欲しくなる理由がある。
だが、俺の今の条件には乗らない。
金だけではない。腕だけでもない。五枠だけでも足りない。空へ上がるには、空の制度と、空の敵と、空の戦争まで引き受ける必要がある。
「空は強い」
ジンが言った。
「だから組織の装備なんだよ。個人が移動用に持つには、周りの意味が重すぎる」
俺は壁の消えた部分を見た。
欲しいとは思う。
今でも、あの高速軽空戦機には惹かれる。地形を踏まず、敵の群れを越え、包囲を抜けられるなら、それは俺の理想に近い。
だが、理想に近いからこそ、今の俺には遠い。
「……今は無理だな」
声にすると、ようやく腹に落ちた。
アリアが端末の空軍系一覧を閉じる。残ったのは、最初に表示されていた二つの機体図だった。
試作ホバーバイク。
固定砲台型狙撃スーツ。
ジンがホバーバイクの表示を拡大した。細いフレーム、低い重心、地面との隙間を保つ姿勢制御部。空は飛ばない。高くも上がらない。地上から完全には逃げられない。
それでも、車輪よりは地形に縛られない。
「空そのものは無理だ」
ジンが言った。
「だが、考え方は捨てるな。お前が欲しいのは空じゃない。地形に縛られない移動手段だ。入る場所を選んで、戻る場所を残すための足だ」
「ホバーか」
「そうだ。飛ばない。だから空の戦力には数えられにくい。落ちても地面が近い。空域許可も迎撃命令も、空軍ほど重くない」
「落ちる前提で話すな」
「乗れば分かる」
アリアがホバーバイクの仕様を横に出した。
「火力搭載量は限定的。荷重変化に弱く、急旋回や急停止時の姿勢制御に難があります。回収物を持った状態、被弾後、片側推進器の出力低下時は特に不安定です」
「悪いところばっかり出るな」
「必要な情報です」
「いいところは?」
「段差、瓦礫、浅い地割れ、悪路をある程度無視できます。走行音も通常車両より小さい。戦闘用ではなく撤退用として見れば、価値があります」
撤退用。
その言葉で、壁の表示がようやく俺の方へ戻ってきた気がした。
空には届かない。
だが、地面に残ったまま、地形に縛られにくい足を持つことはできるかもしれない。
勝つための機体ではない。帰るための足だ。
それなら、俺に合っている。
ジンが端末を閉じると、壁の光が一段落ちた。ホバーバイクの輪郭だけが残る。薄い青い線の下で、黒い決済タグがまだ机の端にある。
「じゃあ次は実機だな」
ジンの声が戻っていた。
嫌な予感がして、俺はアリアの端末を見た。医療パッチの在庫欄が開いている。
「おい」
「転倒時の処置確認です」
「まだ転ぶって決まってない」
ジンが笑う。
「まずは、落ちるところからだな」
「その言い方、やめろ」
アリアは医療パッチの数を確認したまま、淡々と追加した。
「頭部保護具も必要です」
「まだ始まってないんだが」
「始まる前だから確認しています」
俺は壁のホバーバイクを見た。
空ではない。だが、今の俺が触れる移動手段は、たぶんここから始まる。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
届きそうで、届かない。
今回はそんな空の話でした。
次回は、リゼルが実際にホバーバイクへ触れていきます。
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