第25話 観測対象
黒い決済タグは消えた。
次に問われるのは、それが戻るかどうかだった。
『……返ってこねぇな』
ジンは空になった指先を見たまま、喉の奥で笑った。
白い部屋の空調音が、やけに近い。俺は倒れた椅子に縛られたまま、床に頬をつけていた。血が冷えてきて、皮膚と床の間で薄く張りついている。息を吸うと傷口が擦れ、鉄の味が舌の奥に戻ってきた。
アリアは動かなかった。端末の上で指が止まり、視線だけがジンの指先に固定されている。さっきまで俺の頭を踏み抜こうとしていた足も、床に下りたまま動かない。殺意が消えたわけじゃない。ただ、その前に見たものを処理しきれていない。
『戻せるか』
ジンの第一声は、それだった。
驚きでも、賞賛でも、拒絶でもない。消えたなら戻せるのか。まずそこを確かめる。声だけ聞けば冷たいが、目の奥にはさっきまでとは違う熱があった。工具ではなく、未知の機構を見つけた技術者の目だった。
「……たぶん」
『たぶんで俺のタグを持っていったのか』
「三分だけくれるって言っただろ」
『持っていけるなら、な。戻せないなら話が変わる』
ジンは俺ではなく、倒れた椅子と俺の腕、拘束具、床に落ちた血を順に見た。状況の悪さを確認しているのに、助け起こす気配はない。戻せるかどうかを先に見るつもりだ。
アリアがそこで息を吸った。
「兄さん。まず拘束を解いて、出血の確認を行うべきです」
『死んでねぇ。喋れる。なら先に戻せるか見る』
「頭部への打撃があります。検証より医療確認が先です」
『それも記録しろ。だが今のは、医療より先に逃がすと厄介な現象だ』
アリアの指が端末の縁に沈んだ。
言い返す言葉はある。だが、ジンの判断も分かっている。俺が倒れたままなのは、かわいそうだから放置されているわけじゃない。動かせば条件が変わる。今この状態で戻せるかどうかを、ジンは見ようとしている。
最悪な扱いだ。
だが、合理的だった。
「床に出す」
俺は言った。
『俺の手に戻せ』
「やめてくれ。指を巻き込むかもしれない」
ジンの眉が、少しだけ動いた。
『巻き込む可能性があるのか』
「分からない。だから床に出す」
『場所は指定できるんだな』
「たぶん」
「また、たぶんですか」
アリアの声が硬くなる。
俺は床を見たまま、血の混じった唾を飲み込んだ。
「言い切れるほど試してない」
アリアは黙った。
その沈黙が、さっきより痛い。怒鳴られるより、ずっときつい。俺の力は便利な道具ではなく、本人ですら限界を把握していない異常物だと、この場の全員が分かっている。
ジンが白い床を顎で示した。
『そこだ。俺の足元から三十センチ前。床に直接出せ。落とすな。置け』
「細かいな」
『細かくしないと死ぬんだろ』
「……そうかもしれない」
『ならやれ』
俺は視界の端に浮かぶ黒い枠を見る。五つのうち一つが埋まっている。名前は出ない。残高も、所有者も、重さも表示されない。ただ、さっきまでジンの指先にあった黒い決済タグを、俺はそこに入っているものとして認識していた。
ジンの足元から少し前。白い床。血の跡から離れた場所。金属片が滑らない平らな面。指は動かさない。触れる必要はない。枠の中にあるものを、指定した場所へ置く。そのつもりで、意識だけを内側から外へ押し出した。
黒い決済タグが、床の上に現れた。
落ちる音はしなかった。最初からそこに置かれていたみたいに、白い床の上へ薄い金属片が収まっている。端の認証光が一度だけ明滅し、それから元の細い光に戻った。
アリアの端末が遅れて反応した。
短い警告音が三つ鳴る。
「質量反応、復帰。位置情報……記録不能から再取得。熱変化なし。衝撃反応なし。外部転送ログ、該当なし」
アリアの声は戻っていた。
だが、指の動きが少し遅い。いつもの事務処理ではない。目の前の現象を見てから、機械が吐いた数字を追いかけている。順番が逆になっている。
ジンは屈み、黒い決済タグを拾わなかった。
顔を近づけ、床に置かれたそれを見る。指を伸ばしかけて止め、まず周囲の床面を見た。擦り傷。熱痕。空間干渉の残り。何かが出たなら、痕跡が残るはずの場所だ。
『転送じゃねぇな』
「分かるのか」
『分からないことが分かった。転送なら座標の尾が残る。圧縮なら空間負荷が残る。搬送なら経路ログがある。今のは、そのどれにも引っかかってない』
ジンはそこで初めてタグを拾った。
黒い金属片を二本の指で挟み、端を傾ける。認証光が細く走り、所有者確認の短い表示が浮かんですぐ消えた。
『消したんじゃねぇな』
「消してない」
『盗んだんでもねぇ』
「もらった」
ジンの口元が歪んだ。
『三分だけな』
「まだ三分経ってない」
『経ってたら返さねぇ気だったか』
「返せと言われれば返す」
『言われなきゃ?』
俺は答えなかった。
床に頬をつけたまま答える内容じゃない。そんな顔をしたつもりはなかったが、ジンはそれを見て短く笑った。
『収納か?』
その言葉で、喉の奥が止まった。
俺はまだ、それを言っていない。
『そういう顔をした。消したでも、飛ばしたでも、隠したでもない。お前の中では、しまった、が一番近いんだろ』
「……近いかも」
アリアの端末に、新しい記録欄が開いた。
収納系現象、仮分類。
その文字が出かけたところで、ジンが片手を上げた。
『待て。名前は後でいい』
アリアの指が止まる。
ジンは黒い決済タグを胸元へ戻し、倒れた椅子に縛られたままの俺を見下ろした。さっきまでの笑みは、もう消えている。
『先に決めることがある』
白い部屋の空調音が、少し遠くなった。
『こいつは警備に戻すな。ここから先は、俺が見る』
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、消えた黒い決済タグの続きでした。
戻るかどうか。
そして、ジンが何を見たのか。
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