第24話 返ってこない三分
白い部屋で、言葉はもう届かなかった。
『アリアの兄だ』
白い部屋の中で、その名前が落ちた。
知っている名前だった。だが、そこで息を緩めることはできなかった。俺は椅子に固定されたまま、目の前の男を見る。手首の拘束具は外れていない。肩と腰のベルトもそのままだ。壁には、俺の警備ログがまだ並んでいる。
非公開情報接触。取得経路不明。認識異常可能性。
ジンが名乗ったところで、俺の立場は何も良くなっていない。
『で、どこで俺とアリアのことを知った』
ジンはすぐに本題へ戻した。声に無駄がない。相手を安心させる気も、怖がらせる気もない。ただ、必要な場所だけを切ってくる。
俺は警備員を見た。外骨格の透明なシールドの奥で、走査光がこちらの顔を撫でている。壁の黒い穴も、まだこちらを向いていた。ここで口を開けば、また全部記録される。俺の首に、さらに札が増える。
「ここでは言えない」
警備員の肩の警告灯が、一度だけ白く点滅した。
「取得経路を説明できない場合、確認不能として処理されます」
ジンは警備員を止めなかった。
俺がどう返すかを見ている。
そう分かったから、俺はジンを見た。
「二人で話させてくれ」
警備員が即座に動く。
「認められません。対象者は取得経路不明の非公開情報に接触しています」
「分かってる。だから言ってる」
俺は拘束具の中で、指を握りかけてやめた。
「ここから先は、たぶんもっとまずい情報になる。警備ログにそのまま落としたら、俺だけじゃなくて、そっちにも面倒が増える」
ジンの目が、わずかに細くなる。笑わない。怒りもしない。こちらの言葉を、使える部品かどうか見るみたいに一度だけ転がした。
『アリアを呼べ』
ジンが言った。
警備員が止まる。
「アリア様を、ですか」
『あいつがいれば十分だろ。お前らは外で管理して待機。映像は残せ。音声はこっちで預かる。一般警備ログへは落とすな』
「対象者との接触継続は危険です」
『だからアリアを呼べと言った』
それ以上は押せない声だった。
警備員は数秒だけ端末を確認し、通信を飛ばした。白い部屋の壁に、短い電子音が薄く跳ねる。
ほどなくして、扉が開いた。
入ってきたのは、アリアだった。
さっきと同じ機能服。端末を胸の前に抱えた姿勢も変わらない。だが、入ってきた瞬間、警備員たちの配置がわずかに変わった。
道を空ける。
それだけで十分だった。
アリアは部屋の中を一度見た。俺、拘束具、壁の警備ログ、ジン、警備員。視線の順番に迷いがない。
「兄さん、来ましたが。何がありましたか」
『こいつが、ここじゃ言えない話があるらしい。お前も聞け』
アリアの目が、こちらへ向いた。受付嬢の目ではない。端末を胸の前に抱えたまま、俺の手首、肩の固定ベルト、床、扉の位置まで一度に見ている。
「警備は外で待機なさい。映像管理はこちらで引き継ぎます」
アリアが言うと、警備員たちは部屋を出ていく。扉が閉まり、白い部屋の圧が一段だけ変わった。
残ったのは、椅子に縛られた俺と、壁際に立つアリアと、目の前のジンだけだった。
『話せ』
ジンが言った。
俺は一度だけ息を吸った。胸の固定ベルトが浅く軋む。言葉を間違えたら終わる。だが、ここで出さなければ、もっと終わる。
「ジン。あんたは領主の息子だ」
白い部屋の空調音が、急に近くなった。アリアの指が端末の縁で止まる。ジンは動かない。
俺は続けた。
「これは、皆が知っている事実じゃない」
ジンの目が細くなる。だが、止めない。
「アリアは、あんたと血が繋がっていない。実の妹じゃない。それでも領主家では妹として扱われている」
次の瞬間、アリアが動いた。
速かった。
端末を抱えていた腕が消えたように見えた。白い部屋の光が斜めに裂け、視界が横へ流れる。肩を押さえられた、と理解するより早く、固定椅子ごと体が傾いた。
床が迫る。
手首は拘束具に噛まれ、肩と腰はベルトに縫い止められている。身を捻る余地も、受け身を取る余地もない。次の瞬間、椅子の側面が床へ叩きつけられた。
硬い音が、耳の奥で割れた。
遅れて、頬に熱が走る。
白い床が目の前にあった。近すぎる。頬の下で、何かが濡れて広がる。血だと分かったのは、口の中に鉄の味が滲んでからだった。
視界の端で、アリアの脚が上がった。
機能服の短い裾が白い光を切る。細い脚だった。だが、その動きに迷いはない。膝が折れ、踵が俺の頭の真上へ来る。床に倒れた椅子と、そこに縛られた俺の頭。その間に、逃げる隙間はなかった。
踏み抜く気だ。
次に体重が落ちれば、頭蓋が床と椅子の金属に挟まれる。骨が割れる音まで、先に耳の奥で鳴った気がした。
『待て』
ジンの声が落ちた。
大きな声ではない。だが、アリアの動きはそこで止まった。
俺は倒れた椅子に縛られたまま、床を見ていた。息を吸うたび、頬の傷が床に擦れる。血が少しずつ冷えて、白い面に薄く広がっていく。
『アリア』
ジンがもう一度言う。
『殺すな。まだ使える』
アリアは答えなかった。
数秒だけ、白い部屋に空調音だけが残る。それから、彼女の靴が一歩だけ引いた。
外で、警備員の足音が跳ねた。扉が開きかける。
『入るな』
ジンはそちらを見ずに言った。
足音が止まった。
俺は、血の味を飲み込みながら、笑いそうになった。笑えばたぶん傷が開く。だからやめた。
言いすぎた。完全に踏み抜いた。だが、ここで止まれば、ただ倒されただけで終わる。
頬を床につけたまま、俺は肘掛けを見る。視界の端で、固定椅子の脚が白い床に斜めに伸びている。
「……この椅子」
声が掠れた。
ジンの目が、こちらへ落ちる。
「くれないか」
白い部屋の空気が、変な形で止まった。
アリアの視線が細くなる。ジンは一秒だけ黙り、それから鼻で笑った。
『お前、今それを言うのか』
「これしか、言えそうな物がない」
頬から血が落ちる。床に小さな赤が増えた。
『駄目だ』
「だよな」
『これはショップ区画の警備備品だ。警備確認中の人間に渡すものじゃねぇ』
「言ってみただけだ」
『言うな。札が増える』
ジンは、倒れた椅子ごと俺を見下ろした。その目に、同情はない。だが、完全に切り捨てる色でもない。
『なぜ欲しい』
「言葉で説明すると、また札が増える」
『便利な逃げ方だな』
「便利なら、血を流して床に転がってない」
ジンの口元が、少しだけ歪む。
アリアはまだ動かない。だが、さっきの殺気は、ジンの声で薄く押さえ込まれていた。
ジンは胸元に手を入れた。
取り出したのは、黒い決済タグだった。
薄い金属片。端に細い認証光が走っている。残高も所有者名も表示されていない。だが、安物ではなかった。ショップ区画で値札を見て悩む側の物ではない。
『椅子は駄目だ。これでやれ』
「兄さん」
アリアの声が、少しだけ強くなった。
ジンは振り返らない。
『取られねぇよ』
「そういう問題ではありません」
『じゃあ、どういう問題だ』
「それは一般決済用ではありません。試験材料として出すものではありません」
『知ってる。俺のだ』
「だから言っています」
アリアの声は乱れなかった。端末の縁に置かれた指だけが、白くなるほど沈んでいる。一度、ジンを見る。唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。次に端末へ視線を戻し、親指だけで記録欄を押さえたまま動かない。
俺は黒い決済タグを見る。
「それ、いくら入ってる」
『知らねぇよ。必要な時に使うもんの残額なんか、いちいち見るか』
「……いや、見るだろ」
『見ねぇ。だいたいのものは買える』
喉の奥が鳴った。
だいたいのもの。
俺がさっきまで、価格表示を見るだけで諦めていた棚。その多くを、この男は残額も見ずに開けられると言った。
ジンは黒い決済タグを二本の指で挟んだまま、俺を見る。
『三分だけお前にやる。持っていられるなら持ってけ。無理なら返せ』
「それ、返す前提じゃないのか」
『返ってくるだろ。普通ならな』
普通なら。
その言葉が、耳の奥に残った。
俺は拘束具の中で指を握りかけ、すぐにやめた。触れる必要はない。
視界の端に、黒い枠が開く。
五つしかない枠の一つ。
そこに、まだ何も入っていない空白が口を開けた。
次の瞬間、ジンの指先に挟まれていた黒い決済タグが消えた。
落ちた音はしなかった。弾かれた気配もない。光も、煙も、転送の揺らぎもない。ただ、そこにあったものだけが、何の前触れもなく消えていた。
ジンの指は、何かをつまんだ形のまま止まっている。
アリアの指も、端末の上で止まっていた。さっきまで俺の頭を踏み抜こうとしていた足も動かない。彼女は端末を見ていなかった。消えたはずの黒い決済タグがあった場所を、息を止めたまま見ていた。
白い部屋の空調音が、やけに大きく聞こえる。
ジンは、空になった指先をしばらく見ていた。
それから、喉の奥で低く笑った。
『……返ってこねぇな』
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、白い部屋での証明回で黒い決済タグが、返ってこない三分になりました。
言葉では通らないものを、リゼルは別の形で見せることになりました。
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