第8話:刻まれた名前
「おい、晶っ、しっかりしろ!」
パンッ!
頬に熱い衝撃を感じて、意識が急浮上した。
「え……あ、あれ……?」
目を開くとそこは居間で、逆光になった小椋が心配そうに俺の体を支えていた。
「気がついたか」
俺の声を聞いて、ホッとした表情になる。
「あれ? 俺、なんで……」
「ごめん、勝手に入って。お前の姉さんがいると思ったから呼び鈴鳴らしたんだけど、いくら鳴らしても出て来なかったから」
そうだった。
小椋には、今日姉が帰ってくる事を伝えていた。その上で、恋人を亡くしてショックな姉を励ますために、一緒に食事をしようと誘っていたんだった。
なのに、来てみたら家に灯りが点いていない。さすがにおかしいと思い、勝手口から入ってみたら、俺が倒れていたそうだ。
「何があったんだ?」
「何が……?」
うう、思い出そうとしたら頭がガンガンと痛む。
視界の端に段ボールが目に入る。そうだ、姉の荷物を運び入れて……
「……そうだ、仏壇!」
ようやっと、姉がゴルフクラブで仏壇を破壊した事を思い出して、仏間へ向かおうと立ち上がる。足元がふらついたが、小椋が支えてくれた。
「開けていいか?」
俺が頷くと小椋は襖を開けた。
「あ……」
「うわ……」
二人同時に声が漏れた。
「そんな……」
(あれは、夢だったのか?)
目の前には、何の変化も無い仏間があった。
仏壇も、仏花も位牌も、何も変わっていない。仏壇の上に掛けられた母と祖母と父の遺影も。姉が破壊した痕跡は全く残っていない。
直せるような破壊レベルじゃなかったし、よしんば可能だったとしても、こんな短時間では絶対に無理だろう。
それに。
(位牌がある……)
思わずホッとしてしまった自分に苦笑する。
いつの間にか、この家の風習にすっかり毒されてしまったようだ。姉の言う通り、ただの名札のようなものだというのに。
「ごめん、自分でもちょっと分からない……寝てた間に夢を見てたみたいなんだけど」
「夢?」
(そう、きっと姉が来るのを待っている間に眠ってしまったんだ)
仏壇に近付いてじっくりと確認したが、やはり傷一つ付いていない。
ホッと胸を撫で下ろす。
「やっぱり夢だった」
「おい、ちゃんと説明し……」
俺を追って近付いた小椋の眉間に皺が寄る。
「……なあ、これって位牌だよな?」
「え? ああ、そうだけど」
小椋に言われて頷いて、位牌を見る。
薄暗い室内で文字は読み辛くて、顔を近付けた。
「え……」
その位牌には、姉の名前が書かれていた。
「どういうことだ……」
思わず位牌を手に取って確認する。
見間違いじゃない。黒い漆の上に、金色で『逢坂真紀之霊』と書かれている。
夢の中では、長谷川の名前が書かれた位牌だった。それはともかく、本来は父の位牌がある筈。
いつの間に? 俺が眠っている間に? 誰が?
グラリ、と足元がふらつく。
「おいっ!」
慌てて小椋が体を支えてくれる。
しかし、それどころじゃない。頭は再びガンガンと痛みだし、視界がグラグラと揺れる。
「あ、姉貴……」
これは現実か?
位牌とは、死んだ人の名前が書かれるもの。不吉どころの話じゃない。
(まさか、そんな……)
頭が割れそうに痛い。
狭まった視界が、それでも仏壇を捕らえて離れない。
(姉貴が、)
手の中の位牌が重みを増した気がする。
(死んだ……?)
痛みで鈍った脳が、それを事実だと認識してしまう。
「姉貴、姉貴っ! なんで……っ!」
動揺して、俺は仏壇にしがみつく。
「帰してっ! 姉貴を帰してくれっ!!」
位牌の無い仏壇の中央が、昏い影になっている。そこに向かってひたすら懇願する。
「もう、勝手に出ていかせないから、……俺から姉貴に言うから、……お願いします。どうか、姉貴を……」
「晶、おい、」
仏壇の端を掴んで揺すろうとして、指が漆に滑る。それでも必死に縋って、俺は謝罪を繰り返す。
頭痛は酷くなる一方で、ギリギリと頭蓋が軋むようだ。
「俺も、もっと『ちゃんと』お世話するから、お経も毎日読むから、ごめんなさい。ごめんなさい……ちゃんと、ちゃんと……」
「晶っ、しっかりしろっ」
痛みに涙が滲んでくる。
段々と力が抜けて、もはや寄りかかっている状態だ。
「晶っ!!」
グイッと強い力で腕を取られ、そのまま一気に引きずられた。
パシン!
ハッとした視界に見えたのは襖だった。
「は、え? 俺……」
ズキズキとした痛みは残っているものの、思考が一気にクリアになった。
小椋は俺の腕を掴んだまま、荒い息をしている。蛍光灯に照らされた横顔は真っ青だ。
「大丈夫か? 晶」
「ああ、うん」
小椋が俺の顔を覗き込んで、それからホッとする。
「俺の声、聞こえてるんだな」
「うん。聞こえてる……」
こめかみを押さえながら頷く。
「何だったんだ。今の……」
「それはこっちのセリフだ」
「……なんか、俺、変だったよな」
つい今しがたの事だというのに、頭に霧が掛かっているようだ。
焦燥、後悔、恐怖、……どうして、あんな気持ちになってしまったのか。
「……あ、」
足元に位牌が転がっている。
さっき仏壇に縋った時に落としてしまったんだろう。
「やべ、戻さなきゃ」
慌てて拾って襖に手を掛けたところで、小椋に腕を掴まれる。
「何する気だ」
「これ、戻さないと」
俺の手にある位牌に小椋が眉を寄せる。
「どうしてだ。縁起でも無いだろ」
「そりゃそうだけど」
言われて位牌を見る。
確かに、姉の位牌を仏壇に戻すのは縁起でも無い。
ただ俺は、姉の位牌を仏壇に、『ちゃんと』あるべき場所に戻すべきだ、と思ったんだ。
(なんで、そんな風に思ったんだ……)
俺は、母・祖母・父と立て続けに亡くなった家族の位牌を見てきた。そして、夢だったとはいえ、亡くなった長谷川の位牌で激昂していた姉の言葉を聞いた。
――やっぱりアイツが長谷川さんを殺したんだわ……っ!
(だから、俺は姉が殺されたと連想してしまった?)
「とりあえず落ち着け」
「ああ、うん……」
小椋の声に、一度腰を落ち着ける。
しかし、手に持った位牌が気になって仕方が無い。
「晶? 大丈夫か?」
「うん……」
頷きながらも、目は襖に縫い留められたように動かせない。
「……あの仏壇は、なんなんだ……」
「仏壇は仏壇だろ。大事にしないと、罰が当たる……」
「……俺は、すごく…………怖い」
小椋の声は小さく、掠れて聞こえる。
「ああ、古い仏壇だし、この家も。怖くて普通だろ」
「そういうんじゃ無い。……上手く言えないけど」
その間も俺は位牌を持ったままで、そわそわと腰を浮かせた。
「はぁ、……分かった」
小椋が観念したように立ち上がった。
「元の場所に戻せば良いんだな?」
「え?」
小椋は俺の手から位牌を奪うと、深呼吸してから襖を開けた。
「あ……」
小椋一人が通れるだけの隙間から見えた仏間は、酷く澱んで見えた。
その中を小椋は素早く仏壇まで歩き、位牌を元の位置に置いた。
瞬間、空気が緩んだように見えた。
パシン、
襖の閉まる音で、俺はハッとして小椋を見上げた。
その顔色はやはり青白く見える。
小椋も俺の顔を見て、疲れたように横に座り込んだ。




