第30話 空の条件
空は、逃げ道に見えた。
けれど、この世界で空へ上がるには、別の意味がある。
壁には、まだ二つの機体図が残っていた。
試作ホバーバイクと、固定砲台型狙撃スーツ。片方は地面すれすれを滑るための細い骨格で、もう片方は膝をつき、反動を受け止めるための重い外骨格だった。どちらも、俺の五枠型収納現象と組み合わせれば、普通の装備とは違う使い方ができるかもしれない。
机の端には、黒い決済タグが置かれている。
さっきまでただの認証チップにしか見えなかった板だ。だが、試験用フレームを動かし、検証費の枠を開き、ジンとアリアの態度を変えた。指先で角を押すと、硬い感触だけが返ってきた。
「なあ」
俺が声を出すと、ジンは端末から目を離さずに返した。
「なんだ。嫌な聞き方だな」
「まだ何も聞いてないだろ」
「その声で分かる。だいたい金か、めんどくせぇ話だ」
否定できなかった。
アリアは端末の横で、さっきの収納ログを整理している。試験用フレームの位置誤差、収納前後の姿勢、出現時の接地反応。細かい数値が白い線で並び、ところどころに赤い注記が挟まっていた。
「あのチップって、どこまで臨時検証費が出るんだ?」
アリアの指が止まった。
ジンはそこで初めて顔を上げた。目だけが少し細くなる。
「いい顔になったな」
「何がだよ」
「金の匂いを嗅いだ顔だ」
「必要な確認だ。さっきの試験用フレームだって、ただじゃないんだろ」
「壊す前提で話すな。検証費は無限じゃない」
ジンは文句を言いながらも、壁の端に検証費の一覧を開いた。試験機使用料、弾薬、冷却材、簡易整備、損耗保証、再現性確認、安全評価。文字が並ぶたび、俺の個人口座では絶対に触れない金額が、平然と項目の後ろに付いてくる。
アリアが一覧の一部を拡大した。
「臨時検証費は、対象現象の確認、再現性試験、安全性評価に必要な範囲で申請できます。ただし、原則として購入ではなく、貸与、使用許可、試験費用として処理されます」
「つまり、買ってくれるわけじゃない」
「当然です」
当然、と切られると、黒い決済タグに置いていた指が止まった。
だが、完全には消えない。買えないなら借りる。借りられるなら触れる。触れれば、使えるかどうかを確かめられる。俺に必要なのは所有権そのものではなく、生き残るための選択肢だった。
俺は壁の二つの機体図を見た。
ホバーは移動の足になる。狙撃スーツは、近づかれる前に撃つための装備になる。だが、五枠型収納現象のことを考えると、もう少し上の選択肢が頭に引っかかった。
「航空ユニットも、検証候補に入るのか?」
室内の空調音だけが、数秒残った。
ジンの表情から、軽さが消えた。アリアも端末の画面を閉じず、視線だけを俺に向けている。
「空か」
「移動の自由度が違う。地形を踏まなくて済む。割れた舗装も、瓦礫も、敵の群れも、上を抜ければ避けられる。五枠が安定するなら、積載の弱さもある程度は潰せるかもしれない」
「言い分は分かる」
ジンは否定しなかった。
その時点で、喉が乾いた。
ジンが指を払うと、壁の表示が切り替わった。ホバーと狙撃スーツの横に、空軍系の候補一覧が開く。機体名ではなく、分類名と用途が並んでいた。
高速軽空戦機。
汎用空戦機。
低空攻撃機。
対地掃討機。
重空中砲撃艦。
空中輸送艇。
俺の指は、最初の欄で止まった。
高速軽空戦機。
機体図が開く。細い胴体、鋭い翼、後部に集約された推進器。装甲は薄い。積載欄も小さい。だが、速度欄の数字だけが他と違った。軽い。速い。地上を踏まない。敵の反応範囲を踏まずに入り、必要な場所へ回り、危なくなる前に抜けられる。
「これなら」
声が出た。
ジンが横から画面を見た。
「偵察と迎撃用だ。速い。軽い。移動手段としては魅力的に見える」
「見えるじゃなくて、実際に強いだろ。地上で回り込むより、上を取った方がいい。敵の反応範囲を踏まずに入れるし、倒した場所へすぐ寄れる。五枠が安定するなら、回収物の重さも機体側の積載もある程度無視できる。倒して、拾って、離れて、また位置を取り直す。その流れが作れるなら、かなり強い」
言いながら、頭の中で線が繋がっていく。
敵を倒す。回収する。移動する。別の位置を取る。また撃つ。普通なら積載、燃料、重量、回収時間で止まる流れが、五枠で少しずつ崩れる。空なら、その崩れ方が地上より大きい。
「俺が欲しいのは、逃げるだけの足じゃない。入る場所を選んで、撃つ場所を選んで、拾って、戻るための足だ」
ジンは少しだけ目を伏せた。
「それ、逃げ足ってより戦場の位置取りだな」
「逃げ足も含む。戻れない移動手段に意味はない」
「理屈は悪くねぇ。お前の五枠が本物なら、空の積載制限はかなり壊れる」
ジンはそこで、壁の用途欄を拡大した。
偵察。
迎撃。
高速離脱。
空中型エイリアン対応。
最後の項目で、俺の指が止まった。
「空中型エイリアン対応?」
アリアが頷いた。
「この世界では、空ユニットは単なる移動手段ではありません。空中型エイリアンに対抗するための戦力です。保有、登録、運用の段階で、空中戦力として扱われます」
「俺は位置取りの足として見てるんだけど」
ジンが短く笑った。
「機体の登録欄に“移動に使いたいだけです”なんて項目はねぇよ」
返す言葉が止まる。
壁の機体図では、高速軽空戦機がまだ青白く回転していた。細い。速い。移動の自由度を上げる機体に見える。けれど、用途欄にある“迎撃”の二文字が、機体の意味を変えていた。
「空の敵が出たら?」
俺が聞くと、アリアが別の欄を開いた。赤い条件項目が並ぶ。
「戦区管理側から迎撃要請が出ます。登録機体の種別、位置、稼働状態、操縦者評価によっては、出撃命令の対象になります」
「拒否は?」
「契約区分と所属によります。ただし、空中戦力を保有している時点で、通常の回収業務とは扱いが変わります」
ジンが椅子の背に肩を預けた。
「地上の敵を避けるために空へ上がったら、今度は空の戦争に数えられる。そういうことだ」
空調の冷気が首元に当たる。
それでも、口の中だけが乾いていく。
俺は高速軽空戦機の速度欄をもう一度見た。数字だけなら魅力的だ。地上の敵から距離を取る手段としては、これ以上ない。だが、空へ上がった瞬間、移動手段ではなく戦力として数えられる。
「でも、適性がないわけじゃないんだろ」
自分でも食い下がっているのが分かった。
ジンは少しだけ目を細め、アリアに顎を向けた。アリアが俺の訓練評価を開く。操縦適性、反応速度、入力補正、空間把握、負荷耐性。いくつかの項目が黄色で、いくつかは白。反応速度の欄だけ、妙に高い数値が出ていた。
アリアの指がその欄で止まる。
「反応速度と入力補正への適応は高いです。戦闘補助の影響か、ナノマシン補正への馴染みが早いのかは未確定ですが、低評価ではありません」
「いけるか?」
俺が言うと、ジンはすぐには答えなかった。
壁の投影機が低く鳴り、端末の処理音が細く続いている。ジンは反応速度の欄と、高速軽空戦機の運用条件を交互に見ていた。
「いけるかもしれねぇ」
その言葉で、胸の奥が少し上がる。
すぐに、ジンが続けた。
「だが、難しい。地上機動の延長じゃねぇ。速度、高度、角度、識別応答、空中型の接近、対空火器、帰投ルート。全部を同時に見る」
アリアが運用条件欄を切り替えた。
操縦。
索敵。
識別応答。
火器管制。
管制連絡。
帰投判断。
損傷時対応。
項目の後ろに、必要担当の表示が付いている。どれも、空白ではない。
「空ユニットは、基本的に複数人運用です」
アリアが言った。
「操縦、索敵、識別応答、火器管制、管制連絡、帰投判断。それらを一人で同時に処理する設計ではありません」
「高性能AIで補助できないのか」
俺が聞くと、ジンは端末の費用欄を見て、短く息を吐いた。
「できる。理屈の上ではな」
「なら」
「そのAIは機体より高い。そんなもんを小型空戦機に載せるなら、重空中砲撃艦か指揮機に載せる。お前、戦艦の頭脳を逃げ足に積む気か?」
言葉が止まった。
アリアが条件欄の下に、AI支援区分を開いた。単独運用支援、艦隊管制、重火器統合制御、戦区指揮補助。文字の横に並んだ費用欄は、俺の個人口座で見る数字ではなかった。
「単独運用支援AIは、重空中砲撃艦、大型指揮機、拠点防衛中枢への配備が優先されます。個人用小型機への搭載は、費用対効果の面で推奨されません」
「推奨されない、で済むのか」
「申請段階で止まる可能性が高いです」
ジンが頷いた。
「無理やり通せば飛べるかもしれねぇ。だが、飛ぶ前に金が死ぬ。飛んだ後に整備で死ぬ。落ちたら全部死ぬ」
「死にすぎだろ」
「空は高いんだよ」
壁の高速軽空戦機は、まだ青い線で回っていた。
速い。軽い。上を取れる。
それでも、俺の指は費用欄の前で止まった。機体を動かす前に、空そのものが金を食う。
そして、問題は金だけではなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
空は理想に近い。
けれど、リゼルが欲しいものと、この世界で空を持つ意味は少し違っていました。
次回は、金だけでは解決できない問題へ進みます。
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