第22話:亡影の気這い
おかしいと気付いたのは、鍵を預かってから何回目の訪問だったか。
最初は言われた通りに、窓を開けて風を通すだけで、あとはぼんやりと庭を眺めたりして過ごした。
掃除をした方が良いのかと思ったが、誰も住んでいない家というのは汚れる事も無いのか、綺麗な状態だった。
しかし、それが数ヶ月ともなると、埃一つ積もらないのは異常だろう。
特に晶の私室が顕著だった。
晶が居た頃のままにしておきたいという真紀の願いで、ほとんど出入りもしていない。二年以上の間、シーツの皺までそのままに、読みかけの本も置かれた場所から動かしていない。
そんな状態で、埃も被らないなんて、あり得るのだろうか。
真紀は気付いていた筈だ。
でも、俺にも嵯塚にも言わなかった。
言わずに、俺に鍵を渡した。
真紀の結婚を機に、集まる頻度はぐっと減った。それでも、たまに二人は申し合わせて、週末の逢坂家にやってくる。
「あ、ここ直してくれたんだ。ありがとう」
実家だけあって、真紀は細かい所にも良く気付く。
襖の滑りが良くなっただの、浮いた床板を補修しただの、古い植木鉢を整理しただの。
そういう時、俺は黙って頷く事にしている。
俺は何もしていない。
ただ戸や窓を開け放つだけだ。
家はいつ来ても掃除が行き届いていて、経年で悪くなっていた箇所は、僅かずつ修理されていく。
そして、ほんの少しだけ残される晶の気配。
それはワークデスクの上に置かれたペンの位置だったり。
カーテンの隙間が少しだけ開いていたり。
不意に漂ってくる焙じ茶の香りだったり。
不可思議な現象だと思う。だけど、そこに恐怖や不快感は無い。
ただ漠然と、晶の気配がする、とだけ感じる。
嵯塚に言えば、ビビって逢坂家には来なくなるかもしれない。真紀は何も言わずに受け入れるだろう。
俺は二人にも話さなかった。
ただ、家に来て、風を通して、どこか傷んでる箇所が無いかを確認する。
あとはのんびりとしながら、気配を感じて過ごすだけ。
良い気候の時は、縁側に寝そべって時を過ごす。
そよぐ風が頬を撫で、家を通り抜けていく。
何もしない、ただ心地良いだけの空間に、ふと誰かの気配が混じる。だけど、振り向いてはいけない。
そうして、時は流れる。
晶の失踪から七年が経ち、失踪宣告によって法的に死亡したものと扱われることになった。それに伴い、逢坂の家は正式に真紀の名義へと書き換えられた。
真紀は空き家となった実家を売却せず、俺に管理を任せたまま更に時は流れた。
その頃になると、俺はもう晶を探す事は諦め、ただ帰ってくる場所を維持する事だけを考えていた。そこかしこに残る晶の気配が、諦念混じりの静穏を齎してくれたからかもしれない。
いろいろと不思議な家だ。
まるで生きているように、ほんの少しずつ変化を見せる。
最初はふとした違和感だった。年月を掛けて床が磨かれ、僅かずつ艶を増していくような。
それが決定的な確信に変わったのは、仏壇が無くなった時だった。外扉が開かなくなってから存在感が無くなってはいたが、それでも、あった筈の仏壇が続きの押入れに変わっていた時はさすがに驚いた。
あれだけの大物を搬出するのは大事だ。真紀がやったんじゃないかと自分の中で誤魔化すにしても限度がある。
「ちょうど良かったわ。あの仏壇をどうしようかって、晶と頭を悩ませてたのよね」
報告をしない訳にはいかないと、久し振りの会合という名の飲み会で、家主である真紀に伝えた。仏壇には色々と因縁があるだろうと、言葉を選んだつもりだったが、当の本人からはあっけらかんとした言葉が返ってきた。
「またまた、航平はそんな事言って驚かせようとしてさー。その手には乗らないからな」
「そーかよ」
嵯塚は俺の話を全く信じなかった。
あれだけの衝撃的な体験をしても、たった一夜だけの事だ。こいつの中では、もう過ぎ去った過去なんだろう。
ちなみに今日の嵯塚の格好は上下共に贔屓のサッカーチームのユニフォームだ。少し前にスポーツバーに行って嵌ったらしい。
「まあ、でも……本当に終わったのね」
真紀は感慨深そうに一度深く息を吐いた。
その後、仏壇の話が話題に上がる事は無かった。
そんな大小様々な変化に動揺しないぐらいには俺も慣れて、そういうものだ、と自然に受け入れられるようになっていた。それに、以前は息苦しい程に感じていた悪意のような圧が、今は全く無いという理由もある。
この家も俺と同じく、晶の帰りを待っているんじゃないかと荒唐無稽な事まで想像してしまうくらいに。
その後、真紀は夫婦仲も良く、二人の子宝に恵まれた。年月を経ても美人なのには変わりなく、仕事に子育てに、忙しくも幸せな日々を送っていた。
嵯塚は四十歳手前で、年上の女性と結婚した。……なんと、真紀が好きで、吹っ切るのに時間が掛かったと聞いて驚いた。それを聞いた真紀が爆笑して、嵯塚に同情したのも、もう昔の話だ。
そう言う俺は、独身のままだ。
別に晶を一途に想い続けていたから、とかいう暑苦しい理由じゃない。普通に働いて、高校野球部のOBや仕事関係と集まって草野球を楽しんでいると、それだけで充実していた。
年を重ねて落ち着くと、積極的に恋愛をしようという気にならなかったし、心惹かれる相手に出会う事も無かった。
いや、きっとこれもあの家の所為だろう。
長い期間通い続けて気付いた、けして薄まる事の無い晶の気配。
晶は自分から居なくなった訳でも、犯罪に巻き込まれた訳でも無いだろう。
晶は、人には理解出来ない何かに巻き込まれて、どこかへ行ってしまったんだろう。そして、その力は、逢坂の家で今も働いているんだろう。
それは、あの菩提寺で対峙した不穏な存在じゃない。むしろ晶を護ろうとしているように感じる。時折、その残滓を覗かせるのだ。
そんな状態で、他に目が行く筈が無い。
「まあ、未練がましいとは自分でも思うけどな」
ひらひらと目の前に舞い落ちてきた紅葉の葉を指先で遊ばせる。
こうして縁側で寛いでいると、綺麗な花びらや木の葉が落ちてくるようになったのは、いつ頃からだったろう。
キシ、
俺の独り言に応えるように家鳴りが聞こえるようになったのも。
やがて俺の父親が病気で亡くなり、独居が不安になった母親に呼び戻されて、一人暮らしをしていた賃貸を引き払って実家に戻った。
近所には弟夫婦が住んでいて、その子供達がしょっちゅう襲撃を掛けてきて、小遣いを強奪されたりしながら、それなりに賑やかな生活を送った。
そして、母が老い、通院・介護を経て亡くなった。遺品整理と相続手続きを終えた頃には俺も五十八になっていた。
元々、実家は老朽化していて、リフォームか建て替えが必要だったので、思い切って更地にして売却した。狭い土地だったので大した金額にはならなかったが、弟と等分した。
金の掛かる趣味も無い実家暮らしで、貯金はそこそこあった。そこに実家の土地の売却金が入ったので、前々から計画していた事を真紀に提案した。
「あーんな、古くてデカい家、どうすんのよ」
そう苦笑しながら、真紀も分かっていたんだろう。
「本当は熨斗付けて渡したかったのよ、あんな家。持ってたって税金が掛かるだけだったしね」
真紀は逢坂家の土地家屋の売却額を提示しながら説明した。
何でも、極端に安い金額で譲ると、贈与と見做されてしまうらしい。そこで、老朽化などを考慮した上で、可能な限り安い金額を提示してくれた。きっと、専門家に相談してくれたのだろう。
「すいません。ここまでしてもらって」
「あー、気にしないで。結局、晶の資産まで貰っちゃったんだもん。これぐらいはね」
すっかり美魔女と化した真紀の厚意に異論がある筈も無く。
諸々の手続きの後、晶の実家は、俺の家となった。




