第2話:母の不在
母の死因は心筋梗塞だった。
自宅で倒れ、祖母が気付いた時にはもう死後硬直が始まっていたそうだ。
朝は普段と変わり無い様子だったのに、昼過ぎに病室で対面した変わり果てた姿は現実感が無かった。
号泣する姉と、消沈する父を祖母が叱咤している横で、俺は医者の説明を聞いていた。表情の無い青白い顔が、どうしても母に見えない。
その違和感に気を取られて、悲しみに浸れないまま、通夜、葬式を淡々と熟した。煙になった母を見上げても涙は出なかった。
そんな俺を祖母が「跡取りとして立派だ」と褒めた。
家に戻ってから遺影の母を眺めていても、やっぱり現実には思えなくて、いつものように台所で料理を作る姿が浮かんでくる。
二度と母の手料理は食べられないと胃袋が理解するまで、しばらく掛かった。
それでも時間は過ぎていき、忌引きで休んでいた仕事に復帰して更にしばらく経った頃、また小椋に会った。春休みはまだまだ終わらないらしい。
今回は俺の帰りを待っていたそうだ。スマホに連絡は来ていたが、返事を返す気力が無かったんだ。
「この度はご愁傷さまで……」
「恐れ入ります」
この年でお悔やみの言葉を言い慣れているヤツはそう居ないだろう。ぎこちない言葉に、俺は慣れた返事を返した。
「大丈夫か? 葬式に行けなくて悪かった。知った時にはもう葬式が終わってて。……すぐに会いに来たかったけど、しばらくは落ち着かないかと思って」
「あー、気にすんなよ。家族葬だったし」
「山河と柴本も心配してた」
「そっか、ありがたいなぁ」
最近会ってない友人たちの顔を思い出す。俺以外はみな進学組で、予定を合わせない限り会うことは難しい。
「……思ったより元気そうで良かった」
「まあ、仕事もあるしな」
実際はバタバタして悲しんでいる暇も無いうちに、忌引き明けになっただけだ。
仕事に戻ると強制的に日常が戻ってきた。何も考えずに働いていると自然と腹も減るし、当然飯も食う。疲れたら眠りも深くなって、目覚めも良くなる。
母の死を置き去りにしたまま、身体だけは以前と変わらず動いていた。
「……音が」
「ん?」
「いや……」
小椋は口を噤んで立ち止まる。
この前も同じような感じだったな、と続きを待ってみる。すると、今度は意を決したように小椋が俺を見た。
「なんか、音がする。……木が軋むような音」
「うん?」
そう言われて耳を澄ます。
遠い駅前の喧騒、車のエンジン音、虫の声、微かな風の音。
「......いや、聞こえないけど」
「そうか。じゃあ、やっぱり気の所為だな」
話を切り上げるかのように小椋が先に歩き始めた。
「いろいろ落ち着いたら、またゆっくりみんなで会おうぜ」
「おう」
その約束が果たされることは無かった。
ドライバー不足で担当範囲が広くなってしまった事と、中途採用した新人の教育係をする羽目になった事で、一気に忙しくなってしまったからだ。俺のような人間に新人教育なんか出来るもんかと抵抗したが、マジで人手が足りなかった。一時的にとはいえ残業も増え、必死で毎日の業務を片付ける日々が続き、……気付くと、小椋の長い春休みは終わっていた。
その後も人手不足は続き、いつの間にか責任のようなものまで負わされて、あっという間に二年余りが過ぎた夏。
――今度は祖母が死んだ。
夏風邪を拗らせて高熱を出し、救急搬送された。
しばらくは一進一退の状態だったが、最後は肺炎で亡くなった。
母の死からやっと立ち直りかけていた父が完全に落ちた。母の時は突然過ぎて、現実感が無いまま務められた喪主も、今回は無理だった。葬儀場にすら入れない父を姉に任せ、俺は喪主代理を務めた。数人の親族しか居ない葬儀はそれで何とかなった。
「晶くん」
母の葬儀からまだ二年ちょっと。式の流れを覚えていた俺は、骨拾いを終えて焼き場から帰宅しようとしていた。
そこに父の従兄弟である本家筋のトウゴが声を掛けてきた。
個人的な付き合いは無いが、会う機会がある時はいつも俺たちを気に掛けてくれる優しい小柄なおじさんだ。不慣れな俺に代わって、住職の手配や世話を申し出てくれた。
「トウゴさん、今日はありがとうございました」
「いやいや、晶くんも大変やったなぁ。カッちゃんの気持ちも分かるんやけど……」
父と愛称で呼び合う仲だと分かっていても、本家筋の人とどう話を合わせて良いのか分からない。今までは祖母に任せれば良いだけだった。
「いえ……」
俺は誤魔化すように、へらりと笑って頭を下げた。
すると、トウゴは一歩俺に近付いた。貼り付いたような笑顔がどうにも気になる。
「今日はこのまま帰るんか?」
「はい。姉が父と先に帰ってますので……」
おかしなことを聞くな、と思った。
遺骨と遺影を持っているのに、寄り道はしないだろう。
「じゃあ、悪いんやけど、乗せてってもらえへんか?」
「え?」
「ほら、せっかく田舎から出てきたんやし、仏壇にもお参りしたいんや。カッちゃんも心配やから。……あ、帰りはちゃんとタクシーで帰るんで、気にせんといてや!」
そう言われてしまうと断れない。
俺は通勤用の軽自動車の助手席に位牌と遺影を置き、トウゴを後部座席に乗せて帰宅した。
「ただいま」
ギシ、ガララ……
建付けの悪い引き戸を開けると、三和土に父と姉の黒い革靴が並んでいる。無事に帰っていることに一先ず安心して家に入る。
「トウゴさんどうぞ。急な事で片付いてないんですけど」
「ああ、そんなん、気にせんで」
二人で廊下を歩く。
キシ、キシ、と古い床が軋む。
居間は蛍光灯の光で空々しいほどに明るかった。
父は座卓に突っ伏したまま動かない。姉はその横で疲れ切った顔をしていた。
「おかえり。お疲れさま」
「姉貴も、おつかれ」
俺は俺で疲れたけど、父の相手も相当だったんだろう。俺の帰宅に姉の表情がホッと緩んだ。
「カッちゃん」
背後からの声に、父の肩がビクリと揺れた。
「辛かったなぁ。こんな短い間でなぁ。でも、またすぐ会えるんやから……」
そう言って、トウゴは奥の仏間へと足を向ける。
仏壇の前には後飾り祭壇が準備されていた。俺は急いで後を追いかけて、遺影と遺骨を祭壇へと置き、豪華な仏花の位置を直した。
しかし、トウゴは華やかな祭壇を無視して、奥にある仏壇に置かれた母の位牌をひょいと手に取った。
「……え」
まずは祭壇に手を合わせるものだと思って、急いで遺骨と遺影を安置したのに。俺はトウゴの行動が理解出来ずに固まった。
そんな俺の態度を気にも留めないで、トウゴは白い布で母の位牌を包んだ。そして、まるで代わりだとでもいうように、祖母の名前の書かれた位牌を取り出して仏壇へと置いた。
「さてと、こんな日に長居をしちゃアカンなぁ。これでお暇させてもらうわ」
そう言って、トウゴはいつもの柔和な笑顔を浮かべると、すたすたと居間へと戻っていく。
「え、え?」
何が起こったのか分からなかった。
だけど、黙って見過ごす訳にはいかなかった。断りもなく母の位牌を、どうして?
「じゃあ、カッちゃん。あんまり気落ちせんときや……」
「トウゴさんっ」
突っ伏している父に話し掛けるトウゴの言葉を遮って、俺は疑問をぶつけた。
「母の、その、位牌、……どうするつもりですか?」
「ああ」
さも意外そうな顔でトウゴが俺の顔を見た。
「晶くんは知らんかったんか。あかんでカッちゃん、ちゃんと教えとかんと」
「何を……」
「わしらの菩提寺を知っとるやろ。そこでの仕来りで、位牌は寺に捧げるんやで?」
「……」
そう言われて、何も言い返せなかった。
そもそも宗教的な儀式や作法についての知識が無い。ただ単に興味が無かっただけだが。
「この家にはもうお祖母ちゃんの位牌を置いたんやから、お嫁さんの位牌は……」
「うおおおおっ!!」
ガタンッ!!
いきなり大声を上げて、父が座卓を蹴り上げるようにして立ち上がった。
大人二人掛かりで移動させる重厚な座卓が一瞬宙に浮いて、ドスンと音を立てた。
「ちょっと! カッちゃ……うぐっ!」
「返せっ! 由紀子を返せぇっ!!!」
父の手がトウゴの胸ぐらを掴んで持ち上げる。さっきまで突っ伏していたとは思えない鬼気迫る様子に、俺と姉は仰天する。
「ちょっと、お父さん、どうしたの!?」
「親父っ! 止めろっ!」
慌てて姉と一緒に父を止めようと駆け寄った。トウゴを掴む腕を外そうとしたが、びくともしない。
小柄とはいえ成人男性を持ち上げる腕は筋肉が張り詰め、血管が浮いている。
「許さん、……許さんぞっ!」
「父さん、しっかりしてっ!!」
姉の悲鳴が古屋に響く。
しかし、父は全く怯まずに、ギリギリとトウゴを締め上げる。興奮のあまりに目は充血し、口の端からは泡がはみ出ている。
「ぐ、うぐうう……」
トウゴが苦しそうに呻く。必死で足掻いて、父の腕にいくつも爪の跡が赤く描かれていく。それでも父は腕の力を緩めない。
「あきらっ!」
「うん」
姉と顔を見合わせて、同時に左右から父の腕にしがみついた。
さすがに両手に一人ずつの体重を掛けられて、父の腕が下がった。トウゴは蹌踉めき、そのままドサッと床に転がって激しく咳き込んだ。
俺はすぐに背中から父に抱き付いて、膝カックンでしゃがみ込む。それを見た姉はトウゴを隠すように父の前に立った。
「どけっ!!!!」
父の怒号が俺と姉に降り注いだ。
こんな父の姿は見た事が無い。気圧されて怯むが、父は立ち上がれない状態のトウゴを睨みつけている。ここで手を緩めたら、正気じゃない父がトウゴに何をするか分からない。
「トウゴさん、大丈夫っ!?」
姉が父から目を逸らさずに声を掛けると、トウゴが顔を上げた。
目が朦朧としているが、それでも何とか立ち上がろうとしている。
「待てっ! 由紀子を置いていけっ!!」
「カッちゃん……」
あんな暴力を振るわれた後だというのに、トウゴの声は優しげだった。
俺にしがみつかれたまま立ち上がれない父に、諭すようにゆっくりと声を掛ける。
「ごめんなぁ。でも、決まりなんや」
「うるさいっ! そんなもんは関係ねぇっ!! 返せっ!」
「親父っ、落ち着けって……」
体勢が悪い所為で助かっているが、少しでも力を緩めたら殴られるだろう。
父は俺をくっつけたまま、手足の力だけでじりじりとトウゴに向かっていざり進んでいく。俺は父を止める為に必死でしがみついた。
「ごめん、トウゴさん……今日は帰って」
姉が父に対峙したまま、背後のトウゴに言う。
「分かった。悪かったなぁ。こんな時に無神経やった」
トウゴがよろよろと玄関に向かうのを見送りながら、俺は最後まで気を抜かずに父に抱き付き続けた。
「トウゴ! 由紀子を置いていけーっ! 由紀子ぉっ!!」
「親父、しっかりしろ!」
「由紀子っ、由紀子ぉっ!!」
ジタバタ暴れる父を横目に、姉がトウゴと一緒に玄関へと去っていく。
キシ、キシ、と二人分の足音が遠去かっていく。
しばらく何かを話している声がして、やがてギシ、ガララ……と玄関扉の音がした。
「ゆき、由紀子ぉ……」
いつの間にか力が抜け、父はその場に蹲ってしまった。




