第5話:梁に揺れる影
その日も仕事で、俺は普段通りの時間に家に帰った。
玄関脇では金木犀の花が濃厚な香りを放っていた。
ギシ、ガララ……
建付けの悪い玄関扉もいつも通りだった。
「ただいま」
返事は無い。
これも父と二人暮らしになってからは、いつもの事だ。ただ、照明が点いていなくて、真っ暗だった。
(寝てるのか?)
パチン、と居間の蛍光灯を点け、親父の姿を探す。
最近の父は更に生気を失い、ぼうっとしている事が増えた。通院もして、薬も貰っているが芳しい効果は見られない。
放っておくと、すぐにそこらで眠り込んでしまうので、起こして布団で寝かせないと風邪をひいてしまう。
「親父ー」
声を掛けながら、襖を開ける。
仏間には父の布団が敷きっぱなしになっているが姿は無い。仏壇に手を合わせてから、他の場所も探すが、一階には居ない。
(二階か?)
足を階段に向けた所で音がした。
キシ、
「ああ、上にいたのか? すぐに飯用意するから……」
しかし、見上げた階段には誰も居ない。
キシ、……キシ、……キシ、
家鳴りにしては、一定のリズムだ。
階段を降りてくる音にしか聞こえないが、目の前には薄暗い階段があるだけ。
「親父?」
キシ、
返事するように軋む音がした。
「親父」
玄関には履物があったから、外には出ていない筈だ。
俺は二階に上がって親父を探した。
――すぐに見付かった。
「親父……」
階段を上りきってすぐの扉が僅かに開いていて、その中に父がいた。
夫婦の寝室だった部屋で、首を吊っていた。
この家の柱も梁も太くて、大人一人の体重を支えてもびくともしない。飯を食う気力も無かった癖に、良くあんな高い所に縄を通せたな、なんて考えて。
風も無いのに揺れる父の足を眺めながら、胸の奥でホッとしている自分がいた。
それに気付いて顔を顰める。
ガララ……という音が聞こえた、気がした。
僅か五年程の間に、次々と三人も亡くなった家。
そんな悪い噂が近所で広まるかと思ったが、特にそんな事は無かった。
複数台の警察車両が家の前に停まっていたから事情はバレていただろうに、顔を合わせた時にお悔やみを言われた程度だった。この一、二年の間、父が塞いでいたのは近所も知る所だったから、こうなる事は予想されていたのかもしれない。
数時間の現場検証と事情聴取があった後、父の遺体は警察署の霊安室に運ばれた。死因が死因だったので、葬式はせずに警察署から直葬にしてもらった。
焼き場の前で僧侶がお経を唱える。
手を合わせているうちに、父の棺は火葬炉の奥へと吸い込まれていった。
ガシャン。
重い金属音がした。
目を開いた時には、銀色の扉が閉ざされ、ぼんやりと鈍い光を反射していた。
「姉貴、ごめん」
「なんであんたが謝るのよ」
斎場に駆けつけた姉の顔色は悪かった。
恋人と同棲し始めてから、家にはほとんど寄り付かなかったから、責任を感じているのかもしれない。
焼き上がりを待つ間、久し振りに姉とゆっくり言葉を交わした。何時振りなのか、忙しかった記憶だけがあって思い出せない。
俺は自動販売機で買ったペットボトルを姉に手渡し、控室へと促した。飾り気の無い和室はがらんとして、俺と姉の二人しか居ない。
「ごめんね。アタシが……家の事、全部アンタに任せて……父さんの調子が悪いのも分かってたのに」
「いいよ。調子のいい時は家事もやってくれてたし。あの『家事は女の仕事だ!』とか言ってた親父が皿洗ったり仏壇の世話したりしてたんだぜ?」
「でも、最近はずっとアンタがやってたんでしょ? 通院の付き添いも……」
「もう終わった事だし。気にすんなって」
「……お父さん、なんで自殺なんて……」
涙と共に漏れた姉の問いに、俺は目を細めた。
お互いに答えは分かっている。
「グス、……晶、アンタもあの家を出なよ。もう誰に遠慮する事もないんだから」
「……そうだな」
タイミングが悪かっただけで、元々家を出るつもりではあった。
今は疲れ切って何もしたくないけど、落ち着いたら引っ越そう。今なら小椋の部屋に転がり込んでも……
「それはアカン」
その声にハッとする。
扉の開閉音はしなかったのに、そこにはトウゴが立っていた。
「晶ちゃんが家を出たら、誰が仏壇を守るんや?」
「そんなのうちの家の問題でしょ?」
いつも通りの優しい表情を浮かべながらも、トウゴからは非難するような圧を感じる。姉が俺を庇うように前に出る。
「それに真紀ちゃん。アンタ、家を出とるやろ」
「そうよ。悪い?」
姉は怒りに任せてトウゴを睨みつけている。
俺は姉に庇われつつも、違和感を覚えた。
(俺がトウゴさんに連絡を入れたのは、葬儀社の迎えが警察に来た時。直葬だから来なくて良いって言ったのに。……それに、来るの早過ぎないか?)
まるで父が死ぬのを知っていたみたいじゃないか。
「悪いに決まっとる。女の子はちゃんとせなアカン」
「ちゃんとって何よ」
姉がトウゴに噛みつく。
元々、姉は古い風習や信仰を毛嫌いしていた。それを明言する事で起きる面倒ごとを避けて、これまで黙っていただけだ。それは俺も同じ。
しかし、家族はもう俺と姉の二人だけになってしまった。結婚さえしてしまえば、俺以外の親類とは縁を切っても問題無いと判断したんだろう。
「私はもう自由に生きるわ。もう自立した大人なんだから、他人にどうこう言われる筋合いは無いでしょ? 晶だってそうよ」
姉の言葉にトウゴの表情が剣呑に変わる。
「家っちゅうのは、そんな軽いもんや無い。ちゃんとせんと、罰が当たるで」
「トウゴさん、俺も家を出ようと思っています」
姉に追随するように俺も言葉を被せた。
「晶ちゃんまで……。逢坂家は一体どういう教育してきたんや」
「そんな田舎臭い考え、こっちじゃ誰にも通じないわよ」
姉が小馬鹿にしたように笑う。
怒りを見せるトウゴは珍しいが、姉が本家の人を馬鹿にするのも初めてだ。
「心配しなくても、近いうちに籍は入れるつもりよ。式はしないけど」
「……アカン」
愕然とした顔のトウゴに姉は冷たく言い放つ。
「お父さんが亡くなったばかりなのに、気遣うつもりも無いんですね。それで良く教育とか言えるもんだわ。……まだお骨拾いも終わってないんで、出ていってもらえます?」
「……」
姉の冷たい言葉に、トウゴは唇を噛み締め、無言で控室を出て行った。
「姉貴……」
「ふん。大丈夫だって。文句言われたって、もう関係無いでしょ。本当にこういうとこ、田舎もんは無神経でイヤだわ」
姉は握り締めたままだったペットボトルの茶を飲み、ふう、と息をついた。
係員の人に呼ばれ、姉と二人で父の骨を拾った。
トウゴは帰ったのか、火葬場の係員以外に人は居なかった。
俺は父の遺骨と共に自宅へと戻り、姉は家には寄らずに恋人の待つ家に帰っていった。
ギシ、ガララ……
「ただいま」
もう誰も居ない家に、習慣で声を掛ける。病んだ父は滅多に会話をしなくなったので、もう随分と前から返事を貰う事は無くなっていたが。
踏み出した廊下が返事をするように、キシ、と音を立てた。
母と祖母の葬儀の時と同じく、仏壇前には後飾り祭壇が設置されている。古臭い部屋の中で、瑞々しい仏花だけがその場の彩度を上げている。
俺は遺骨と遺影を置いてから、流れ作業のように蝋燭と線香に火を点けた。
緩く立ち上る白い煙と嗅ぎ慣れた香りが漂う。
俺は手を合わせてから、ゆっくりと遺影の父を見た。母が亡くなってからの写真はほとんど無かったので、五年程前のものだ。スーツ姿でキリッとしていて堂々として見える。棺に入った姿はまるで別人だ。
どんどん弱っていく父を見ていて、こうなる予感はあった。
冷たいかもしれないが、驚きも悲しみも無い。
キシ、
家鳴りがする。
いつもの事だ。古い家なんだから。
玄関の方を見たが、誰も居ない。
鍵が掛かっているし、建付けの悪い引き戸の音も聞こえてこない。
目線を仏壇に向けると、いつも通り中央に祖母の位牌があった。
またトウゴが位牌を交換しに来るんだろうかと思った。もう位牌について文句を言うつもりは無いが、いろいろ小言を貰うのは勘弁して欲しい。
しばらく警戒していたが、この日、トウゴは来なかった。




