第17話:浄化の炎
(な、何が起きてるんだ……?)
東護は地面に仰向けに倒れたまま、必死で視線だけを本堂に向けていた。
力は全く入らない。目を開けているのが精一杯の状態だ。たまたま倒れた角度が顔を本堂に向けていた為に見えているだけだ。
そこには、漏れ出る蝋燭の淡い光に浮かび上がるシルエットがあった。
バットを手にした若い男の背中だった。
数時間前に東護は菩提寺である徳修寺にやってきた。目的は、今起きている不可思議な現象を住職に報告し、対策を相談する為だった。
東護として新任の彼は、知識はもちろん経験が圧倒的に足りていない。先代の急な引退で、本来なら数年掛かりで行われる引き継ぎもされていないからだ。
だから、住職の住む庵へ向かう途中の本堂近くで、多くの人が倒れているのを見てパニックになった。オロオロしているうちに足元の位牌に気付き、そこに自分の名前が書かれているのを見た瞬間、体に力が入らなくなって倒れ込んだ後は、指一本動かせなくなっていた。
そのまま意識を失いそうになるのを必死で耐えた。根性というよりも、二度と目覚められないかもしれない、という恐怖からだった。
そうして、体感で数時間を耐えた時に、誰かが石段の方向からやってくる気配がした。
助けが来た!と思うと同時に、この誰かも倒れるのではないかとヒヤヒヤした。気を付けろ、と言おうとしたが口は動かなかった。
長時間、動けなかった所為で、恐慌状態からはとっくに脱出していたが、何一つ分かった事は無い。期待と不安が固まった全身に満ちていく。
ザワザワザワ、ザザザザ――ガキィン!
バサッバサッ、バサッ、
寺の境内で聞こえる筈のない大きな物音が続き、合間に男が何かを呟いているのが聞こえた。やがて、物音は近付いてきて、やっと東護の視界に男の姿が入った。
(は? 位牌を持ってる?)
男は手に位牌を持っていた。
そして、それを雑に下に置き、そのままバットを構えた。
(は? え? 何を……??)
「ふんっ!」
バキィッ!!!!
(はあああああっっっ!?)
聞こえてきた衝撃音に、東護は信じられない思いで男の背中を見詰めた。
(ば、バカな……! あいつ、バットで本堂を殴ったーーっっ!?)
「まだまだっ!」
バキッ! ガツンッ!! ガッ、ガツッ!
(うわっ、うわっ、ひえええーーっ!)
聞こえてくる音に耳を塞ぎたくなるが、体は全く動かない。
目を閉じて堪えるが、全身から血の気が引いていくのを感じる。
(こ、この罰当たりがっ! ……あの男、下手すりゃ死ぬぞ……!)
現報なんて、これっぽっちも信じていない。
信じてはいないが、今現在、東護はその不可思議な力の所為で動けないのだ。
それに、ここは菩提寺のお膝元だ。周囲にある家は全て敬虔という名の皮を被った狂信者ばかりだ。こんな暴挙がバレたら、生きた人間から物理で現報を食らいかねない。
バキッ、メキメキッ、バリッ!
本堂が破壊されている場面から本能的に目を背けていると、破壊音が収まった。
代わりに、男の呟きが聞こえた。
「コース良し……」
聞こえてきた言葉に思わず目を剥く。
男は位牌を手にしていた。そして、ゆっくりと振りかぶり……
(おいおいおい、待て待て待て……)
「返すぜっ!」
(うわあああああーーーーっ!!!!!)
パァァンッ!
(位牌を投げるヤツがいるかーーーーッ!!!!)
あまりの衝撃に、咄嗟に腕が動いた。
気付くと、東護は頭を抱えていた。
(……え? 体が動く?)
恐る恐る腕を動かした。――動く。指も、首も、足も。
ミシミシミシ、バキバキバキ……
呆然としている間も、不穏な音だけが響く。
動けるのに、頭が真っ白で立ち上がれなかった。
ズ、ズ、ズ、……
ドスン!
(……何が起きてる?)
もう想像もしたくなくて、東護は恐怖に震えるしか出来なかった。
それは、いくら迷信だと分かっていても消す事の出来ない、幼少期から刷り込まれた禁忌への畏怖だった。
その時、瞑った目にふわりと淡い光を感じた。
恐る恐る目を開くと、目の前で光の粒子の残滓が消えようとしていた。そして、さっきまで確かにあった筈の、自分の名が書かれた位牌が姿を消していた。
「え……ええ……?」
その光に向かって手を伸ばしたが僅かに遅く、ふわりと消えてしまった。
「なんだ、今の……」
呆然としていると、別の場所から声が聞こえてきた。
「か、体が動くぞ……」
「おい、大丈夫かっ?」
「ヨシ、ヨシが起きねぇ!」
倒れていた檀家衆が次々と意識を取り戻した。
まだ目を覚まさない者も居るようだが、暗くて声しか聞こえない。自然、僅かな灯りを求めて、意識のある者は本堂へと向かう。東護もそれに習った。
しかし、そこには無惨に壊された格子扉があった。そして、空いた穴から覗く本堂内に、御本尊の姿は無い。あるのは後方へと倒れている木の台座の残骸だけだ。
「え、えらいこっちゃ……」
「なんちゅーことを……徳修寺さんがっ!」
すぐにでも扉を開け、御本尊を確認しないといけない。それが分かっているのに、騒ぐだけで誰も率先して動こうとしない。お互いの顔色をちらちら見合って、心配そうに本堂の中を覗くだけだ。
(そりゃ、誰だって行きたくないわ)
その様子を離れた位置から眺めて、東護は思う。自分の領分じゃないので口出しはしないが、どうするのが『正道』なのか分からないのだろう。
「せやけど、月番でもないのに、勝手な事したらあかんのとちゃうか」
「御本尊があの有様のまま放っとけへんやろ」
「じゃあ、お前が行けばええやろ」
「誰か、おじゅっさんを呼んで来いや」
(厳格な教義って面倒だよなぁ)
ひとつ間違うだけで、現報を受ける。
敬虔な信者ほど間違えまいとする。だから、今回のような想定外の事態に動けなくなってしまう。
パチ、……パチ、……
(ん? 焦げ臭い……)
本堂の灯りが少し明るくなって、煙が上がっているように見える。
扉の前に集まっている檀家衆も同時に気付いた。
「おい、蝋燭が……!」
「アカン、何かに引火したんかっ」
気付いた二人が寺の横に置かれた防火用水の桶に走る。
年配の男が躊躇しつつも、破壊された穴から手を突っ込んで鍵を開けた。
「うわっ!」
扉が開いた途端に一気に炎が広がった。
木の床を滑るように炎が走り、並べられた位牌を次々と包んでいく。
「みず、早く、水っ!」
ものの数分も掛からず、火は柱を伝い天井にまで登る。
ゴオッと強い風が内側に向かって吹く。
(これは、いくら木造にしたって、早過ぎるだろ……)
呆然と立ち尽くす東護の前で、本堂はもはや炎を吐く箱と化していた。
開け放たれた扉からは、外の空気が濁流のように堂内へ吸い込まれていく。その強烈な追い風で、防火用水を抱えた檀家衆がよろめいた。
「かけろっ! 早くっ」
バケツに入った水を火に向かって掛ける。急いでそれを四回。
しかし、炎の勢いは全く衰えない。
「もっと持ってこい! はよせえっ!」
空のバケツを持って二人は走り出す。だが、無駄なのは誰の目にも明らかだった。
――火を消そうとしたという言い訳の為の行動。
「燃え広がらないようにする方が良いんじゃないですか?」
一歩引いた場所にいた東護の言葉に、本堂前で立ち尽くしている男が振り向く。炎に炙られた顔には恐怖と戸惑いが同居していた。
「……もう終わりや」
男が膝から崩れた、その瞬間。
天井に達した火柱が、意志を持ったようにぐるりと旋回し渦を巻いた。本堂の閉ざされた空間の中で、炎の竜巻が牙を剥いていた。
「危ないっ!」
慌てて、男の腕を取って本堂から距離を取った。
炎はありとあらゆる隙間から噴き出し、その姿を現した。
パキパキと音を立てて燃え盛る無数の位牌が、その猛烈な上昇気流に巻き上げられ、炎の壁の中で狂ったように乱舞する。
それはまるで、寺に巣食う化物が、炎に焼かれながら断末魔の悲鳴を上げているかのようだった。
横を見ると、水を持ったまま突っ立った二人がいたが、もう水を掛けられる距離には近付けそうにない。
真夜中の空が赤黒く染まる。
渦から解き放たれた無数の火の粉が、夜の闇へと静かに舞い上がっていった。




